国宝  三十三間堂  千手観音立像と中尊

今は跡を止めないが、京都市左京区の岡崎公園一帯には、かっては平安末期の院政期・白河院(1053~1129)の御願による法勝寺(ほっしょうじ)をはじめ、いわゆる六勝寺(りくしょうじ)(法勝寺・尊勝寺・最勝寺・円勝寺・成藤寺・円勝寺)の伽藍が並び、更に南・北白河殿や得長壽院(とくちょうじゅいん)・蓮華蔵院(れんげぞういん)といった御所や御堂が立ち並び、偉観を呈していた。中でも、法勝寺の八角九重の塔は81メートルの高さを誇った。平清盛(1118~81)が後白河院のために造進(ぞうしん)した蓮華王院(れんげおういん)は、その30年ほど前に父忠盛が建てた得長壽院ともども、桁行(けたゆき)三十三間という長大な建造物であり、しかも中には千一体もの仏像が安置されていた。この時代はひたすら長く、多く、であった。どこよりも高い・長い・多くー。これは信仰の世界における物量主義であり、破格の造形であった。(ここまで書いてきて、現代もまた、高く、長く、大きい、が表現されている時代であると感じた。)

国宝  三十三間堂  木造  文永3年(1266) 鎌倉時代

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平清盛は後白河法皇のために蓮華王院(三十三間堂の正式名称)を増進したことで但馬(たじま)の国主に任じられた。平忠盛の時に、平家が飛躍したのは、父忠盛が鳥羽院のために白河の地に得長壽院を造進し、「内昇殿」を聴(ゆる)されたことにある。地下侍(じげさむらい)が貴族の仲間入りを果たした瞬間である。院政期には、公的な事業を行う必要が生じた時、相応の官位など一定の見返りを与えることを前提として、事業を遂行することを「功を成す」-成功(じょうごう)と言った。院政期独特の政治体制であった。造寺と同時に千体仏寄進も、勿論含まれている。平安時代末期の黄金色に輝く千体仏はどのように輝いていたであろうか。延長元年(1249)市中よりの火災で焼失したが、約20年後の文久3年(1266)後磋峨上皇により再建供養された。その後も何回も修復され、今日に至っている。柱間が33間を数えるため三十三間堂と称され、何時の時代でも京都を代表する有名な建造物であった。蓮華王院は五重塔、阿弥陀堂など多数の堂塔を持つ寺院の総称で、三十三間堂はその本堂に相当する。造寺造仏の数を誇る平安末期の風潮をいまに伝える遺構として貴重であると同時に、鎌倉時代の京都の建築を代表する大作である。

国宝  三十三間堂内部(外陣)   木造   鎌倉時代

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堂内の外側1間分は、四方を巡る外陣となる。東側の正面外陣の南北端か眺めると、列柱が連なる長い回廊のように見える。内陣中央の千手観音坐像を安置する内々陣のみ折り上げ組天井となっている。

重要文化財  千体千手観音象    木造      鎌倉時代

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もともと、千体仏とは、古代インド仏教の千仏思想を基としたもので、それは、もし帝王が手におよぶ多数の仏を造れば、その統治下の万民が幸福になるということであった。したがって、わが国でも古く飛鳥奈良時代にもかなりその盛行をみている。しかし、そのもとの姿のままで、いまに伝えているのは、後白河上皇の発願(ほつがん)によって営まれた蓮華王院本堂のものだけで、これはほぼ建長3年(1251)から文永3年(1266)頃にかけて再興されたものである。やはり、素晴らしい造営である。この千体千手観音像を見た時の感激は、誰しも忘れないだろう。これは極楽浄土を表すものであった。

国宝  千手観音坐像   湛慶作         鎌倉時代img569

蓮華王院本堂の本尊で、千体千手観音像の中尊をなしている。復興造営のもっとも早い頃の仕事として、建長3年(1251)から同6年(1254)にかけて、大仏師湛慶(たんけい)が小仏師康円(こうえん)と康清(こうせい)とを率いて、この像を造ったもので、そのことはこの像の胎内に記された銘記によって知られる。なお、この建長6年(1254)に湛慶すでに82歳の高齢であったのだから、この像造は彼の最後を飾る代表作でもあったわけである。たしかに、この像の様式や手法などは、鎌倉新様(かまくらしんよう)の最も典型的なものであり、しかもそれを極めて完成されたものとして仕上げているのを見ることができる。

重要文化財 千体千手観音立像(第40号)(左) 湛慶作    鎌倉時代  重要文化財 千体千手観音像(第50号)(右)康円作      鎌倉時代

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再興時には、その足枘(あしほぞ)に作者の銘記が有るものが504体(同一作者が重複することもある)確認されている。千体仏の造営には、慶・円・印派の在京造仏師集団三派が総動員されたことが分かる。なお、上野2体は千仏の一番前に並べられている。

重要文化財  太閤塀(たいこうへい)      桃山時代

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天正期に豊臣秀吉が東大寺を模して発願(ほつがん)した大仏殿方広寺は、定礎から7年を経て文禄4年(1595)9月に竣工した(現在の京都国立博物館の一帯)。この木骨土蔵の築地塀は高さ5.3m、桁行92mの堂々たる建築物で蓮華王院を方広寺に取り込み、その南限を区画する目的で設けられた。軒平瓦(のきひらかわら)には「太閤桐」の文様が用いられていることから太閤塀と呼ばれている。因みに、「洛中洛外図 舟木本」には、大仏殿の一部として三十三間堂が描かれ、その間にこの太閤塀が描き込まれている。

重要文化財  南大門(現在の東寺の)          桃山時代

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南大門は三間一戸切妻の八脚門で、虹梁の刻銘から慶長5年(1600)の建造と推測される。豊臣家ゆかりの桃山気風にあふれたものである。現在は、東寺南大門として再利用されている。

法住寺殿(ほうじゅうじどの)復元図

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保元3年(1158)8月に、二条天皇に譲位した後白河上皇が院庁(いんちょう)として造営したのが「法住寺殿」である。その敷地は四方十余町に及ぶ広大なもので、「常の御殿」と呼ぶ住居に宗教施設が付設された南殿(みなみどの)と政治施設の北殿(きたどの)からなり、阿弥陀峰山麓より鴨川の川原まで続いたという。蓮華王院は、常の御所西隣に建立されたので、院庁は「蓮華王院御所」とも呼ばれた。御所は寿永2年(1183)11月、木曽義仲の襲撃により焼失したが、三十三間堂は奇跡的に難を免れ、往古の盛を物語る稀有の物証として現存している。

 

千体千手観音像は、正に極楽浄土を表していると思う。千手と言われるが、実際は42本の手であり、1本の手が25の救いの働きを持つという。だから千手と言うのである。千手観音像の頭の上には沢山の仏の顔もある。一番上が頂上仏面と呼ばれ、悟りの境地を表している。全部で11面、頂上仏以外は慈悲面が三つ、悪行を叱る面が三つ、善行をたたえる面が三つ、後頭部にある一面は悪行を笑い飛ばし、善に向かわせる顔である。これは一般には”異形”(いぎょう)と呼ぶが、この千手観音像は不思議に全く感じない。むしろ見事な調和を見せる神々しい仏である。京都へ行ったら、必ず見学するお堂である。仏教には、末法思想がある。釈迦入滅後の仏教流布の期間を三区分し、その一が正法、続いて像法、その後末法の時代が来ると信じられていた。末法は1052年であり、この蓮華王院が平安時代に完成した頃は、末法時代の始まりであり、極楽浄土を求める思想が大流行したのである。

 

(本稿は図録「国宝三十三間堂」、菅原信海他「妙法院・三十三間堂」、現色日本の美術「第9巻中世寺院と鎌倉仏」、探訪日本の古寺「第7巻 京都Ⅱ」を参照した。)