名作誕生 つながる日本美術 (1.祈りをつなぐ)

「美術は孤立のものにあらず。一時期をなすには必ずその前代と相伴うて形をなす。推古は天智に進化し、これを天平に完全するは天平の大家一人の力にあらず。前すでにこれが基礎を造れるものあり。」これは岡倉天心が古典美術の研究の一端を、東京美術学校において講じた「日本美術史」の筆記録である。岡倉天心は、東京美術学校(現東京芸大の前身)の初代校長として、それまでの自分が研究してきた「日本美術史」を、明治23年から25年にかけて開講した。その時の内容は「日本美術史」と題され、学生の筆記録として遺されている。そして最後に天心は「まとめ」として7点を挙げた。そのうちの一つが「系統を追って進化し、系統を離れて滅ぶ」である。これこそが天心美術史学の根幹をなす思想であると言われる。天心は日本美術の創造性の秘密を、系統進化ー換言すれば「継承」と「創造」に求めていたのである。この展覧会は、天心に導かれながら、日本美術における継承と創造の関係を、「美術品」を見ながら、「名作誕生」が、「つながる日本美術」であることを検証する展覧会である。天平期から近代芸術に至るまで、130点の名品を展示しながら、解説するのは本展覧会の目的である。果たして、日本美術史の素人の私に、どこまで出来るか不安であるが、ここは果敢に挑戦してみたいと思う。なお、多分4~5回の連作になると思うので、最後までお付き合い願いたい。なお、本展覧会は、東京国立博物館で5月27日まで展示される。但し、展示物は6回に別けて展示されるので、最低でも2回は拝観しないと、全体像は理解できないと思う。第1回目は「祈りをつなぐ」というテーマを追いたい。

重要文化財 十一面観音菩薩立像 木造 中国・唐時代(8世紀)山口・神福寺

頭上に十一面を戴く十一面観音菩薩像で、その頭上から台座の蓮肉、両手首や天衣、装身具までも白檀(びゃくだん)あるいは桜とみられる広葉樹の一材から彫り出している。白檀とは、東アジアから東南アジアに自生する希少な香木で、これを材料とする仏像は「壇像」(だんぞう)と呼ばれ、珍重される。壇像の最盛期は、中国・唐時代(8世紀中頃)に制作され、日本にもたらされている。天平勝宝5年(753)日本に戒律を伝えるため来日した唐僧鑑真(がんじん)は、「彫檀師」(白檀などの彫刻を行う工人)を伴ったと思われる。唐招提寺像は、その遺品と思われる。

重要文化財 伝薬師如来立像 木造 奈良時代(8世紀) 奈良・唐招題寺

唐招題寺の新宝蔵に安置される「旧講堂木造群」と総称される木彫仏群の一つである。頭部のみのものもあれば、トルソーのみの仏像もある。いずれも一木から仏像を彫り出す一木造りは、これ以降平安初期にかけて急速に広まり、日本に木彫仏の時代をもたらした。そのきっかけとも言うべき初期の木彫仏である。全身をカヤまたはヒノキ材と見られる針葉樹の一材から彫り出したものである。日本で本格的に仏像が造られるようになったのは6世紀初めのことであるが、それから約150年は木の仏像が造られたことは無かった。木の仏像が主流になるのは平安時代以降のことで、この薬師如来像はその端緒であった可能性がある。唐招提寺を創建した鑑真が伴ってきた中国伝来の仏像工人が制作した可能性が高い。初めて、「旧講堂仏像群」を拝観した時(私が18歳の大学1年生の時)に、「日本人でない顔」と思ったことが記憶に残っている。天平時代の仏像は塑像製が多い。それに比較すれば、木造仏は、造り易く、かつコスト的にも安かったと思う。振り返れば、一大発明であった。

重要文化財 伝衆宝王立像 木造 奈良時代(8世紀) 奈良・唐招提寺

胸に斜めに鹿皮(ろくひ)を着けることや、両肩下に各2手を取り付けた痕跡がのこること、額に一眼を刻むことなどからも、もと三目六臂(さんもくろっぴ)の不空羂索観音像(ふくうけんさくかんんおんぞう)として造立されたと考えられる。随所に濃厚な唐様式が見られることから、鑑真に同行した唐の工人の作と思われる。台座を含め、ヒノキの一木彫りである。

国宝 薬師如来立像 木造 奈良~平安後期(8~9世紀) 奈良・元願寺

肩幅の広い堂々とした体格が拝する者を圧倒する。螺髪と両手首を除き、頭部から台座まで一木で彫り出すが、乾燥による割れを防ぐため、背面から内刳りをほどこす。厚い体躯からは、丸太を思わせる迫力を感ずる。本像の正式な名称は、今では不明であるが、奈良時代から平安時代前期(8~9世紀)にかけて、この像のように五尺五寸の大きさの薬師如来立像が多数造立されてりるため、もともと薬師如来だったと見てよいであろう。カヤを用いて彫られていることが判明したが、希少な香木である白檀の代用として採用された可能性がある。表面には彩色の痕跡もあるが、本来は素地のままだったかも知れない。元願寺に入ったのは100年前位で、それ以前の歴史は不明である。

国宝平家納経のうち観普賢経三十三巻のうち平安時代(12世紀)広島・厳島神社

平家納経は、平清盛(1118~81)が厳島神社に奉納した経巻で、「法華経」、「無量壽経」など全三十三巻である。全巻にわたって金銀箔がふんだんに蒔かれ、表紙や見返りには経意による平安貴族の姿などが現され、本紙の天地や経文の下絵としても葦手(あしで)や日輪の風景、蝶鳥草花などが色鮮やかに描かれている。軸首や題箋も繊細で細工がほどこされているうえに、平清盛の願文や能筆による経文の筆致まで、隅から隅まで配慮がなされた絢爛豪華な装飾経の代表的作品である。「観普賢経」の見返りには十二単衣姿の平安女性が描かれており、右手に剣、左手に水瓶を持っていることから十羅刹女(せつにょ)のうち第五黒歯(こくし)だと分かる。

国宝 普賢菩薩像  絹本着色 平安時代(12世紀) 東京国立博物館

普賢菩薩は文殊菩薩と共に釈迦如来の脇侍として三体一組で造像されることが多い。法華信仰の中では単独での造像が広く行われた。日本では平安時代に法華経を根本経典とする天台宗の成立によって法華信仰の基礎が整備され、法華経を通して真理に到達するための修行である法華三昧を行う堂(法華堂)の本尊として普賢菩薩の彫像を安置することが十世紀後半に行われ、画像は主に「法華経」を書写・供養する場で用いられた。特に「法華経」が女性成仏を説くことから平安時代後期には女性の発願による「法華経」供養も行われ、画像も女性貴族好みを反映したかのような繊細な作例が多く残されている。本画像は数多い普賢菩薩像の中でも最高傑作に位置づけられものであり、平安仏画の中でも屈指の名品である。

国宝 普賢菩薩騎象像  木造・彩色・載金 平安時代(12世紀) 大蔵集古館

法華教典は女性救済を説くことから貴族女性にも親しまれ、盛んに造像がなされた。本像は中でも優れた出来栄えと繊細な装飾で著名な、普賢菩薩の彫刻を代表する作品である。ヒノキを用いた寄木造で、華麗な彩色と金箔を細かく切って文様を表した載金が美しい。穏やかで洗練された表現から、平安時代後期(12世紀)に活躍した円派仏師の作とみられる。その姿は、院政期仏画の傑作とされる「普賢菩薩像」(前記)が画面から抜け出したようであり、ともに施主は高位の人物だろう。

重要文化財 普賢十羅刹女像 絹本着色 平安時代(12世紀) 京都・廬山寺

羅刹(らせつ)とは、もともと人を害する鬼だが、「法華経」「陀羅尼本」(だらにぼん)には普賢菩薩と同じく守護神として説かれる。日本で独自に考案されたとみられてきたが、普賢菩薩に天女形が従う図像は唐時代から北宋時代の作例で見られることから、これをもとに十羅刹女(じゅうらせつによ)へ変装した像が成立した可能性が考えられる。本像は現存する最古の絹絵で、羅刹女は羯摩衣(かつまえ)等を着ける唐装に現される。着衣にほどこされるのは主として銀の載金で、12世紀後半の作例に見られる新しい志向である。中央の普賢菩薩の両側に五体ずつ羅刹女が配置され、向って右端に赤子を抱いた鬼子母が立つ。法華経信仰を持った宮廷女性たちにとって、十羅刹女は自らを投影する存在だったであろう。

 

一木の祈りから、祈る普賢をまとめて「1 祈りをつなぐ「としてまとめた。明治23年(1887)10月に創刊された「国華」(こっか)は、今年で130年目を迎えることになる。「国華」」130年と、それを支援した朝日新聞社140周年を記念して、今回の「名作誕生 つなgる日本美術」展が、東京国立博物館で5月27日まで6期に分けて展示される。今年最大の「日本美術総合展覧会」であり、国宝、重要文化財など130点が展示される。「国華」は岡倉天心と高橋健三(太政官管報局長)の二人を中心に刊行が準備され、世界最古の美術雑誌は、今日に至るまで発刊されてきた。様々な美術情報を載せて130年間受け継がれ、読み続けられた。本展覧会では、作品同士の影響関係や社会的背景に着目して、古代の仏教美術から近代洋画まで、地域や時代を超えた数々の名作を、大きく4つに区分し、1.祈りをつなぐ、2.巨匠のつながり、3.古典文学につながる、4.つながるモチーフ・イメージの4章に大区分して、展示されている。6期に分けて展示されるため、せめて2~3回の見学が必要であるが、幾つかに分割して、この「美」で紹介したい。今年の日本美術最大の展覧会である。

 

(本稿は、図録「名作誕生  2018年」、図録「日本国宝展 2014年」、朝日新聞特別記念号「特別展  名作誕生ーつながる日本美術」、原色日本の美術「第1巻~第30巻」、日経大人のOFF  2018年1月号、を参照した)