名作誕生  つながる日本美術(3.つながるモチーフ・イメージ)

身近な自然や人々の内面を主題として制作され、今に伝わる名作たちは、規範となる名作の型や優れた技法を継承しつつ、新しい解釈や斬新な手法によって誕生した。ここでは、絵画を大きく「山水」「人物」のテーマに別け、中世から近世へと受け継がれてきたさまざまなモチーフやイメージ、型を見て頂き、人と美術のつながりを楽しんでいただきたい。なお、私自身が課題としている、近世における「憂き世」から「浮き世」への転換について主観的な感想を展開したいと思っている。是非、ご覧頂きたい。

国宝 松林図屏風 長谷川等伯筆 安土桃山時代(16世紀) 東京国立博物館

まるで松林を覆い尽くすかのように垂れ籠る霧。しかもその霧はある種の湿り気すらかんじさせるほどリアルである、わが国で描かれた水墨画の中で、おそらく本図ほど濃密な大気を表した作品はないだろう。等伯のこうした大気表現への関心が牧谿(もっけい)画体験に深く根ざしていることは、夙に指摘されているところである。等伯は、牧谿筆の作品群を模写し、自身の作品に反映させた。たぶん等伯はそうした作品の制作を通じて、たとえ狩野永徳ばりの大画方式をとらなくても点在する樹木だけで大画面が構成可能なこと、また墨の濃淡の使い分けによって、そこに湿潤な大気を伴う深奥なる空間を表現できることを学んだのであろう。だが、こうした牧谿画学習は、本図が生み出される要因のあくまでも一つに過ぎない。というのは、松林と言う景物が大和絵の伝統的な作例に頻繁にあらわされることから、本図成立の背景として大和絵からの影響を想定せざるを得ない。ともあれ、等伯芸術の頂点をなす「松林図屏風」は、彼による和漢双方の学習成果が高次元で融合し、創造されたものであることは間違いない。

富士三保清見寺図 伝雪舟等楊筆 一幅 室町時代(16世紀) 東京・永青文庫

画面し左寄りに雪を頂く富士、左下に清見寺、右から三保松原が顔をのぞかせている。誰もが知る霊峰と、羽衣伝説で知られる神の天下る松、そして足利将軍の庇護を受け、東海道を旅する僧が立ち寄った名刹という、神仏の霊場で、かつ、良く知られた名所をセットにして描きだしたものである。実際の土地を描くという点では「天橋立図」と同じだが、スケッチ風なところはなく、きっちりとした山水画に仕上げている。この魅力的な図様は、富士・清見寺・三保松原を描く基本形となり、数多くの画家によって描き継がれた。

重要文化財 紫式部日記絵巻     鎌倉時代(13世紀)

「紫式部日記絵巻」の主題は「紫式部日記」が記す王朝の日々であり、描かれ方も一見、十二世紀中頃の「源氏物語絵巻」と同じだが顔の描き方が引目鍵鼻ではなく、上瞼と下瞼を描き分け、瞳もはっきりと描く技法が貴族にも用いられる。また、建物の奥行きを表す二方向の斜めの線がぶつかるような空間の造り方をよくする。平安時代の絵巻とは違うシャープな造形感覚が認められ、制作時期は13世紀前半と推定される。詞書二十三段、絵二十四段が現存し、3つの美術館に分蔵される。これは日野原本と通称される一巻で、四国松山藩主松平家に伝来した。詞書六段、絵六段から成り、掲出の場面は第三段。道長が式部の部屋の戸をたたく。

重要文化財 梓弓図  岩佐又兵衛作 一幅 江戸時代(17世紀)文化庁

もとは屏風に貼られた一図であり、その六曲一双は、福井の豪商金屋家に伝わったところから「金屋屏風」の通称がある。岩佐又兵衛(1578~1650)が元和元年(1615)頃に、福井に移ってすぐの時期に描かれたものと推定されている。男の頭上にからまる蔦が緑色を見せているのは、彼女に対する思いが以前と変わらないことを物語っているのだろう。物語は男が武官として宮仕えをしていたとは記されていないのに、男は弓矢を見に着け、大きく鋭利な刃物に見える弓を袖の中に隠し持っているかのようだ。梓弓という語を詠みこんだ歌をきっけに女が死にいたる結末を知る鑑賞者は、武器そのものである弓を禍々しさを見ないわけにはいかない。物語の一瞬を切り取ったこの場面に、物語の後ろの方に起こる悲劇を予告する、そんな仕掛けがこの弓なのだ。

伊勢物語絵巻第二 (絵)住吉如慶筆(詞書)愛宕通複筆 江戸時代(17世紀)東京国立博物館

「伊勢物語」の全125段の詞と、六十三段77番の絵を配した六巻から成る絵巻。各巻末に「住吉法橋如慶筆」巻六の尾紙に「左中条通幅書之」の落款があり、絵を江戸幕府の御用絵師としてやまと絵の制作を行った住吉如慶、詞を中院家庶流の能書である愛宕通幅が担当したことが知られる。掲出の部分は第二十三段の「河内超」の場面である。縁近くで遠くを眺めて夫の身を案じる妻を、秋草の咲く前栽(ぜんざい)の影から覗く男を描き、妻が男の身を案じて詠んだ歌に詠まれた、男が夜に超えて行く龍田山を添えて、詞書に忠実に物語の場面を描いている。

縁先美人図 一幅 江戸時代(17席) 東京国立博物館

一人立ち美人図として鑑賞される作品である。これだけだと単に美人を描いたものと見えるが、背景の設定が一部のぞいていることから、より大きな画面を切り取ったものと想像される。御簾を上げた部屋から縁先に歩み出て柱の前に佇む設定、左手を袖に入れ、右手で当世風の打掛の褄(つま)をとるポーズまで近似している。小袖の風車模様や白波模様は「伊勢物語」「河内超」で妻が夫の身を案じ詠んだ歌「風吹けば沖つ白波たつた山、夜半にや君がひとり超ゆらむ」を暗示している。縁先の美人は、「伊勢物語」第23段の井筒に届かなかった女の幼馴染の男の妻となり、「河内超」で夫の身を案じる姿だと見ることができる。しかし、女性の姿は、舞台の上で演じられた魅力ある所作を写したものかも知れない。

国宝 洛中洛外図(舟木本)岩佐又兵衛筆 六曲一双 江戸時代(17席)東京国立博物館

「洛中洛外図屏風」は、京都の市街地(洛中)を画面の下に郊外(洛外)を遠景として上部に配し、六曲一双の右隻に東方面、左隻に西方面の名所を鳥瞰的に描いた風俗図で、描かれた時代状況を映し出している。16世紀初め頃に成立したと考えられる。この「舟木本屏風」は、戦後間もない昭和20年代の初め、長浜の医師、舟木栄氏が彦根の古美術商から手に入れた。昭和24年に美術史家・源豊宗氏が同家に立ち寄り、部屋に立ててあった屏風に目を止めた。股兵衛作だと氏は直感されたそうだ。これが「舟木本・洛中洛外図」が広く知られるきっけとなった。私は、現在100本以上の洛中洛外図があるが、この舟木本が一番楽しく、生き生きと時代を描いていると思った。昨年、国宝に指定され、岩佐又兵衛の京都時代の唯一の現存作品である。右隻に描かれた大きな建物は豊臣家を象徴する方広寺大仏殿であり、左隻の大きな城は徳川家を象徴する二条城である。歌舞伎小屋や遊女町など大きく取り上げて、猥雑なテーマや人々の間で交わされる視線を通して人間の内面に切り込んだ表現が見られる。大阪の陣の直前(1600年前後)の京都とその時代に生きた人々の生き様を描き出している。岩佐又兵衛(1578~1650)の作である。

士庶花下遊楽図屏風 伝岩佐又兵衛筆 江戸時代(17世紀)富山・百河豚美術館

舟を浮かべた大きな池の周りに、桜咲く春の一日をさまざまに楽しむ人々の姿を描き込んだ野外遊楽図である。桜の下での乱舞、道行く女性の一行に声をかけて遊びに誘ういわゆるナンパの場面、扇を手のして舞う若衆を囲んで下がり藤の文のある幔幕の内で繰り広げられる野外での宴、座敷では将棋や囲碁、三味線に興じる人びとを、建具を取り払った建物に配した邸内遊楽の場面も加えられ、江戸時代初期の風俗画によく描かれたテーマである。この絵は伝岩佐又兵衛となっているが、又兵衛工房と又兵衛の共作ではないかと解説では説明している。さて、又兵衛を浮世絵又兵衛(うきよえまたべい)と呼ばれることが多いので、その原因をこの図から説明できないかという意味で取り上げたのである。(写真が無かったため、図録から採用したが2Pにわたる画面を取り入れたため、暗くなり視難い絵となった)ウキヨ、それは平安時代から今にいたるまで使われている言葉である。これには最初から「浮世」、「憂世」の両字が当てられていたが、意味するところは同じ、ままならぬ、憂きことの多いこの世、であった。仏教的な厭世観がその裏にあり、浮世という文字を使う時でも、根なし草のようにはかないこの世、という同じニュアンスがそこにあった。こうしした現世否定的ななウキヨ観は、戦国時代を境に一種の逆転現象を起した。「夢の夢の夢の世を、うつ顔して、何せうぞ、くすんで、一期(いちご)は夢よ、ただ狂え」というのは、当時の流行歌を集めた「閑吟集」(永承15年ー1518年成立)の一句で、「夢のようはかないこの世だ。くすんだ顔をしていても仕方がない。思い切って、何もかも忘れて遊び狂おう」という刹那的な歓楽に身を委ねる発想である。こうした発想は、次の桃山時代から江戸初期にかけてさらに広まり、寛永年間(1624~44)に至って、時代の先端を行く流行思想にまでなった。又兵衛らの活躍した元和から寛永・寛文年間にかけてすさまじいばかりの流行をみた風俗画では、この「浮世の思想」をまさに絵に描いた。男女遊楽の情景が最も好まれて取り上げられている。これを後に、江戸の菱川師宣を元祖として誕生した浮世絵の先駆とみなすことはごく自然であろう。憂世を浮き世に転換した刹那である。私は、この伝岩佐又兵衛の作品に、この展観を視る思いを強くする。

重要文化財  湯女図(ゆなず)一幅 江戸時代(17世紀)静岡・MOA美術館

本図の二人目の女の小袖に「沐」の字が付されているがことから、風呂で働いた私娼(ししょう)の湯女を描いたことを暗示しているとされ、「湯女図」と題されている。現在は掛幅であるが、本来はほぼ倍の大きさの屏風であったことが想像される。失われた右側には「士庶花下遊楽図屏風」と似た絵がかれいたとする説がある。いずれにしても「浮き世」を描いた風俗画である。

国宝 風俗図屏風(彦根屏風) 六曲一双 江戸時代(17世紀)滋賀・彦根城博物館

金箔を張り詰め、15人の男女とわずかな器物を配しただけで環境描写を極限まで絞り込んだ屏風である。右から左へとストーリーが進むように、部屋の奥へと見る者の視線が導かれていく。最近の光学的調査により、色の指定書が多数ある事や、細部表現の違いが指摘され、複数の絵師により分担制作が行われたと推測されている。京都六条柳町遊里を描いたものと考えられており、文人の嗜みとされた琴棋書画・双六・文・屏風で当世風を描き出し、ここが文化的サロンであることを示している。彦根藩井伊家に伝来したことから「彦根屏風」と通称されるが、井伊家の所有となったのは、12代井伊直亮(1794~1850)が出入りの楽器商から購入したことによる。

重要文化財 見返り美人図一幅 菱川師宣筆江戸時代(17世紀)東京国立博物館

菱川師宣(1618~94)は、肉筆画及び絵入版本の組物を制作し、江戸の浮世絵派の祖と位置付けられている人である。本図は左方向かいへの歩みを止め、右後ろを振り返る姿を描く場合、左に歩んでいるのであれば、左後ろに振り返り、顔や上半身の正面を見せる姿に描くのが普通であるが、本図はその常識を破る。そのため、顔を真横から描く形になったので、戯作者、山東京田によって文化7年(1810)に書かれた箱書きには、「平面美人図」と題されている。ただそうした異例のポーズによって、玉結びと呼ばれるゆったりとした髪形、上・中・下と3段に表された菊と桜の花模様、吉弥結びのお洒落な帯が際立ち、悠揚とした顔を演出するのに成功している。膝から下の微妙な動きをとらえ、膝から下の微妙な動きをとらえた着衣の線も見逃せない。私は、この絵が、「浮世絵」の出発点だと見ている。

 

舟木本洛中洛外図、士庶花下遊楽図屏風、湯女図、見返り美人図は、いずれも風俗画と呼ばれる絵で、私はいずれも江戸時代の浮世絵につながる絵画と思っている。「憂き世」と「浮き世」については、既に解説した。岩佐又兵衛は「浮世又兵衛」と呼ばれることがある。又兵衛は浮世絵の元祖では無いが、「憂き世」を「浮き世」に転換させたという意味で、浮世絵の創業者と言えるであろう。菱川師宣は、それを版画という、より量産に適した形式に移し、更に幅広い町人階層の生活の場で愛好されるものに改めて、浮世絵の元祖となったのである。2014年の「大浮世絵展」(国際浮世絵学会・創立50周年記念)でも、「浮世絵前夜」の章で、岩佐又兵衛の作品を並べていた。また師宣(もろのぶ)の「見返り美人図」は、第2章の「浮世絵のあけぼの」の部に登場していた。近世浮世絵の生まれを探るためには、思いがけない風俗画が多数出品された。

 

(本稿は、図録「名作誕生 つながる日本美術  2018年」、図録「日本国宝展 2014年」、図録大浮世絵展  2014年」、現色日本の美術「全30巻」、辻惟雄「岩佐又兵衛 浮世絵をつくつた男の謎」を参照した)