原安三郎コレクション 広重ビビッド  北斎・国芳

img718

原安三郎コレクション展(広重ビビッド)には、広重のみではなく、葛飾北斎(宝暦10年~嘉永2年ー1797~1858)と歌川国芳(寛政10年~文久元年ー1797~1861)の名品も展示されている。広重については、「六十余州名所図会」と「名所江戸百景」の全図が出品されている。それに対し、北斎は「富嶽三十六景」、「千絵の海」の全図と、国芳の「東都」、「東都名所」、「近江の国の勇婦お兼」等が出品されている。いずれも名品で名高いものであるが、原コレクションの初摺、藍色の素晴らしさを愉しむため、下記6点を選び出して、解説する。

富嶽三十六景  神奈川沖浪裏  葛飾北斎作    天保2年(1831)頃

img717

題にある神奈川は、「東海道」の神奈川宿場であり、横浜ではない。ゴッホの弟テオはこの絵を見て「あの波は爪だ、船がその爪に捕まれている」とアルルの兄に書き送ったそうだ。それは1888年のことである。ドビュッシーの部屋には「大浪」(「浪裏」を英語で「ザ グレート ウエーブ」と呼ぶ)が懸けてあって、彼の交響曲「海」(1905)のスコアの表紙にはこの図が載せられたそうである。沖合の海を進む子船にせり上がった大波が襲いかかる。画面右からのうねりの大きな曲線は、波の底から急激にせり上がりながら、波頭へと向かい、砕け散る。その波の彼方に、泰然として動かない富士が立つ。小さな和紙に摺るだけの木版画でどうしてこれほど偉大な表現ができるのかと思うと、感動的である。一度見たら決して忘れることのできない強烈な印象を与える。この浪の描き方は、何とも異様である。日本人の描いた絵画の中で、世界中で最も有名な絵画だろう。

富嶽三十六景  凱風快晴  葛飾北斎作     天保2年(1831)頃

img716

この富士山はどこから描いたものであろうか。太宰治は「富嶽百景」の中で「御坂峠は、甲府から東海道に出る鎌倉街道の衝(しょう)に当たっている。北面富士の代表的観望台であると言われ、ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞえられているそうであるが、私は、あまり好かなかった。好かないばかりか侮蔑さえした。あまりにも、おあつらいむきの富士である」と述べている。海抜1300mの御坂峠から描かれた図として見ると、太宰の好き、嫌いは別として、多分こんな景色になるのだろう。しかし、富士山の角度が違う。多分、富士の高さを2倍(7千m以上)にすると、この絵の角度になると思う。因みに、太宰治は「富士には月見草がよく似合う」と、この御坂峠で述べている。「凱風」とは南風、初夏のそよ風のことである。黒い山肌が闇の中から次第にその輪郭を明らかにし、紅く染まったその瞬間を描いたものである。早朝の美しい富士山の姿を、人間などの添え物もなく、見事に描き切っている。この絵は、「赤富士」と一般的に呼ばれている。北斎の描いた富士山のなかで、色といい、形といい、頂点を極めたものの一つである。(この絵が御坂峠から描かれたものかどうかは不明である。)

富嶽三十六景  山下白雨(さんかはくう)葛飾北斎作 天保2年(1831)頃

img715

「白雨」とは夕立のことである。まばゆい稲妻が一気に下界へと駆け抜ける。垂れ込めた黒い雲の下は、突然の夕立だが、雲の上は、一転して明るい世界が広がる。富士は下界の騒ぎをよそにそびえ立っている。白く輝く空と黒く重い雲、雷雲を挟んだ対照的な二つの世界の対比が強く印象づけられる。「黒富士」の異名を持つ本図と、「赤富士」と呼ばれる「凱風快晴」の比較も面白い。さて、この「山下白雨」が描かれた場所はどこだろうか。「美の巨人たち」では、「白糸の滝」の上であると推察している。しかも300mほど上空からの景色を描いたものとしている。それは左の山並みが、「白糸の滝」からは見えないからである。この絵もまた、富士山を2倍に高くしている、2倍にしないとこの角度にならない。この300m上空の想像に、私は思い当たる節がある。かねて浮世絵の視点は、私たちの視点より上から描いていると常に思っていたからである。私たちの目線より、やや上部から描いた浮世絵という推察を前から感じていたので、この300m上部という仮説には魅力を感じた。この「山下白雨」の富士山の頂上は、「凱風快晴」に比較すると凹凸が激しくなっている。富士のお鉢といわれる部分の様子を詳しく描くようになったのであろう。北斎の描く富士は、いずれも魅力的であるが、特にこの3点(大浪、赤富士、黒富士)が、優れていることに、異論はないと思う。

忠臣蔵十一段夜討之図   歌川国芳作     天保3年(1832)頃

img712

国芳は、辻惟雄「奇想の系譜」に取り上げられた幕末の浮世絵師であり、既に「俺たちの国芳、わたしの国貞」で取り上げたことがある。忠臣蔵の十一段目と言えば、通常は屋敷内での対決の場面を取り上げるが、国芳は大星由良之助らが高師直邸に押し入る場面を選んでいる。この直線的な建物は如何にも異様である。近年の研究で、ニューホフ著「東西海陸紀行」の銅版画に基づくことが明らかにされた。バタビヤの領主館を高師直邸に置き換え、画面右下で指図を出す大星の姿も原本から採ってきたものである。しかし、異様とは言え、この絵が忠臣蔵の討ち入り場面であること、日本人なら誰でも分かる。要するに、単なる模倣、丸写しではなく、国芳独自の工夫があるから独創性が認められるのである。先人は、苦労してヨーロッパ文化を取り入れたことが理解できる。

近江の国の勇婦お兼   歌川国芳作     天保3年(1832)頃

img714

「近江のお兼」は「古今著聞集」に登場する近江国海津(かいづ)宿の遊女お金(かね)のことである。怪力で知られ、暴走した馬の端綱(はづな)を下駄で踏み付けて鎮めたとされる。本図はこの有名な逸話に取材している。近年の研究では、馬はフランス語版「イソップ物語」の「馬とライオン」が典拠となっていることが判明した。ライオンを女性に置き換える発想には驚く。また、遠景の山並みは「東西海陸紀行」の情景を写している。最近の研究では、岡本太郎や横尾忠則が北斎や歌川国芳の影響を受けているとの報告がある。19世紀前半の江戸では、ヨーロッパの書物が容易に読む(見る)ことが出来る環境にあったようである。浮世絵と言えば、日本画の印象派に対する影響のみが論じられる、もっと東西文化の交流があったことも研究されるべきでは無いだろうか。

東都名所  佃嶋(つくだしま)歌川国芳作 天保3~4年(1832~33)頃

img713

隅田川に架かる永代橋から佃嶋を望む。橋脚を手前に大きく配した構図が斬新である。こういった構図の新しさが浮世絵の魅力であった。橋の間を通る舟は斜め後方という難しい角度から描かれているが、立体物としての描写としては狂いはない。水面に映る橋の影には藍色のぼかしが用いられ、その不規則な形状がゆらぐ水の動きを的確に表現している。橋の上から川瀬餓鬼(かわせがき)の紙片が舞い落ちる。川瀬餓鬼とは、川で亡くなった人を弔う供養で、川岸や船の上で行われた。

 

原コレクションの美しさに惹かれ、広重から「北斎、国芳」まで脱線したが、この色合いの美しさ、初摺の印刷の素晴らしさを理解してもらうために、あえて、一文を書いたものである。美術ファンには嬉しいニュースがある。墨田区で生涯のほとんどを過ごした葛飾北斎を柱に据え、浮世絵の魅力に取り組む「すみだ北斎美術館」が、今年の11月22日に開館する。約1500枚の浮世絵を蔵するという。場所は両国駅から徒歩5分ほどの場所で、建物はほぼ完成している。アルミの外壁が周囲の景色を写し街並みに溶け込む美術館であるそうだ。多分、開館の暁には、北斎に関するすべての本が、ここで入手できるようになるだろう。25年ほど前からこの企画は聞いており、墨田区に本社を構える会社から、「墨田区には、北斎の浮世絵も、版木も多数保管されている」とのことであった。開館が待ち遠しい。

 

(本稿は、図録「原安三郎コレクション 広重ビビッド」、図録「俺たちの国芳、わたしの国貞  2016年」、図録「大浮世絵展 2014年」、図録「ボストン美術館 浮世絵名品展 北斎  2014年」、辻惟雄「奇想の系譜」、日本経済新聞2016年5月10日(地域版)、同5月14日(文化欄)を参照した)