印象派からその先へー世界に誇る吉野石膏コレクション(1)

吉野石膏コレクションは、吉野石膏株式会社及び吉野石膏美術振興財団が所蔵する、19,20世紀のフランス絵画及び近代日本絵画の作品群である。いろいろな印象派展で、「吉野石膏株式会社」という所有者名は、しばしば見たことがあるが、コレクション全体をを見るのは勝目手である。石膏ボードを中心とした建築資材の会社として吉野石膏株式会社はは、kねて興味を持っていたが、今回、そのコレクションの全体を72点の展示作品で公開された。幾つかは、既に他の美術展で拝観したことがあるが、全体像をみることは、初めてである。紹介文によれば山形美術館に153点の寄託をして、多分この公開された作品群の中にも、その寄託品が含まれているだろうと推察する。全体を見て感ずる点は、「印象派からフォーブ・抽象絵画」まで、かなり広い範囲で収集された作品群で、比較的小型の作品が多いことを感じた。優れたフランス美術のコレクションであり、一企業が何代かに渡って収集された軌跡もよく分かるコレクションであった。この展蘭会の順序に従って3回にわけて連載したい。

第1部 印象派、誕生~革新へと向かう絵画

バター作りの女 ジャン=フランソワ・ミレー作 1870年 油彩・カンヴァス

バターを製造している絵画である。私自身、乳業メーカーに長年勤務し多関係で、バター造りの現場経験もある。私が知っているバター製造は、「バターチャン」という機械で牛乳からバターを造り、それから分離する液体をホエーと呼び、様々な機会に利用される。この作品は1870年のサロン出品作である。この年ミレーは初めて審査員に選出されたが、サロン出品はこれが最後となった。本作に描かれた、桶に入れた牛乳を棒を上下させて撹拌し、バターを製造する方法は中世末期から存在した、かなり古い製法である。一時間以上かかるこの作業を行うのは、主に子供と女性であった。ミレーはバターを造る女性を繰り返し描いており、その表現の変遷を知ることが出来る。ミレーは、このバターの製造方法の表現を本作の数年前に描かれたパステル画で確立し、本作で初めて大型の油彩画として描いた。右下にミレーのサインも描かれている。

イサベル・ルモニカ嬢の肖像 エドュアール・マネ作 1879年頃 油彩・カンヴァス

1879年の4月1日、マネはパリ8区のアムステルダム通り77番地の新しいアトリエに引っ越し、83年に亡くなるまで終生ここで過ごすことになる。マネはサロンでみとめられることを目指した長きに渡る闘争の果てに、病に侵され最晩年を迎えている。そのような中でも心を通わせた人物との交流はマネに少なくない安らぎを与えたことだろう。マネがイザベル・モニカに関して最初に言及したのは、76年8月ごろのエミール・ゾラに宛てた書簡の中で「金曜日に私はイザベル嬢の肖像を手掛けるつもちだ」と綴ったことがある。絵の背景は暗く漠然としている中で、長手袋を着けて両手を組むドレス姿の女性が佇み、こちらを見ている。胸元はかなり平板に描かれている。左目は茶色、右目は暗い青と別の色彩で塗られている。マネとイザベルの交流を示すのは水彩の絵入りの手紙である。80年マネからイザベルへ宛てて、西洋スモモ(仏語でミラベル)と美しい(ベル)の韻を踏んだ短い詩が贈られている。

サン=ジェルマンの森の中で クロード・モネ作 1882年 油彩・カンヴァス

1880年代に入り、70年代後半に比べてモネの生活は安定し始める。1880年に経営難から脱した画商デュラン=リュエルの支援や、第4回までは参加していた印象派展の第5、6回には参加せずサロンへ入選し、個展が評判になることで、モネの作品は売れ行き好調となる。79年から80年にかけて厳寒の冬をヴェトゥイュで過ごし、セーヌ河の凍結と解氷を目の当たりにした画家は、自然の壮大さや力強さといった主題に関心を寄せていく。81年末にセーヌ河沿いのポワッシーへ移るが、制作に格好のモティーフが見当たらず82年の大半はノルマンディーの沿岸部プールヴィル、ディエップに家族を連れて滞在している。本作はポールヴィルへ再び旅行に出る前のポワッシーで初夏に描かれたものとされる。森林の中で奥へと続いていく道が描かれている。消失点へ向かう小さな光の輪は、差し込む日差しと日陰のコントラストを表している。太陽に照らし出された森は赤、ピンクや黄色の様々な色調で、細かな筆致で描かれている。後年、連作として手掛けられた(薔薇の小道)(マルモッタン・モネ美術館)と共通した構図とも感じ取られる。

テムズ河のチャリング・クロス橋 クロード・モネ作 1903年 油彩・カンヴァス

(積み藁)を皮切りに本格的な連作を手掛け始めたモネは、(ポプラ並木)や(ルーアン大聖堂)に至る1890年代の連作の時代を経て、ウォータール橋や国会議事堂を描くロンドンの風景へと移行していく。70年の普仏戦争から逃れるためにロンドンへ半年ほど滞在して以来、かの地への勉強に行かせていた息子ミシェルが98年に体調不良となっいたことで、およそ20年ぶりに2週間ほど訪れる。翌年99年9月中旬に再訪した折、サヴォイ・ホテルに1ケ月半滞在し、南南西に見えるチャリング・クロス橋を10点以上制作している。ロンドンの名物の霧は、テムズ河の水蒸気が凝結した際に排出される煙が混ざったもので、20世紀初頭にスモッグと呼ばれた。モネは画商ルネ・ギンベルに対して、次のように語っている。「もし霧がなかったら、ロンドンは美しい街ではなかっただろう。霧こそが荘厳な美を街に与えたのである。」

モレ=シュル=ロワン,朝の光 アルフレッド・シスレー作 1888年 油彩・カンヴァス

1882年の第7回展が最後の印象派展への参加となったシスレーは、83年にフォンテーヌブローの森の東端に位置するモレ=シュル=ロワンに居を移す。デュラン=リユエルに宛てた書簡の内容は、作品の売れ行きに対する不安と困窮についてが多数を占める。晩年を迎え、長らく希望していたフランスへの帰化についても動きを見せている。本作は、前景の4本の木が鮮やかな緑で塗られ、舞台装置や袖幕のように、ロワン川の対岸に立つ街や、水面の反射に観る者の視点を誘う。日の光が左から照らし、建物や橋は日陰となり薄い青で塗られている。水面に映る反射も水色、白、赤や茶の筆触分割が用いられている。

ロワン川沿いの小屋、夕べ アルフレッド・シスレー作 1896年 油彩・カンヴァス

画面手前の川岸には小屋が描かれている。川の流れが画面左に向かって曲がっていくのが見える。水面に反射した木々が映り込み、対岸のさらに向こう側にはこちら側からは見えない空間が広がっていることを感じさせる。1899年1月29日、モレ=シュル=ロワンにてシスレーは喉頭癌により60歳で没する。およそ3ケ月後の4月29日と30日に展覧会が、5月1日にオークションが、パリの9区セーズ通りのジョルジュ・プテイ画廊で行われた。本作はその出品作の1点である。シスレーの作品27点の絵画と6点のパステルが売りに出され、本作は9000フランの高値をつけた。

シエザンヌ・アダン嬢の肖像 ピエール=オーギュスト・ルノワール作 1887年 パステル・紙

ルノワールは80年代後半に「アングルの時代」と呼ばれる輪郭のはっきりした古典的な作風へ移行する。本作では青い服を身に着けた少女が正面を向いており、幼さを残しつつ大人へと変貌する一舜を捉えている。油彩ではなくパステルで制作されたため、柔らかさが発揮されている。フランス北部のブーローニュ=シュル=メールに拠点を持つ「アダン銀行」は、ナポレオン時代から続く由緒ある銀行である。ブーローニュ出身の銀行家で、北部鉄道の重役やウトロー市長を歴任したイポリットを父に持つ4姉妹、シモーヌ、アントワネット、マドレーヌと末っ子のシュザンヌ(1877~1957)は、家族ぐるみでルノワールと付き合いがあったようだ。ルノワールは、職業モデルではなく、日常的に交流のある人物をモデルとすることを重視していた。ルノワールは、イボリットの妻のアダン夫人がル・ラヴァンドゥに所有する別荘地を度々訪れており、夫人が娘たちの肖像画を注文したことを述べている。この作品は、会場では一番人気であった。ルノワールの絵画は分かり易い点が魅力であり、そこが、目を引いたのであろう。

踊り子たち エドガー・ドガ作 1894年 パステル・紙

ドガが初めて踊り子の主題の作品を手掛けたのは1860年代末かた70年代初頭にかけてのことである。以来、ドガが生涯をかけて取り組むことになる近代生活の主題のいちの最も重要なもののひとつである踊り子を描くきっかけになったのは、オペラ座での観劇やカフェ・ゲルボで交わした新しい芸術をめぐる討論であった。当時の踊り子の社会的地位は今日のそれと大きく異なり決して高くはなかった。ドガが、舞台の上で堂々と舞う主役に限らず、書き割りの裏、舞台袖、練習室などの「裏の顔」に視点を投げかけ、油彩、パステル等の技術で色鮮やかに描き出している。

ポントワーズの橋 カミューユ・ピサロ作 1878年 油彩・カンヴァス

1879年に開かれた、第4回印象派展に出品された作品である。ポントワーズはパリを中心とするイル=ド=フランス地域圏に属し、穀倉地帯として知られるヴェクサン地方の都市である。ピサロは1866年移住してから、普仏戦争での国外避難を経て、14年余りをこの地で過ごしている。当時のポントワーズは、鉄度の開通でパリへのアクセスが容易になり、都市化と工業化が進む一方、郊外には伝統的な田園風景が広がっていた。こうした多彩な景観とともに、フォンテーヌブローやバルビゾンほど他の画家に知られていなかったという点でも、ピサロにとっては魅力的な場所だった。本作では、オワーズ川に架かるポントワーズ橋を描いている。橋の向こうには中心部の近代的な光景、そして右手に中州のポテュイ島に生えるポプラ並木がみえ、川岸を渡る人々の視線で、当時の町ボ様子が一望できる構図となっている。

雪原で薪を運ぶ人々 フィンセント・ファン・ゴッホ作 1884年 油彩・カンヴァス

この作品は、1884年の夏ころ、ファン・ゴッホがアントホーフェンの金細工職人アントン・ヘルマンの注文を受けて制作した6枚組の装飾画下絵の1点である。ヘルマスは、自宅の食堂を飾る装飾画の下絵(油彩)をファン・ゴッホに依頼し、それらを模写して自分で装飾画を完成させるつもりで、「最後の晩餐」のような宗教的図像を希望した。しかし、ファン・ゴッホは、近隣の農民生活から主題をとり、四季を象徴する装飾画のほうが相応しいと注文主を説得し、「ジャガイモの植え付け」「牛耕」「小麦の収穫」「種撒く人」「羊飼い、風の情景」「薪を運ぶ人々、雪景色」の6つの主題で仕上げたという。ゴッホのオランダ時代の作品であり、オランダ時代には太陽を描いた例を私は知らない。

 

印象派、誕生という章であるが、ジャン・フランソワ・ミレーは印象派の魁と見たのであろう。最後のゴッホも印象派に影響を受けた時代(パリ時代)はあったが、オランダ時代は全く印象派の影響を受けていない。しかし、先駆けや、後世に影響を受けた画家と判断すれば、この章に入れるのは妥当だろう。大作は少ないが、印象派の作家を網羅しているコレクションであり、日本では貴重なコレクションである。

(本稿は、図録「印象派からその先へー世界に誇る吉野石膏コレクション2019年」、高橋秀爾「近代絵画史(上)」を参照した)