原 安三郎コレクション 広重ビビッド  六十予州名所図絵、名所江戸図絵

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歌川広重(寛政9年~安政5年ー1797~1858)は、幕末を代表する浮世絵師である。歌川豊広門人となり、俗称重右衛門、更に徳兵衛と改めた。号は一幽斎・一立斎・立斎とした。絵は豊広の他、岡島林斎、南宋画、四条派などを習得した。初めは美人画、役者絵を描いたが、天保3年(1833)「東海道五十三次」(保永堂版)を描き、一躍名声を得て、風景画家として第一人者となった。その作風は純客観的視覚を以て自然を描き、しかもよく情趣のある日本的風景画を完成した。殊にその月、雨、雪を取材した図は世界的称賛を今も博しつつある。今回の展覧会は、日本財界の重鎮として活躍した日本化薬株式会社元会長・原安三郎氏(1884~1982)の蒐集した浮世絵コレクションのうち、歌川広重最晩年の代表作である「六十余州名所図会」および、「名所江戸百景」を中心に展覧するものである。本展で全点公開となる、この二つの揃物(そろいもの)は、貴重な「初摺」(はつすり)のなかでも特に早い時期のもので、国内にも数セットしか存在しないものである。初摺の行程では、広重と摺師が一体となって色彩や構図を検討しながら進めており、広重の意志が隅々まで込められている。保存状態も極めて優れており、退色のない刷りたての姿が鑑賞できる、極めて貴重な機会となった。「六十余州図絵」は嘉永6年(1853)7月から安政3年(1856)5月までの約4年間にわたり、作品を制作発表している。その内訳は、五畿内5、東海道16、東山道8、北陸道7、山陰道8、南海道6、西海道11の69枚となる。これに目録を付けて70枚揃である。この作品は、広重はほとんど江戸を離れることなく制作した。典拠資料を元に描いた作品が多い。画面構成には広重の心象風景の表現を加え、あたかも広重がその場所に行っているように描いたような臨場感がある。典拠としては「山水奇観」など多数である。「名所江戸百景」は120枚の揃物であり、内容は118枚を初代広重が描き、1枚を二代広重、梅素亭玄魚がデザインした目録1枚、改印(かいいん)から制作年は、安政3年(1856)2月から同5年(1858)10月までの約3年間である。この間、広重は安政5年(1858)9月6日に亡くなっているが、その翌月10月の改印の3点を制作し、大判118枚までを広重が制作したことになっている。(作品の落款も初代広重の筆跡で書かれている)。版元は下谷黒門町上野広小路に店舗を構えた地本問屋の魚屋栄吉(さかなやえいきち)といい、通称「魚栄」と言った。「名所江戸百景」は、全120枚の揃物となったのである。この時期、広重の作品制作は大きく変化した。まず構図が横絵から竪絵(たてえ)が多くなり、実際人の眼で見ているかのような遠近の捉え方、明るい色彩感覚、意匠効果、時間の推移などさまざまな演出を工夫し、新しい独自の画域に挑戦している。「六十余州名所図会」、「名所江戸百景」では、竪絵への新しい挑戦を試みている。成功例としては「亀戸梅屋敷」「大はしけあたちの夕立」「深川須崎十万坪」「亀戸天神境内」などがあげられよう。

六十四州名所図会 尾張 津嶋 天王祭り 歌川広重作 嘉永6年(1853)

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ここに描かれた津嶋 天王祭り は私が旧制津島中学、新制津島高校の6年間を送った土地であり、この上もない懐かしさを感じた。尾張津島天王祭は、牛頭天王の鎮魂のための祭りであり、500年以上の歴史を持つ。島崎藤村の大作「夜明け前」の「序の章」の書き出しに「伊勢へ、津島へ、金毘羅へ、あるいは善光寺への参詣」と書かれている。かっては天王川が流れており、この辺りは津島湊と称された。伊勢湾に通じる尾張の湊町として、随一の繁栄を誇り、織田信長の資金源となったとの説もある。江戸時代になると土砂の堆積が進み、天明5年(1785)に川をせき止めて入江とした。天王祭りは、旧暦の6月14日、15日に行われ、14日の宵祭には、提灯を飾った巻藁舟(まきわらぶね)が川面を巡行した。巻藁船は、2隻の船を繋ぎ中央に建てた真柱に12張の提灯と、半円形の部分に365張の提灯を飾る。津島笛の音色とともに巻藁船が順行する様は、光と音とが織りなす壮麗な祭りである。現在、入江は天王公園の丸池として名残をとどめている。なお辻惟雄「奇想の図譜」の中では、「かざりの奇想」の章で、次のように述べている。「尾張津島の川祭を最近見る機会があった。まだこんなものがあったのかと驚き感激した。津島川祭の宵祭では、日月をあらわす数百の提灯を、光る巨大な帽子のように被った五艙の船が、闇の水上をゆるやかに動く、その情景はUFOの出現を想わせるほどに幻想的だった。翌朝、船はがらりと装いを変え、小袖や刺繍の幕、能人形で飾られた高さ16メートルもの屋台(山)を載せて現れる。」辻氏は、「津島祭礼図」(江戸時代中期、大英博物館)と「現在の津島祭の川祭」の写真を載せている。かくまでに有名な祭りとは、私は知らなかった。

六十余州名所図会  美作 山伏谷  歌川広重作  嘉永6年(1853)

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山伏谷とは、岡山県久米郡美咲町柵原栗子の「ボウズ谷」であろう。ボウズ谷の名は正式に残っていないが、その付近の吉井川に接する沢筋を進むと、「大峰行者」と刻された碑が残されている。典拠とされた「山水奇観」「美作山伏谷」には、奇岩の名称には「地蔵岩」とある。突風を伴う雨脚の強さを帯のように表現し、巨大な円の一部に画面をはめ込んでいる。画面上部には、藍色のぼかしと、左端のぼかしは、ただならぬ風雨であることを十分に感じさせる。揃物のなかの名品の一つに数えられる。突風をこのように表現した浮世絵は、私は見たことがない。記憶に残る逸品である。

六十余州名所図会 阿波 鳴門の風波 歌川広重作  安政2年(1855)

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鳴門は、満潮で有名な海峡である。昔は舟を借り切って遠巻きに見物をした旅人もいたそうである。私は、新神戸からバスで淡路島を通り抜け、鳴門大橋を渡る時に、この有名な渦潮を眺めた。海峡の幅が狭く、中瀬や裸島や岩礁が点在し、海底の地形も複雑で、播磨灘と紀伊水道の水位差により、満潮と干潮時には最大30メートルに及ぶ大小さまざまな渦巻が発生する。広重は、まるで船に乗り間近に渦巻を見物したように、岩に荒々しくぶつかり砕ける波と渦潮の逆巻く速い潮の流れを大胆に捉えた。渦潮の藍色の濃淡は何度も何度も丁寧に摺りを重ね、深く複雑な色合いである。六十余州名所図絵のなかの一番の出来であると思う。

名所江戸百景 大はしあたけの夕立 歌川広重作   安政4年(1857)

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大橋とは正確には両国橋の旧名を言い、この橋は新大橋ということになるが、江戸の人々は大橋と愛称していた。隅田川の四大橋の一つで、現在は江東区深川新大橋1丁目と中央区浜町2丁目を結んでいるが、江戸時代の橋はこれよりやや上流にあったとされる。初めて懸けられたのは、元禄6年(1693)で、長さは凡そ108間(約196m)であった。広重は、対岸と橋が交叉するような雨脚を用い、夏の夕立ちの橋は激しさをよく表現している。雨を得意とした広重の最高傑作とされる。本図は、印象派のゴッホが油絵で模写している事は有名である、なお”あたけ”とは地名である。

名所江戸百景 深川萬年橋  歌川広重作   安政4年(1857)

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萬年橋は、子名川が大川(隅田川)に注ぐところの近くに架かる橋である。現在の江東区常盤1丁目と清澄2丁目とを結ぶ。広重と名声を競った葛飾北斎(1760~1849)も、その代表作「富嶽三十六景」シリーズ中で、深川萬年橋を取り上げている。隅田川の中州を経て、遠くに富士山を望む。その富士をも凌ぐ亀は、ただの亀ではない。これは捕獲した鳥獣を山川に放ち殺生を戒める儀式で、旧暦8月15日に各地の神社仏閣で行われた放生会における「放し亀」である。広重は、この大胆な構図によって亀の命に重きを置いたのであろう。放生会に合せて萬年橋では、橋の名にかけて萬年も生きるという亀が売られたのである。

江戸名所百景 永代橋佃しま 歌川広重作      安政4年(1857)

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関東群伊奈氏が、上野寛永寺の建築資材で、元禄11年(1698)日本橋箱崎と永代との間に架橋したもので、永代橋と名付けた。広重描く図の停泊する船の前方の島が佃島である。「名所江戸図絵」によれば、寛永年間(1634~44)摂州佃島から召された漁師が、江戸入りの際功績があったとして、この地を拝領し、生国の名を取って佃島と名付けた。彼らは将軍家御用の白魚をとり、佃煮を工夫した。ここが佃煮の元祖である。図では、その白魚をとる漁火が海面を照らし、空の無数の星を表すために、独特の”彫り抜き”という版画技法が活用されている。半月が美しい。現在の橋は江戸時代より約100m下流に架かっている。

名所江戸百景 亀戸天神境内  歌川広重作   安政4年(1857)

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九州大宰府天満宮の宮司大鳥居信裕が、生保3年(1646)神木「飛梅」の木で道真像を造り、諸国を廻り、寛文元年(1661)8月亀戸之天神塚の地にあった祠に祀った。同3年(1663)現在地に大宰府天満宮の社殿を模して亀戸天満宮が創建された。境内には梅の木も多かったが、池畔の藤棚は見事で、藤の名所として今でも人気のスポットである。私も、藤の季節には、毎年亀戸天満宮にお参りしている。境内の料亭は老舗である。図は近景にその藤を配し、中央の太鼓橋の下から遠景を望む構図としている。しかし、この浮世絵は初摺のため、誤って橋の下が藍色一色に塗られ、遠景は望めない。滅多にない初摺りの面白さである。印象派の画家モネが、自宅の睡蓮の池に太鼓橋を架けたのは、多分この絵からヒントを得たのであろう。境内からは、東京スカイツリーが良く見える。

名所江戸百景  亀戸梅屋敷  歌川広重作   安政4年(1857)

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梅園は、現在の江東区3丁目の北十間川に架かっている境橋から福神橋の一面にあり、清香園といって、吉左衛門という者の所有であったが、八代将軍吉宗が鷹狩りの途中にここに立ち寄り”臥龍梅”(がりゅうばい)を褒めたので、一躍有名になったという。しかし明治43年(1910)の大洪水で、大部分の木が枯死し、大正10年(1921)には完全に滅びたという。今では「臥龍梅」と標示した石柱が建てられているに過ぎない。広重は、前景に大きな梅の一木を配し、遠景をその間から望む大胆な構図を行い、緑の大地、空に紫・紅の天ボカシの効果的な配色を試みて、この構図を一層印象深いものとしている。本図は、印象派の画家ゴッホがデッサンや油絵で模写した事でも有名である。ゴッホは慣れない手つきで、「大国屋錦水江戸町1丁目」「新吉原」等と両脇の額縁に漢字で記している。良く漢字が書けたものだと感心する。5月22日のNHK BS1の22時から始まった「ドキュメントWAVEパリ夜に広場で若者が激論」という番組で、パリの女子学生の部屋を写すシーンがあったが、その部屋には広重の「亀戸梅屋敷」の浮世絵のポスターが貼ってあった。印象派を引くまでも無く、現在のパリ市民からも広重の浮世絵は評価されているのであると感じた。

名所江戸百景 堀切の花菖蒲  歌川広重作  安政4年(1857)

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現在葛飾区堀切2丁目に「都立堀切菖蒲園」があり、無料で入園できる。私も何度か訪れたが、規模や花の種類の多さから、現在は専ら横須賀衣笠(きぬがさ)の菖蒲園に行くことにしている。堀切の菖蒲園は15世紀末、地頭窪寺胤次の家臣宮田将監が、奥州厚安積沼(あさかぬま)から持ち帰った野生の”花かつみ”が変化した品種を植えたのに始まり、その後、寛政3年(1791)堀切村の農民が特に花菖蒲を愛し、自園に180種の花菖蒲を咲かせて自慢したという。行楽の道程も江戸から適当な距離にあったので、人々の関心を集めた。天保8年(1837)尾張藩主の徳川斎温(なりはる)が「日本一の花菖蒲」と折り紙をつけたので、花菖蒲はますます有名となった。広重は、花菖蒲を近景に大きく描き、水を隔てる菖蒲畑を望む構図とし、この地の花菖蒲の見事さを描いている。

名所江戸百景  深川洲崎十萬坪   歌川広重作   安政4年(1857)

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この深川十万坪は、享保8年(1723)江戸の町人が3年掛かりで埋め立てた土地だという。現在の江東区千田・海辺・千石一帯に当たると言う。寛政8年(1796)に一橋家の領地となり、「御府内備考」にも「今は一ツ橋殿十萬坪の御料地と唱えり」と記されているそうだ。広重は、この広大な低地で、陸地か水面かはっきりしない荒涼とした情景を、あたかもヘリコプターからでも見た様な雪景に描き、大きな鷲を配して、その印象をより強いものとしている。広重の代表作とされるばかりでなく、このシリーズの傑作の一つに数えられる。

 

原安三郎コレクションの大きな柱となる浮世絵は、昭和のはじめに横浜にいた米国の宣教師から譲りうけたものが母体となったと言われる。平成17年(2005)に初公開されるまで秘蔵されており、一人の蒐集家の所蔵品としては、質の高さと量の多さにおいて最大級の発見と言われた。特に北斎と広重の名所絵の揃物の多くが、全揃として蒐集されていることは驚きである。浮世絵の、優れた揃物は、ほぼ外国へ渡ったと思い込んでいたが、この作品群を見て、非常に驚き、喜んでいる。また、質に関してもこの展覧会で初公開となる「六十余州名所図会」「名所江戸百景」は、初摺にして、しかも保存状態が極めて優れている。なお、私は「六十余州名所図会」は初めて観る物で、あまりにも良質で全部揃っていることに、ただ驚き、感激した。これだけの名品が一堂に会することは、今後も無いだろう。一方、「名所江戸百景」は、旧東海銀行蔵とか、大浮世絵展等で、何回も見たが、初摺で、かつ保管状態が良く、特に藍色が濃厚な「名所江戸百景」は、初めてである。浮世絵は保管状態によって観る者の感激が大きく変わるが、この展覧会に展示された全ての作品の質、保管状態に関しては最高のもである。日本国内にこれだけの名品が揃って残っていることに、心から感激した。

 

 

(本稿は図録「原安三郎コレクション 広重ビビッド」、図録「大浮世絵展2014年」田中英道「日本美術全史」、野間青六他「日本美術辞典」、辻惟雄「奇想の図譜」を参照した)