名作誕生  つながる日本美術(2・巨匠のつながり)

名作は、ある日突然に天才作家が生み出すものではなく、作品や人のつながり、模倣や模作の繰り返しから生まれてきた。日本美術史上で人気の高い巨匠たちもまた、海外の作品や日本の古典から学び、継承と創造を重ねるなかで、個性的な名作を生み出したのである。この章では、雪舟等楊(せっしゆうとうよう)、俵谷宗達(たわらやそうたつ、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)という三人の「巨匠」に焦点を絞って、代表作が生まれたプロセスに迫る。まず、雪舟と中国の関係から眺めてみる。

国宝 天橋立図  雪舟等楊筆  一幅 室町時代(15世紀) 京都国立博物館

日本三景の一つで、古来有名な歌枕でもある天橋立とその周辺の景観を描く本図は、橋立の周囲に広がる社寺や名所を詳細に描写すると共に、内海・外海の広がりや、それらを取り巻く半島と山並みを、壮大な空間として顕した堂々たる作品である。本図は江戸時代から雪舟筆と伝えられ、落款印章はないものの、地名などの書き込みや、筆墨法からみて、雪舟の真筆とみなされている。写真のような単一の視点からとらえた風景ではないため、地理的に不合理な表現もされているものの、実際にその土地を訪ねれば描けないようなリアルな描写や書き込み文字を数多く含み、日本人画家が日本の実景を訪れて描いた本格的な作品として重要である。またそこに表された広大な空間表現は、単なる山水画としても十分に魅力的である。

国宝 破墨山水図 雪舟等楊筆自序他室町時代・明応4年(1495)東京国立博物館

雪舟に附き従い、絵を学んでいた鎌倉の円覚寺の禅僧画家、宗淵(そうえん)が雪舟のもとを去るに当たり、雪舟が終淵の求めに応じて明応4年に描き与えた山水画である。代表作の「山水長巻」た「秋冬山水図」のようなカチッとした夏珪スタイルの画法と異なり、おおざっぱな筆づかいによって、ぼんやりとした風景がさらっと描かれている。この画法は、図の上方に記された禅僧たち、月翁円鏡等の賛の中でも言及されているように、中国の南宋時代末期から元代初期にかけて活躍した僧侶画家、玉澗スタイルの作品はいくつかあり、得意のレパトリーであった。

重要文化財 山市晴嵐図 玉澗筆  南宋~元時代(13世紀) 出光美術館

玉澗(1180頃~1270頃)は、中国の王朝が南宋から元へと激動する時代に活躍した僧侶である。後世における画家・玉澗の名は、中国本土よりもむしろ日本において広く知れ渡り、現存する主要な作品は日本に集中している。その奔放な筆法による水墨山水は「玉澗様」と呼ばれ、室町時代以降の典範として絶大な影響を及ぼすこととなる。雪舟がこの玉澗の「山市晴嵐図」に即して描いたのが「破墨山水図」であると言われている。雪舟は明らかに、「破墨山水図」において自分自身を玉澗に重ね合せていると言えよう。

重要文化財 四季山水図(春) 雪舟等楊筆 室町時代(15世紀)ブリジストン美術館

四季を四幅に描き分けた作品で、福岡藩黒田家に伝来した。落款・印章はないが、古くから雪舟真筆と認められている。この作品には、後に浙派(せっぱ)と呼ばれている明時代の浙江省出身の画家達の画風が入り込んでいる。この画風は、室町時代に日本で流行った南宋風の整った画風に対し、パワフルでかつ荒さを持ち、ときに不思議な空間を画中に出現させる。雪舟は、自身の持ち味に良く合ったこの画法に感応し、取り入れつつ自己のものへ変化させた。

重要文化財 四季花鳥図屏風 雪舟等楊筆 室町時代(15世紀)京都国立美術館

雪舟の落款もないが、真筆と認められている唯一の花鳥図屏風で、縦が180センチメートル近い大きな画面が右から左へと四季が流れる。正直言って、まさかこれが、雪舟の作品とは信じられなかった。構図の基調は、右隻の松と左隻の雪を被った梅で、屈曲する幹と枝とが複雑な空間を作っている。そのなかで鶴と鷺(さぎ)がポイントとなり、赤や緑などの色のある右隻と、殆ど白一色の左隻との対照を作り出し、その中にさまざまな花や鶏が配される。

重要文化財 四季花鳥図  狩野源信筆 室町時代(16世紀) 京都・大仙院

狩野派の二代目狩野源信筆の名作である。源信は、狩野派を理論化し、狩野派の大御所である。大仙院は大徳寺の古岳宋亘(こがくそうこう)を開山として、大徳寺内の塔頭として創建された。襖絵は、相阿弥と狩野源信が担当し、この四季花鳥図は檀那の間を飾っている。「狩野元伸展」で、詳しく書いているので、そちらを参照願いたい。本展では右隻のみの展覧であるが、左隻も表示しておいた。雪舟から、どのように学んだかを見てもらいたい。

重要文化財 鳴鶴図(右幅)文正筆 中国・元~明時代(14世紀)京都・相国寺

落款、朱文印等から、文正という逸伝の画家が士廉なる人物のために制作したことは分かる。相国寺大六世、絶海中津が、この画幅を日本に請来したという寺伝がある。

波頭飛鶴図(右幅)狩野探幽筆 江戸時代・承応3年(1654)京都国立博物館

狩野探幽は、古画を鑑定・記録し、古画から学ぶことに熱心であった。これは承応3年(1654)3月、53歳の探幽が文正の鳴鶴図右幅を写して作ったものである。当然、左幅も模写したと思われるが、そちらは現存しない。

白鶴図(右幅) 伊藤若冲筆  江戸時代(18世紀) 個人蔵

文正の「鳴鶴図」の鶴を模写すると共に、背景に変更を加えて作り上げた対幅である。(但し、右幅のみ)右幅に「平安若冲居士藤汝鈞製」と記す。若冲は、相国寺の禅僧・大典から「鳴鶴図」を見せてもらい、模写したのであろう。大典からは、中国の絵画事情について詳しく聞いていたものと思われる。狩野探幽の「波頭飛鶴図」を見ているかどうかは分からない。

仙人群鶏図襖(さぼてんぐんけいずふすま)伊藤若冲筆 江戸時代(18世紀)大阪・西福寺

「米斗庵米斗翁行年75歳画く」と署名するので、若冲は改元ごとに1歳加えたという説があり、それに従えば、天明9年(1789)の正月の完成と見られる。この絵が、ここに登場する理由は、日本の金碧障屏画史の掉尾(ちょうび)を飾ると言っても良い傑作が生まれるためには、彼自身の水墨画が大きな役割を果たした。

鶏図押絵貼屏風 伊藤若冲作 六曲一双 江戸時代(18世紀)京都・細見美術館

右隻第一扇と左隻第六扇に「米斗翁82歳描く」という署名がある。「仙人掌群鶏襖」よりは後の作品であるが、若冲が押絵貼屏風の形式で描いた水墨の鶏図の例として示したものである。このような水墨画を仙人掌群鶏図以前にも描き続けていて、それがあの金碧障壁画にも干渉したというわけである。

 

日本美術史の中で人気の高い巨匠三人を選んで、海外の作品や日本の古典から学び、継承と創造を重ねて、個性的な名作を生み出したプロセスを明らかにする目的である。選ばれた巨匠は雪舟等楊、俵谷宗達、伊藤若冲の3名であった。俵谷宗達は、私が一番好きな画家であるが、展覧された作品がすべて「扇面張替屏風」で、写真が入手出来なかった為、残念ながら断念した。伊藤若冲の写真は豊富に保存していたので、これは出来るだけ豊富に写真を出した。雪舟が、日本絵画史上の最大の巨匠であることは当然であるが、伊藤若冲は、私の中では、いまだ「奇想の画家」の域を出ていないので、雪舟と並ぶ巨匠扱いには、いささか驚いた。しかし「仙人掌群鶴図襖」が、「日本の金碧障撫屏画史の掉尾を飾る作品」という図録の解説を読んで、納得した次第である。

 

(本稿は、図録「名作誕生  2018年」、図録「日本国宝展  2014年」、原色日本の美術「第1巻~第30巻」、日経大人のOFF 2018年1月号、朝品新聞記念号外「特別展 名作誕生 つながる日本美術」、図録「生誕300年記念  若冲 2016年」を参照した)