印象派からその先へー世界に誇る吉野石膏コレクション(3)

シャガールは1887年7月7日、白ロシア共和国(現ベラルーシ共和国)の貧しい町ヴィテブスクの貧しいユダヤ人の家庭に生まれた。敬虔な宗教的雰囲気と、動物達に囲まれた素朴な日常とが交錯する故郷での生活は、その後のシャガールの作品の全ての源泉となった。シャガールがパリに来たのは1910年前後とされる。現代美術の歴史の上で、パリが「芸術の都」として世界中の若い芸術家たちを挽き付け、夜空の華麗な花火のように「良き時代」の最後の輝きを見せている時代であった。19世紀以来パリはヨーロッパの芸術の中心として自他共に認める不動の地位を築き上げ、それが20世紀の初頭に華やかな実りをもたらした。事実、シャガールと前後してパリにやってきた異邦人画家は、歴史に名を残すほどの大家に限っても、同じロシアから来たスーチンを始め、オランダのモンドリアン、イタリアのモディリーニ、ブルガリアのバスキン、ポーランドのキスリング、日本の藤田嗣治などを挙げることができる。後に「エコール・ド・パリ」と呼ばれる一群の芸術家たちのグループが形成されることになった。この名称は「素朴派」と同じように、歴史家によって与えられたもので、芸術家たち自身によって選ばれたものではない。従って、「エコール」(流派)と言っても、それは何か明確な美学や主義主張を持っているわけではなく、ただ漠然と、第一次大戦前後にパリに集まってきた芸術家たちのことを、一種のノスタルジーを込めて呼ぶ言葉であったに過ぎない。「エコールド・パリ」は「エコール」の厳しい体系よりも「パリ」の懐かしさをいっそう強く思い出させる名称なのである。

モンマルトルのミュレ通り モーリス・ユトリロ作 1911年頃 油彩・カンヴァス

細い路地の向こうに望むものは、いまやモンマルトルのランドマークとなったサクレ=クール寺院。現在のように観光地化されていないモンマルトルの路地には道行く人も少なく、雨戸は閉じられ、ひっそとした趣である。この作品を制作した1911年頃は、のちに「白の時代」と呼ばれるユトリロの画業における最盛期である。本作でも、屋根のレンガ色のほか、建物の壁の白い冬のパリを連想させる曇天の鉛色など、モノトーンを中心とした色彩が画面の大部分を占めている。定規で引いたかのようにまっすぐにのびるミュレ通りの奥には、現在は「モーリス・ユトリロ通り」と呼ばれ、サクレ=クール寺院へと続く長い階段のある通りがのびている。

五人の奏者 マリー・ローランサン作 1935年 油彩・カンヴァス

ローランサンはしばし群像を描いているが、5人以上の人物の組み合わせた作品はそう多くない。本作では、庭園のような場所を背景として音楽を奏でる5人の女性たちを配している。左から順に、花、ギター、トランペット、フルートを持った女性たちが並び、中央の女性は何も手にせず横たわっている。はだけた衣や官能的なポーズは神話画における女神をほうふつとさせ、背景ののどかな自然風景と相まって、18世紀のロココ趣味を思わせる牧歌的な情景となっている。

座る子供 キース・ヴァン・ドンゲン作 1925年 油彩・カンヴァス

ヴァン・ドンゲンは社交界の人々を描いた肖像画で人気を博したが、本作は良く知られた華やかで退廃的な画風とは異なる趣を持つ。コントラストの強い色づかいを茶色の華やかで退廃的な画風とは異なる趣を持つ。コントラストの強い色使いを茶色の背景が緩和し、画面に落ち着きが生まれ、大人びた子供の雰囲気に調和している。モデルはフランスで映画俳優兼衣装デザイナーとして活躍したマルク・ドゥルニッツで、当時まだ4歳であった。幼児を描いた大型の肖像画は、この画家には珍しく、その知られざる一面を伝える作品である。

背中を向けた裸婦 モイーズ・キスリング作 1949年 油彩・カンヴァス

モイーズ・キスリングは、1891年、ポーランド南部のクラクに生まれた。本作で目を引くのは、背中から腰にかけて量感を見事に表す、繊細な陰影で、明るい色で平坦に描かれた顔と対照をなしている。また部屋の角を背にして座るのは、キスリングの定番の構図で、壁に伸びた影がモデルの輪郭を浮かび上がらせる役割を果たしている。頭にターバンを巻き、背中を向ける画中の女性は、新古典主義の巨匠、ジャン=ドミニク・アングルによる「ヴァルパンソンの浴女」を想起させる。しかし、いり直接的に影響を与えたのは、パリで親交の芸術家、マン・レイが制作したアングルヘのオマージュ「アングルのヴァイオリン」(1924年)であろう。「アングルのヴァイオリン」のモデルは、モンパルナスで歌手兼女優として活躍し、キキという愛称で親しまれた女性で、キスリングをはじめアメデイオ・モディリティアーニや藤田嗣治らのモデルも務めた。

逆さ世界のヴァイオリン弾き マルク・シャガール作 1929年 油彩・カンヴァス

画家としての名声が確立されつつあったフランスで過ごした1920年代、シャガールにとって、人生の中で最も平穏で安定した時代であった。画家は時折、キャンヴァスを回転させて描くことで、作品にっ幻想性を与えていたが、本作もそのような過程を経て仕上げられたと推測される。幸福な時間に生み出されたキャンヴァスの中で故郷のヴィテブスクの風景も歌いだし踊り出しているようだ。

バラ色の肘掛椅子 マルク・シャガール作 1930年 油彩・カンヴァス

1930年代の夏から秋にかけて、シャガールは家族と共に南仏のペイラ・カヴァで過ごした。地中海から内陸へ向かって20数kmの距離にあるこの山間の町は、風光明媚な保養地として知られ、数多くの著名人が過ごしている。このペイラ・カヴァでシャガールは何点かの作品を残したが、いずれもこの作同様に画面中央に大きく窓を配置し、そこからはるかに望む山並みの風景を描き出している。窓の外に広がる風景は写実的に、誇張も歪曲もなく淡々と描かれ、手前の室内もほぼ同様に表現されるのだが、その空間に静かに異質な侵入者が紛れ込んでくる。抱き合う男女は他のシャガールの作品同様、画家とその妻ベラの姿を重ねているのだろうが、創造の女神である妻から霊感うぃ得て、画家は今カンヴァスに向かおうとしているように見える。

夢 マルク・シャガール作 1939~44年 油彩・カンヴァス

5年間にわたって描かれた作品だが、第二次世界大戦をはさむ1930年代後半から40年代半ばの時期に、同様に長期間にわたって制作された作品が少なくない。「夢」と題されたこの作品が完成したのはアメリカ亡命中の44年、この9月2日、妻のバラが急逝している。生涯の恋人であり、創作の霊感を与えてくれたミューズでもあったベラを失ったシャガールは、しばらく鉛筆を取ることも叶わなかったが、その悲しみから立ち直る中で完成した作品と見て間違いないであろう。制作を開始した39年、シャガール家は次第に近づいてくる戦争の足音に不安を覚えつつ、パリを離れてフランス中部の田舎町に転居していた。そして2年後のは反ユダヤ法の採択とフランス国籍の剥奪という危機的な状況に直面し、ついにフランスを離れアメリカへの亡命の道を選んでいる。その折携えた作品群の中に、この「夢」はあったのだろう。そして妻の死という悲劇に直面した後で、再び取り上げられ、現在の姿になったものと推測される。

モンマルトルの恋人たち マルク・シャガール作 1953年 油彩・カンヴァス

シャガールにとってはフランスは「第二の故郷」であり、自らも認めるようにパリは彼の芸術を育んだ大切な場所であったが、なぜかその作品の中にこの街が登場することは稀であった。画中に繰り返し描かれるのは、遠い故郷のヴィデブスクの古ぼけた家並みばかりである。そこには当然、彼の戦略的な意図が含まれている。多くの画家が描きつくし、よく知られたパリの街並みではなく、遠いロシアの田舎町が舞台であれば、人が空を飛び、動物と語らう奇跡が繰り広げられても不思議ではない。「超現実的」と評された作品に対して、自らはリアリストであり、描かれた世界は生々しい現実そのものに他ならないと強弁できたのも、フランス人は誰も知らぬ遥かな故郷が舞台であればこそである。この状況が変化し、シャガールが集中的にパリを描くようになるのは第二次大戦後の事である。アメリカ亡命を終えて、画家がフランスに戻ったのは1948年の事だが、それ以前にも何度か短期間、彼は終戦後のフランスを訪れている。

翼のある馬 マルク・シャガール作 1962年 油彩・カンヴァス

翼を持つ馬、と言えばギリシャ神話に登場するペガサスを先ず思い浮かべるが、ここに描かれているのはイスラム世界を舞台にした物語「アラビアン・ナイト」の一場面である。戦争中の反ユダヤ主義を逃れてアメリカに亡命していた1946年、シャガールは同じくヨーロッパから亡命していたドイツ系ユダヤ人の出版業者クルト・ヴォルフの依頼を受けて「アラビアン・ナイト」の版画集に取り組んだ。長大な叙事詩から選ばれた四つの物語をテーマに、13枚のグワッシュが描かれ、その内の12点がカラー・リトグラフ化され、1948年に版画集として刊行されたが、この「翼のある馬」はその内の1点をそのまま油彩に置き換えた作品である。「アラビアン・ナイト」はシャガールにとって初めての色彩版画集であった。戦前、画商のヴォラールの依頼により制作したラ・フォンテーヌ(寓話)の際にも、シャガールは色彩版画を試みたが、思うような結果が得られず、結局白黒の銅版画作品として出版している。

 

「エコールド・パリ」の作家5人の作品9点を紹介したが、私は「エコールド・パリ」の中では、藤田嗣治が一番好きであり、かつ優秀な作品が日本に多数残されている。特に東京国立近代博物館にある「五人の裸婦」とか、京都国立近代美術館の「タピスリーの裸婦」など、藤田氏の最高傑作が、日本で鑑賞することが出来る。吉野石膏コレクションに藤田作品が入っていないのは誠に残念であるが、コレクターの方針や好みもあることだから、止むを得ないことかも知れない。藤田の「白の裸婦像」は、「エコールド・パリ」の中の最高傑作だと思うが、「エコールド・パリ」はい異国人の描いた絵であり、フランスでも極めて高い評価を得ている。

 

(本稿は、図録「印象派からその先へー世界に誇る吉野石膏コレクション 2020」、図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画  2016年」、図録「シャガールー三次元の世界  2017」、高階秀爾「近代絵画(下)」を参照した。)