北斎とジャポニズム展  北斎と植物画、風景画(1)

鎖国の国、謎の国であった日本について西洋諸国に詳細な報告を残したのは、出島のオランダ商会員たちであったが、彼らは同時代の北斎の絵本や肉筆画を西洋に持ち帰った。なかでもシーボルトは、北斎に言及し、絵本から取った画像を1832年に刊行する「日本」に複製として掲載したのである。西洋では日本への関心が非常に高まった。そうした中、ルネサンス以来の美術の規範に閉塞感を感じていた西洋の芸術家たちが、日本美術の新しさ、珍しさに魅了され、そのエッセンスを消化しながら、自らの創作活動を展開した。この現象が、ジャポニズムである。特に、浮世絵師・葛飾北斎の存在感は圧倒的であった。人物から風景まで、森羅万象を大胆にかつユニークに描いた北斎は、参照される頻度も群を抜いていた。モネやゴッホの事例は、先の「華麗なるジャポニズム展」で、充分披露されたが、近年、世界的にジャポニズムの研究が進む中で、北斎の影響はイギリス、フランスに止まらず、広い地理範囲に、また絵画だけでなく、彫刻や工芸、グラフィック・デザインなど様々な分野にわたっていたことが明らかになった。今回は、北斎と植物、風景画の一部について記載することにした。西洋の絵画のジャンルのなかで植物は花瓶に活けられて描かれた。自然から切り離され、やがて枯れてゆく一時の華やぎを見せる花々には「死を忘れるな(メイント・メモリ)」というキリスト教のメッセージが託されていたのである。反対に、花鳥画をはじめとする日本美術では、花々は地上に根を張って空を仰、ときに風に吹かれ、ときに蝶がその周りを飛び交う蛙が葉の上で休む。こうした大きな自然の一片として植物を捉えたが、彼らが見た日本美術のなかには、北斎が描いた花々も含まれていたに違いない。また風景画も驚きをもって取り入れられた。

牡丹に蝶 葛飾北斎作 天保2~4年(1831~33)頃江戸時代(19世紀)

画面いっぱいに花を配する大胆なトリミングは、従来の日本の絵画のでも他を凌駕するものがある。風に逆らいながら飛ぶ蝶の姿形も見事である。

黄色いアイリス クロード・モネ作   1914~17年頃

花の絵と言えば西洋では静物画として描かれる習慣があった。その際、花は切り取られて花瓶に活けられたものである。日本で描かれる「花鳥画」は、型にはまった花の描写ではなく、自然の中に風が吹き蝶やトンボが飛び交う姿を描くものであった。クロード・モネの「黄色いアイリス」は、画家が自然に近づくことでクローズアップされ、画面の中央を堂々と占めている。モネの「黄色いアイリス」は、後のモネの「睡蓮」の連作を想定させることでも、重要な絵画であろうと思う。

「ばら」 フィンセント・ゴッホ作   1890年

1888年12月末にゴーギャンとの共同生活が破綻して以来、ゴッホは精神障害の発作を繰り返し、89年5月上旬には自ら療養院に入った。この「バラ」は療養院の荒れた庭のバラの茂みを描いたものだろう。淡いピンク色の花を咲かせたバラが低い視点からクローズアップで捉えられ、描かれている。このような構図は浮世絵やジーグフリード・ビングの「芸術の日本」の挿図など、日本美術の影響が見てとれる。

「北斎漫画」四編 葛飾北斎作 文化13年(1816) 江戸時代(19世紀)

日本美術になじみ深い雪景色図である。ナンシー派のガレやドーム兄弟の装飾品や、北欧の画家に影響を与えている。

冬  アクセリ・ガッレン=カツレラ作   1902年

北欧(ヘルシンキ)の画家たちが至近距離で描いた雪景色は、北斎の影響を強く受けている。この地ではいち早く日本美術を受容した。豊かな自然を描く伝統のあった北欧では、日本の自然表現も受け入れやすかっただろう。ここから先は、「北斎と風景画」に移る。

「富嶽百景」二編  葛飾北斎作 天保6年(1835) 江戸時代(19世紀)

「富嶽三十六景」は、知らない日本人はいないと言っても良い浮世絵の最高傑作である。しかし「三十六景」と言いながら、実は46図あることは、案外知られていない。それと同様に「富嶽三十六景」は有名であるが、この「富嶽百景」と呼ぶ連作があることも案外知られていない。「富嶽百景」は冊子形式3冊で、墨のみで描かれている。白黒の刷り本である。これも良く売れた本であるが、色彩が付いていないため、現在では知る人が少ない。太宰治が「富嶽百景」の中で次のように述べている。「富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度、北斎にいたっては、その頂角、ほとんど三十度くらい、エッフェル塔のような富士さえ描いている」と書いている。この「富嶽百景」の「竹林の不二図」は、面白い構図である。

木の間越しの春  クロード・モネ作   1878年

風景画を描く時に、西洋ではルネサンス以降のなかでは、まず画面の中心に消失点を想定して、そこに画面両側からの直線が交わるように構図を組み立てることが必要とされてきた。印象派はこのような規則に縛られずに、自らの体験を様々に表現したが、このモネの作品のような例はさらに斬新であった。この「木の間越し」の風景は、北斎の「富嶽百景」のなかの「竹林の不二」と似通っている。

「ボルディゲラ」 クロード・モネ作  1884年

この作品の構図も前出の「木の間越の春」同様、北斎の「富嶽百景」の「竹林の不二図」に似通っている。影響を受けたのであろう。

「富嶽三十六景 東海道保土ヶ谷」葛飾北斎作天保元~4年(1830~33)頃

この松並木越しに見る富士山の表現は、その赤い幹と葉のリズムが、行き交う人々とともに、活気のある画面を作り出している。

ヴァランジュヴィルの風景 クロード・モネ作  1882年

モネはこの北斎の東海道保土ヶ谷図の構図を模倣するのではなく、常に自らの体験をしようとするのである。本作については、モネは海を見晴らす道沿いにリズミカルでひょろっとした木々の並木を発見したのである。

陽を浴びるポプラ並木  クロード・モネ作  1891年

1891年の初夏から秋にかけて、モネが取り組んだのは、ジヴァルニー近郊のエプト川岸辺の「ポプラ並木」の連作である。この連作では、季節や時刻、天候の違いにより光や色彩の変化と、川辺のポプラ並木が作る垂直と蛇行線のリズムの響き合いが重要なテーマとなっている。本作も含め「ポプラ並木」の連作は、翌1892年春、パリの画廊で展示され、「積み藁」に続いて、大きな成功をモネにもたらした。この作品も北斎の影響があるような気がする。

「富嶽三十六景 駿州江尻」 葛飾北斎作  天保元~4年(1830~33)頃

甲州三島超と比較すると、軽やかな木が特徴であり、強風にうねりながら揺れる様が描かれている。北斎は、文政末から天保前期にかけて、まるでこの間にため込んだ画想をはき出すように、数多くの錦絵揃物を生み出している。「富嶽三十六景」など、今日の北斎の評価を不動ににしている名所絵揃物の多くはこの時期に描かれている。また、北斎の活躍によって浮世絵における名所絵がジャンルとして確立された。

「アンティーブ岬」 クロード・モネ作  1888年

モネが描いたこの作品の構図に、北斎の「富嶽三十六景 駿州江尻」の構図が、大きな影響を与えたものと思われる。

 

ジャポニズムとは、西洋の美術家たちが自分の芸術を発展させるために、日本美術の表現方法を取り入れた現象で、19世紀後半に生まれたものである。産業革命やフランス革命を経た当時の西洋は、社会が著しく変化していた。その中で、モネやドガといった印象派を中心に、画家たちもルネサンス以降の遠近法から脱脚した新しい表現を模索していたのである。装飾的な平面の構成や、絵が物を途中で断ち切るなどの大胆な構図を特徴とする浮世絵は印象派が目指す方向と一致していたと言える。画家たちは衝撃を受けるとともに、浮世絵の要素を自分の作品にどんどん取り込んでいった。変革を求めていた西洋の美術界にとって、浮世絵は大いなる触媒になったのである。当時、最も影響を与えた絵師が葛飾北斎だったのである。理由として「群を抜く画力や構図の妙に加え、圧倒的な作品の数と、花鳥画や名所絵、美人画など何でもこなす幅の広さがあったから」と、三浦篤・東大教授は説明する。

(本稿は、図録「北斎とジャポニズム  2017年」、読売新聞「特集 北斎とジャポニズム特集」、日経新聞「2017年11月18日 文化」、図録「ボストン美術館  2014年」、日経大人のOFF「2017年8月号」、大久保純一「北斎」を参照した)