出光美術館 江戸絵画の文雅ー魅惑の18世紀

元禄年間(1687~1704)は江戸文化の爛熟時代を迎えた。日本は経済活動の発展により、空前絶後の繁栄を極めた。開府よりおよそ100年を迎えた江戸の人口は100万人を突破し、世界最大級の都市となった。そして大阪、京都もまた数十万規模の大都市へと発展した。日本における「都市」という新たな生活空間の誕生は、文学・演劇・美術など、多様な文化の成立・発展に結び付いた。これら文化芸術の特質を端的に表す言葉に「雅俗」、すなわち漢文学・和歌に代表される伝統的な「雅」と、俳諧や戯作といった新興の「俗」がある。この二つの文野が画然と分かたれてるものではなく、実際は相互に混じり合いながら、豊かな文化構造を形成していった。古くから文芸と絵画は不可欠の存在であり、雅俗の混交は、画壇にも当てはまるものであった。「雅」なるものの象徴とも言える文人画においては、漢文学に対する深い素養とともに、俳諧など「俗」なる文芸が重なり合いながら、日本独自の情趣性を帯びていった。この雅俗の絵画をキーワードに見て行く趣旨の展覧会であった。中国で生まれた、正統な画として君臨した文人画。画家の精神性を尊ぶこの絵画が日本で花開いた。そしてこの中で、日本の文人画を象徴する二人の画家が生まれた。それが池大雅と与謝蕪村である。

蜀桟道図   池大雅作  絹本着色     江戸時代(18世紀)

蜀桟道は、長安と蜀の都・成都の間の大山脈を越える難路である。古くより陜西と四川を結んできた交通の要所として知られる。3千メートル級の豊嶺山脈の断崖に穴を穿ち、穿った穴に柱を差し込んでで丸木を組んだ道は、人馬が一列になってやっと進める広さである。盛唐の詩人・李白が「蜀道の難は、青空に上がるよりも難し」と詠じるなど、古来、詩文や絵画の好画題となった。大雅の描く桟道も馬が落ちてきそうなほど急峻だが、馬上の人物の表情は愉しげで、振り返って聲を掛け合っている姿は滑稽なほどである。古来の文人画のイメージは、大雅特有のおおらかな人間性によって、今まで誰も無しえなかった明るく開放的な主題に生まれ変わった。

寒林弧鹿図  与謝蕪村作  絹本着色    江戸時代(安永8年ー1779)

蕪村は安永7年(1778)より、私淑する明時代の画家・唐寅にちなんで「謝寅」の号を用い始める。時に蕪村63歳である。多様な展開を見せた蕪村の画業は、これ以降円熟期を迎えることとなる。本作は謝寅時代の名品と呼ぶにふさわしい作品である。冷え冷えとした晩秋のくさむらの中を走る一本の道。そこを行くのは一頭の鹿である。道の脇を勢いよく流れる川の源をたどると、後景で高々と聳え立つ峻嶮な山へと行きつく。荒涼としてた情景と寄る辺ない鹿の姿が見る者の胸に迫る。本作において、峻厳な面持ちを見せる中国画風の山水でありながら、画面全体からそこはかとなく日本的情趣を感じさせるのは、物哀しいながらも飄逸な雰囲気を漂わせる鹿がなんともいえぬ俳味をかもしだしているためであろう。中国と日本、雅と俗が混交した、蕪村の達成を象徴する一作と言えよう。

龍山落帽図 与謝蕪村作    紙本着色  江戸時代(宝暦13年ー1763)

中国の晋時代、将軍・亘温が龍山で酒宴をもよおした時、補佐官の猛嘉の帽子が風で飛ばされた。周囲は猛嘉の失態を嗤ったが、猛嘉は当為即妙に返答し、かえって名を挙げたと言う。風流洒脱な文人をあらわすこの「猛嘉落帽図」の故事を、本作で蕪村は色彩豊かに描いている。中間色を多用しながらもヴィヴィッドな色彩感覚や奇矯な人物表現は、明末に活躍した徽宗派の画家を想起させる。当時の人々が描いた理想の文人表象を見て取ることができる。

国宝 夜色楼台図 与謝蕪村作 紙本墨画淡彩江戸時代(宝暦11年ー1761)

蕪村が最晩年m安永7年(1778)63歳から没するまでの5年間に描いたとされる作品の一つである。画巻を思わせる横長の画面は「夜色楼台雪萬家」の題で始まり、その左に雪降る夜の街並みの画が続く。しかし描かれているのは、中国の山水画で理想とされる雪に閉ざされた秘境ではなく、京都の東山ににた、どこか懐かしささえ感じる、ゆるく優しく引かれた山並である。家々の窓には室内から漏れる灯火の代赭が施され、人々の生活の温もりが伝わってくるようだ。俳諧を通じて、和漢の文学に精通した蕪村ならではの、雅と俗が融合した江戸中期を代表する名作である。実は、出光美術館の「江戸絵画の文雅」を拝観した大半の目的が、この蕪村の「夜色楼台図」を見ることが目的であり、この絵さえ見れば、目的はほぼ達成された。名画に接した興奮は、何物にも代えがたい歓びである。

重文山水図屏風与謝蕪村作六曲一双(一部)江戸時代(宝暦13年ー1763)頃

左右の両端に山並みを描き、中央に水景を配する。安定感のある雄大な構図の山水屏風である。右隻には青々とした木々が茂る春から夏にかけての風景が描かれている。第二扇の山並みの背に暮れ行く夕陽がうっすらと描かれ、空全体をほの赤く染めあげている。水亭には団扇を手にくつろぐ高士が配され、木々の葉はそよ風に揺れる。夏の夕暮れの爽やかな情景である。一方左隻では、木々の葉のあちこちが赤く染めあげられ、深まる秋の気配が感じられる。山に抱かれるようにして立つ茅屋の中には、青い衣を着た人物が一人。あるいはこれは蕪村かも知れない。光沢感のある布に描かれることによって、陽光のきらめきさえも表現されているようである。季節の微妙な変化までをも見事にとらえた、蕪村の鋭敏なまなざしが感じられる。

富士図扇面  伝尾形光琳作 下絵鈴木其一作  薄下絵 鈴木其一作 江戸時代

三保の松原を見越して雪をかぶった富士を望む。金地の扇面画である。落款がないため作者は不明であるが、光琳の系統に属する作例であることは間違いない。しかし、本来の光琳作とは思えないので、光琳の原本をもとに、次世代の絵師が描いたものと見做すのが妥当だろう。なお、本作は、掛軸に改められた際に、江戸琳派の絵師・鈴木其一(1795~1858)が薄を下地に描いている。本作の富士を「伊勢物語」「東下り」の段に擬した上で、同書の「武蔵野」を暗示させる薄を下絵として描いたのであろう。

梅に柳図扇面  伝 俵谷宗達作  紙本着色(上)     江戸時代    いんげん豆図扇面 伝 俵谷宗達作 紙本着色(下)     江戸時代

「琳派」の祖とも称される宗達(生没年不詳)は、「俵屋」という工房を率い、扇絵や料紙などを制作していたと考えられている。本作はこうした俵屋工房での扇面制作の実態をうかがい知ることができる珍しい作例である。「梅に柳図」はやわらかな筆墨で梅と柳の木が描かれ、そこに付け立で葉や花が描かれている。「いんげん豆」も緑青の付け立でインゲン豆を描き、下部には謹直な筆戦で波紋を配している。面白いのは画面余白で、各所に「銀泥」「金泥」など下地装飾の指示が認められる。これにより本作は、工房内で類品を制作するための粉本(見本)か試作品あるいは破棄された未完成品と考えられる。元和元年から寛永年間にかけて宗達工房内で制作されたものと推定できる。

芙蓉図屏風(一部) 六曲一双  伝尾形光琳作     江戸時代

群生する芙蓉が、花弁や葉に金や銀を用いて表される。図様の連続性が不自然である。もともと六曲一双で仕上げられた屏風がのちに一隻の屏風として再構成されたと考えられる。本作の伝称者である尾形光琳には、本作が呈する装飾性に富んだ金属的表現と通底する要素が感じ取れる。「絵画」と「工芸」の間を自由に行き来する光琳の特徴を良く感じさせる一作である。

重文 籠煙惹滋図  浦上玉堂作  紙本墨画     江戸時代

画面最下部の中央に配された土埞には木々が高々と伸び、その脇あずまやの中にはくつろぐ人物の姿が描かれる。その視線の先には水景が広がり、さらに奥に眼をやると、ひときわ高く屹立する峰を中心に、垂直方向に誇張して伸びる山々が立ちあがる。色紙程度の寸法の画面からは思いもよらぬほど広く深い光景が描かれている。画面左上には、玉堂自身による「籠煙惹滋」の四字題が見られる。玉堂が得意とする渇筆によって余すところなく表現されている。玉堂73歳頃の作品と見られる。

 

文人画の池大雅、与謝蕪村、琳派の宗達、尾形光琳、19世紀の浦上玉堂を取り上げ、「文と雅」を求めたが、矢張り蕪村の「夜色楼台図」に大半の興味を取られたの止むを得ないことだろう。但し、この絵はⅠ1月13日から18日までの6日間の展示であり、その期間は良く混んでいた。やはり、この絵を観たくて来た人が多かったようである。

 

(本稿は、図録「江戸絵画の文雅  2018年」、田中英道「日本美術全史」を参照した)