円覚寺の至宝ー鎌倉禅林の美(2)

鎌倉に幕府が出来ると、新仏教が鎌倉の地に進出してきた。北条氏が執権として政権を握った頃、新仏教の一つである禅宗は北条氏の保護を受け、建長寺のなどの寺院ができた。室町時代になって三代将軍足利義満の時に、中国の宋の制度にならって五山をつくることになり、京都五山・鎌倉五山が定められた。五山は禅宗寺院のうち最高の寺格を持として五つを定めたもので、鎌倉五山は建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄明寺の五つである。鎌倉五山の学僧たちは漢詩・漢文などの優れた作品を作り、それらは五山文学として高く評価されている。五山の住職たちは自らの肖像画を作り、次の住職となるべきものにそれを与えた。それが頂相(ちんぞう)である。五山のうちには現在、托鉢を行ったり、座禅の会を開くものがあり、昔の在り方を今に伝えている。

重文 蘭渓道隆坐像  木造・彩色  鎌倉時代(13世紀) 建長寺

建長寺の開山、蘭渓道隆の頂相彫刻。建長寺の西来庵にある開山堂に安置されている。頂相とは禅僧の肖像画を指すが、本像は頂相を彫刻に表した一例である。頂相彫刻は、体部正面で払子や竹箆を執るか禅定印を結び、曲彔に座して着衣を垂下させ、沓を置く姿を通形とする。本像は、表面が厚い漆で覆われていたが、近年の修理で取り除かれた。蘭渓道隆が示寂した弘安元年(1278)頃の作と考えられており、頂相彫刻の中でも早期の優品として名高い。

国宝  蘭渓道隆 自賛 絹本着色 鎌倉時代 文永8年(1271)建長寺

蘭渓道隆(1213~78)は、中国の禅僧で寛元4年(1246)に来朝し、京都泉涌寺来迎印の住した後、鎌倉の寿福寺に寓居し、北条時頼の招聘により建長寺の開山となった。日本に本格的な純粋禅を伝えたとされ、示寂後に大覚禅師の諡号(しごう)が贈られている。本図は、竹箆を持ち、曲彔に座す姿を描いており、繊細な墨線と熊取を施した頂相には生彩がある。頂相彫刻と同様、痩身に厳しさを漂わせ、日本で描かれた南宋様式の頂相図として高く評価されている。(国宝)

重文 無学祖元坐像          木造彩色   鎌倉時代(13世紀)  円覚寺

円覚寺の開山、無学祖元の頂相彫刻で、通常は舎利殿背後に所在する開山堂に安置される。払子を採り曲彔に座し、着衣の裾と両袖を垂下させる通形の頂相彫刻である。しっかり前方ををとらえた眼差しからは、内に秘めた強靭な意志を感じさせる。上半身をやや前傾させて座し、着衣は厚みを持たせた張のある質感で、衣文をあまり刻まずゆったりと垂下しており、頂相彫刻の中でも特に優れた出来栄えを示している。

重文  無学祖元像 自賛 絹本着色  鎌倉時代(弘安7年ー1284)円覚寺

無学祖元(1226~86)は、中国の禅僧で蘭渓道隆歿後の弘安2年(1279)に北条時宗の招聘により来朝し、建長寺住持の後、円覚寺開山となった。その後も建長寺・円覚寺を兼官し、示寂後の諡号は仏光国司である。無学祖元の頂相は少なく、「仏光国司語録」に収録されている自筆の頂相25幅のうち現存するのはこの一幅だけで、貴重である。

重文 瀧見観音菩薩遊戯坐像(たきみかんおんゆげざぞう)木造彩色南宋時代(13世紀)清運寺

横須賀市に所在する清雲寺の本尊、右肘を立て右手を膝頭に置き、左足を下ろして左手を地面に付き、もたれかかるように座す。いわゆる「遊戯坐像」の一例である。現在は瀧見観音と称され、背後に滝が表された台座(後補)に座している。遊戯坐像は、中国玄宗時代の仏画に見出だされ、特に中世の鎌倉周辺における絵画・彫刻に大きな影響を与えた。本像は鎌倉文化圏における宋風彫刻を考えるうえでも重要な作例と言える。

重文 被帽地蔵菩薩像 絹本着色  高麗時代   円覚寺

死後に亡者が冥界で十人の王に裁かれるという十王思想を背景とし、地獄の救済者としての地蔵菩薩と十王を組み合わせた地蔵十王図が西域由来の図像として流布した。錫杖を執り、頭巾を被る地蔵菩薩像を中尊とし、十王を伴なう地蔵十王図は、敦煌出土の唐時代(8世紀)の古例が知られ、その後、朝鮮半島にも伝播し高麗時代後期の仏画に遺品が多く見られる。地蔵菩薩の寶珠や頭巾、衣に見られる透ける薄物の描写や、衣や無毒鬼王が捧げる経箱に精緻に頭巾、衣に見られる透ける薄物の描写や、衣や無毒鬼王が捧げる経箱に精緻に施された繊細な文様から十四世紀にはじめころの高麗仏と見られる。

重文 前机  木製漆塗り 鎌倉~南北時代  円覚寺

前机とは、須弥壇や尊像の前に置き、三具足(華瓶・蝋燭・香炉)と呼ばれる供養具を載せる机のことである。禅宗とともに宋の装飾様式がもたらされるようになるが、本作もその一つで、宋風の意匠・技法が鮮明な作例である。本作は円覚寺開山である無学祖元像の前に置かれて用いられてきた。

重文 無窓礎石坐像  木造彩色  南北朝時代(14世紀)  瑞泉寺

無窓礎石の頂相彫刻で瑞泉寺の開山堂に安置される。無窓礎石は、高峰顕日に師事し法を継ぎ、円覚寺・浄智寺などの住持を歴任したほか、瑞泉寺や京都の禅宗寺院の開山となり、鎌倉~南北朝時代にかけて鎌倉や京都を中心に活躍した。彼の一派は無窓派と称され、当時の禅宗における支流となる。一方、庭園、和歌、漢詩など禅文化の興隆にも尽力した。無窓礎石の頂相は多くの作例が存在するが、頂相彫刻としては本像が傑出した代表的な作例である。小ぶりなものが多い鎌倉周辺の頂相彫刻の中では珍しく等身大の大きさで表されており、制作時期は観応2年(1351)の示寂に近い頃と思われる。

重文  東明慧日坐像  木造彩色  南北朝時代(14世紀)  白雲庵

円覚寺第十世東明慧日の頂相彫刻。東明慧日は中区の僧で、北条定時に招かれて来日し、円覚寺・建長寺・寿福寺などの住持を歴任した。本像が安置されている白雲庵は東明慧日の塔所である。本像は東明慧日の姿を現した唯一の頂相彫刻で、腹前に禅定印を結び、着衣の袖と裾を垂下させて座す。東明慧日は暦応3年(1340)に白雲庵で示寂したが、本像も示寂前後の作と考えられる。

重文 銅像阿弥陀三村像 銅造・彩色 加茂延時作 文永8年(1271)円覚寺

+

銅像の阿弥陀三尊像で、中尊の台座連肉下枘部に刻まれた銘により、文永8年(1271)に鋳物師賀茂延時によって鋳造された事が判明した。円覚寺創建よりも早い時期の作であるが、鋳造当時の伝来については不明である。中尊と両脇侍の三尊が一つの光背を背にする一光三尊形式で、中尊は右手施無畏印とし、左手は垂下し、第二、第三指を伸ばし、両脇侍は両手を胸前で重ね合わせた梵蕎印を結ぶ。善光寺阿弥陀式三尊像は、阿弥陀信仰の隆盛に伴い関東を中心に多くの模造が造立されたが、本像もこの一例にあたる。

重文 跋陁羅尊者像(ばったらそんじゃぞう) 紙本墨画淡彩 室町時代 円覚寺

大画面に、竹杖に預けて立つ老羅漢を描く。跋陀羅尊者は、「首桁厳経」に水因により悟りを開いたと説かれるため、寺院の浴室の本尊として祀られる、画面左下に「宋淵筆」の落款とともに「如水」が捺され、円覚寺の像主であった如水宋淵の筆とされる。宋淵は雪舟等様(1420~1506?)に師事し、明応4年(1495)の帰郷に当たり、破墨山水図(国宝)を付与された。繊細な小画面の山水が多い宋淵の作例中では、珍しく雪舟風が強く打ち出されていると言えよう。また、鎌倉に伝存する唯一の作例として貴重である。

 

「円覚寺の至宝ー鎌倉禅林の美」展は、三井記念美術館で4月20日より6月23日まで開催されている展覧会である。鎌倉は、東京に近いため、鎌倉の寺院を展覧会に選ぶ事例は少ない。私は、鎌倉の寺院は詳しく、鎌倉近辺の会員制マンション(逗子マリーナ)を持ち、毎月のように、鎌倉の古寺や、近代美術館を見て歩いた経験があり、大変懐かしく拝観できた。円覚寺のお寺の写真は、この展覧会に出品されたものではなく、私が集めた写真集より、拾い集めたものである。     記事を書くにあたり、重要文化財と国宝に重点を置いた。それはあまりにも多い寺宝の中で、選び抜かれたお宝であるからだ、ご承知のように、鎌倉の各寺院は11月1日から7日頃まで、「「寺宝風入れ」と称して、無料もしくは低廉な価格で、寺宝を開放する期間がある。良く見学したものであるが、残念なことに、図録を発行しないし、余りにも多数の寺宝を拝観するために記憶に残らないことが多い。それにしても第一級の作品を多数集められた三井記念美術館に感謝したい。図録も、丁寧に書かれているため、非常に参考になり、学ぶ点が多かった。関係者のご努力に感謝したい。

 

(本稿は、図録「円覚寺の至宝ー鎌倉禅林の美   2019年」、探訪日本の古寺第3巻「東京・鎌倉」、
中央公論・日本の歴史(全26巻)の内、「第7巻鎌倉武士」、カラーブックス「鎌倉の寺」、「秘宝のある寺(鎌倉)
原色日本の美術第9巻「中世寺院と鎌倉彫刻」、第10巻「禅寺と石庭」を参照した)