出光美術館開館50周年記念 美の祝典 Ⅲ 江戸絵画の華やぎ

日本絵画史上、大きな飛躍を遂げたのは江戸時代である。多彩な表現が確立し、公家と武家が拠点を東西に分かっ中、画家たちの世界はその双方を往来することによって互いに目覚ましい発展を遂げた。この時代を牽引したのは狩野派、琳派、そして浮世絵といった諸派の画家たちであった。桃山時代から江戸後期にいたるまで、社会的な階層を超えて、さまざまな輝かしい活躍をみせた名立たる画家たちの優品が、それぞれの美しさを見せてくれた。なお、写真の入手できるものが琳派に偏ってきらいがあるが、それは筆者の好みと理解して頂いて結構である。(7月18日まで)

南蛮屏風 六曲一双(左隻の一部)  紙本着色   桃山時代(16世紀)

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南蛮船、すなわちポルトガルやスペインからの船が日本の港に来航した情景を描くものである。本図は、左隻の沖合に停泊した南蛮船よりさまざまな積荷が陸へと運ばれる様が描き出されている。およそ、南蛮屏風は、日本に百点程存在すると言われるが、実際にどのような出来事が主題とするかは不明である。天正19年(1592)にポルトガル使節一行が京都をパレーどを行い、豊臣秀吉の歓待を受けたことが知られるほか、文禄元年(1592)の秀吉の肥前名護屋城築城に当たった、襖絵制作のために狩野光信一門の者が長崎で南蛮船入港を見て、その光景を描いたのが最初であるかも知れない。正に大航海時代の幕開けの時代であった。現存の南蛮屏風は、後の京都や名護屋で起こった南蛮ブームの高まりのなかで制作されたものと考えるのが適当であろう。また、数々の珍しい品々をもたらしす南蛮船は宝船にも見立てられ、招福趣味のなかで考案されたとも推測される。金雲で画面の上下を分断して二画面を構成する手法は、狩野派の絵師によるものと推測される。

重要文化財 更衣美人図  喜多川歌麿作 絹本着色  江戸時代(18世紀)

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寛政4年(1792)に、勝川春章(1723~92)が世を去ったのち、まさにこれと入れ替わるようにして浮世絵美人画界に登場したのが喜多川歌麿だった。寛政4,5年頃、いわゆる大首絵の形式を美人画にはじめて導入したことに象徴されるように、歌麿の功績は、描かれた人物の生々しいばかりの実在感を、鮮烈に訴えかけることである。この作品が歌麿の中で、最も成功した事例であろう。

伊勢物語 武蔵野図色紙  俵谷宗達作  紙本着色  江戸時代(17世紀)

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「伊勢物語」は、在原業平と目される男を主人公とする歌物語である。主人公の男は、ある人の娘とともに武蔵野へ逃げるが、追手が真近に迫ってくる。男は草むらに女を隠して逃げるが、追手は男女が潜む野に火をつけようとする。宗達(生没年不詳、17世紀活躍した画家)は、自らが主宰する工房の絵師たちを動員し「伊勢物語」に取材する絵画の制作を行った。本図は、現在59面が伝わる色紙型の作品群の1枚である。

蓮華絵百人一首和歌断簡 書 本阿弥光悦 下絵俵谷宗達 江戸時代(17世紀)

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俵谷宗達が下絵を描き、そこに本阿弥光悦(1558~1637)が和歌をしたためた巻子装の作品は、「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」をはじめ多数が知られている。この作品もこうした作例と同様、もともとは全長25メートルに及ぶ長巻であったが、関東大震災によってその半分以上が焼失したため、残りの部分が断簡として軸装に改められ、各所に分蔵されることとなった。本作品では、金泥でもって蓮の葉を真上からとらえた斬新な構図で描き、そこに三首の歌が書かれている。輪郭線を用いず、水気をたっぷり含んだ金泥に滲ませながら描かれた蓮の葉の描写は、宗達の水墨画の代表作「蓮池水禽図」にも通じる表現を見せている。

八橋図屏風(部分)絹本金地着色 六曲一双 酒井抱一作 江戸時代(19世紀)

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「伊勢物語」第九段東下りの場面を主題として、燕小花と八橋を描いたものである。絹地に貼った金箔に明るい絵具で表した燕小花が、ほがらかに画面を作りだしている。尾形光琳の描いた「八橋図屏風」(メトロポリタン美術館蔵)を忠実に倣って描いている。しかし、橋杭や橋桁の向きを変えたり、光琳画の燕小花の花群を減らし整理し空間を広げ、花の色も明るくして画面全体を柔らかな光に満ちたものへと変奏している。姫路藩主酒井忠以(ただざね)の弟として江戸に生まれた酒井抱一(1761~1828)は、能や茶のほか俳諧、狂歌に親しみ,さらには遊里での遊びにも長けていた。さまざまな文芸のなかで、絵については狩野派をはじめ、浮世絵や京都で興隆した写生画など、多くの流派を学び手中にした。出家した後、自ら光琳の百年忌法要を営み、「光琳百図」を出版するなど、光琳顕彰に力を注いだ。さらに抱一は、光琳の「風神雷神図」の裏面に「夏秋草図屏風」を描くなど、光琳への深い敬慕が込められた作品を数多く描いている。しかし、抱一は光琳の画風をそのまま継承したわけではなく、俳味や機知に富んだ、光琳が創りだした京都のものとは一風違った琳派の画風を江戸の地において、造り上げたのである。

紅梅図屏風 酒井抱一作 紙本銀地着色 六曲一双  江戸時代(19世紀)

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紅白の梅を対として左右の銀屏風に描いた。もともとこの屏風は、裏絵の屏風であった。つまり表となる作品の裏に描かれた銀屏風であったのである。光琳の「風神雷神図」と抱一の「夏秋草図屏風」の関係がすぐに想起されるが、表絵が誰の作品であったかは分からない。やはり光琳の金屏風であったのではなかろうか。紅梅はごつごつした樹皮に包まれ、強く曲がった幹が老木を、白梅のしなやかに伸びてしなう枝先が若樹を想起させるとも言われる。色と老若の対比を意図した抱一の個性を主張する大作である。銀色の屏風は珍しいが、燦然たる絵であり、琳派を代表する傑作であると思う。

四季花木図屏風 鈴木其一作 絹本金地着色  六曲一双 江戸時代(19世紀)

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画面全体を埋めた金箔地に根元を強調した楓の下部分が置かれ、満開の桜を色鮮やかに捉えている。左の楓の木が右に描かれた上部分だけの桜へと迫ってくるかのように配置されている。たらしこみによる滲みの効果を生かして描かれた楓の幹に青々とした葉をつけた春の景色である。本来、秋の景色に登場する楓であるが、青葉として描かれたために、型で描いたように正面を向いて密集する桜花の季節がいっおう強調されている。絵は春の盛りであるが、桜の葉が枯れる頃、左方の楓葉は色付き、鮮やかな朱の葉となることを見る人に思い起こさせることを、作者其一が想定しているという魅力的な意見がある。これも江戸琳派を代表する傑作である。

風神雷神図屏風 酒井抱一作  紙本金地着色 二曲一双 江戸時代(19世紀)

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右隻には、風袋を両手に持ち、天上より舞い降りる風神。大きく見えを切って今まさに雷を落とそうとする雷神。kのユニークな図様が、宗達の代表作「国宝 風神雷神図屏風」(建仁寺)を源としていることは広く知られている。風神・雷神は古くからそのイメージが見られ、三十三間堂の彫像や、「北野天神縁起絵巻」(弘安本系)の清涼殿落雷の場面における雷神、また「長谷寺縁起絵巻」にも風神・雷神の姿が描かれ、その造形は人々になじみ深いものである。あまつさえ金地の空間に描くなどという前例は見当たらず、この点に宗達のずば抜けたオリジナリティーを見て取ることが出来る。本図は、光琳が宗達本を模写した「風神雷神図屏風」(東京国立博物館蔵)を抱一が転写したものである。抱一が出版した「光琳百図後編」の最終頁には、抱一が実見した光琳本「風神雷神図」が掲載されている。先行する宗達本・光琳本と比較すると、描線は簡略化され、色彩も明るいものになっている。また風神・雷神の面貌もこころなしか滑稽さが増しており、全体的に軽みのある平明な表現が抱一本の特徴と言えよう。琳派の「風神雷神図」は軸装や、扇面など様々な作品がある。

 

予想通り大半の記事が琳派の絵画になった。これは必ずしも私個人の好みだけでは無いと思うことが間々ある。例えば、先に開かれた伊勢・志摩サミットの昼飯の会場では、向って左側のガラス面は、この八ッ橋図屏風(実際は、酒井抱一画ではなく、多分尾形光琳の八ッ橋図屏風{メトロポリタン美術館蔵}だと思う)が大きく描かれた画面が写っていた。また、国宝 迎賓館 赤坂離宮でも「朝日の間」には尾形光琳のカキツバタの模写が展示されていた。「彩鸞の間」では、尾形光琳のキリシマツツジ絵の模写、酒井抱一の桜・山鳥の絵の模写が展示されていた。明治の昔から、今日まで、日本の美の代表選手は、琳派であったのである。今回の展示は酒井抱一、鈴木其一が多かったが、酒井抱一の金地の「風神雷神図屏風」と鈴木其一の銀地の「紅梅梅図屏風」の対比は、正にこの展覧会の最大の見所であった。

 

(本稿は、図録「出光美術館開館50周年記念 美の祝典」、図録「物語絵 2015年」、図録「大琳派展 2008年」、日経大人のOFF2016年1月号)を参照した)