円覚寺の至宝 鎌倉禅林の美(1) 建築物

円覚寺は、弘安5年(1282)に、鎌倉幕府の時の執権・北条時宗(1251~1284)によって開創された。その前年に、弘安の役がり、そこで亡くなった多くの人々を弔う為であった。円覚寺の開創と元寇は大きな関りがあった。モンゴル帝国は、チンギス・ハーンによって創設された大国であり、最盛期には、東はヨーロッパ、南はアフリカ、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、その領土を拡大した。第5代皇帝クビライ・カーンは、文永5年(1268)、日本に対して高麗を通じて、国交を求める文書を遣わした。その年に、わずか18歳で執権に就任したのが北条時宗であった。時宗は、「兵を用うるに至りては、それたれが好むことろならん」といおう脅かしとも取られる言葉の入った国書を無視した。その後再三にわたり、国交を求めてきたにも関わらず、時宗は一切取り合わなかった。そしてのちに文永11年(1271)、モンゴルは、国を大元に改め、高麗に命じて約4萬の軍勢をもって日本を攻めさせた。文永の役である。対馬、壱岐は、必死の奮戦も空しく全員が虐殺されてしまった。更に元軍は、博多湾を襲い、箱崎付近に上陸した。日本の武士たちも懸命に応戦し、少弐影資(かげすけ)が追撃する敵将である、副司令官に当たる劉復亨(りゅうふくこう)を矢で射落とした。追撃をあきらめた元軍は海上に退却し、その夜のうちに撤退していった。明くる年には、元の使者、杜世忠らが来航したが、幕府は鎌倉に護送した。時宗は、鎌倉滝の口において使者を斬首の刑に処した。元に対して毅然と戦う決意を示したのであった。弘安4年(1281)元は東路軍4萬の軍勢を朝鮮半島から派遣した。壱岐対馬を襲い、志賀島能古の島を占領、宗像の海岸で激戦を繰り広げた、更に江南軍を南方から十萬の軍勢をもって攻めさせ能子島、志賀島、鷹島に上陸した。両軍必死のb戦いが続いたが、防風雨によって大軍は撃破してしまった。時宗は、二度に亘る元寇の心労が重くなった。弘安7年(1284)病の床に臥すようになり、出家得度して4月4日に亡くなった。34才の若さであった。弘長3年(1262)、時頼が亡くなると、もはや日本に禅を理解する者無しと、譜寧が宋の国に帰ってしまった。時宗は、建長寺を開山された蘭渓道隆に参禅していた。更に文永4年(1267)大休和尚が来日し、時宗はこの宋僧に師事し参禅した。後に仏源禅師と諡されて、円覚寺2世となった。また無学祖元は、時宗の要請に応じて弘安2年(1279)に中国から鎌倉へきて、まず建長寺の住職となり、後に円覚寺に迎えられた。本稿は、「円覚寺の至宝ー鎌倉禅林の美」であるが、まず円覚寺の僧房について説明したい。(尚、「円覚寺の至宝」展には、僧房の出展は無い)

総門

北鎌倉の駅から望める。円覚寺の入口であり、総門と呼ばれる。階段を上がると、円覚寺の入口に当たる「山門」に至る。

山門    木造   江戸時代

円覚寺の山門であり、「円角興聖禅寺」の扁額を架けている。ものさびた山門であり、ここが円覚寺の正規の入口である。もとは横須賀線の線路あたりも境内であったそうだから、山門の歴史もそれほど古くないのであろうか。現在の山門は、天明年間(1781~894)、第189世によって再建されたものである。山門は「三門」とも呼ばれる。夏目漱石の「門」に描かれた「円覚寺の山門」である。楼上には十一面観音像、十六観音像が安置されている。

選仏場  木造    江戸時代(1699)

選仏場とは、修行僧の座禅道場のことである。現在の建物は、元禄年間の11699年に伊勢長嶋城主松平忠充が、江戸月松寺・徳運住職の勧めにより、大蔵経を寄進し、それと共に所蔵する場所と禅堂を兼ねた建物を寄進したものである。

仏殿     鉄筋コンクリート     昭和時代(1963)

円覚寺の仏殿(大光明殿)は、1964年(昭和39年)に再建された鉄筋コンクリート造りの建物である。もとの仏殿は、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊し、その40年後に再建された。禅宗様式で、本堂は宝冠釈迦如来坐像で脇侍の梵天立像と帝釈天立像は、ともに市の文化財に指定されている。仏殿前のビャクシの古木は市の天然記念物に指定されている。

開基廟(仏日庵)

円覚寺を創建した北条時宗を祀る仏日庵・円覚寺塔頭の一つである。円覚寺境内の中では一番人気があり、参詣する人が絶えない。拝観時にお茶を楽しめる唯一の場所であり、それもあって参拝者は絶えない。

国宝  舎利殿      鎌倉時代

舎利殿は、円覚寺の奥にある由緒ある建物である。舎利殿の名称の通り、仏の舎利(骨)を祀る一番大事な建物である。舎利殿の建築様式は鎌倉時代の唐様の建築物の中で代表的なものである。屋根が大きいこと、礎石と柱の間に基盤があること、柱は丸く上端と下端を細くする粽の様式をとっていることなどに特徴がある、窓は花頭窓になっていることなどに特徴がある。唐様・天竺様・和様の三種類があるが、円覚寺の舎利殿は、唐様の代表的な遺構である。非公開で簡単に拝めないが、私は幸運に、拝観の機会を持てた。将軍実朝が宋から招じて仏舎利が収められてあった。以前は、鎌倉時代創建のままと考えられていたが、最近になって安永7年以降三回の火災にあったことが明らかになった。現在の建物は永禄6年(1536)の火災後に鎌倉内の尼寺の大平寺の建物を移したものらしく、(鎌倉時代の建物)、優雅な感覚が先に立つ。瀟洒な木組み、水のゆらめきを思わせる欄干の波型連子技巧はあくまで繊細である。最近、屋根を藁拭から杮葺へと復元し、よりすっきりした。

 

「円覚寺の至宝」展から外れるが、円覚寺を知らない人も読者の中にいるので、まず鎌倉円覚寺の現存する建物を紹介し、「円覚寺の現状」を理解してもらうことが大切と思い、冒頭にこの章を設けた。勿論、図録には全く出てこない。参考までに円覚寺の建物を通して、円覚寺の歴史、元寇の乱を理解してもらいたいと思った。

本稿は、「探訪日本の古寺ー東京・鎌倉」、カラーブックス「鎌倉の古寺」、カラーブックス「秘宝のある寺(鎌倉)
を参照した)