国立西洋美術館  常設展  ポスト印象派

この章で取り上げる作家は、ゴッホ、ゴーギヤン、藤田嗣治などで、19世紀から20世紀前半にかけて活躍した画家たちの作品である。これを「ポスト印象派」等という呼び方は如何かと思うが適当な呼び名を思いつかないため、あえて一般的な呼び名にししたので、お許し頂きたい。

ばら フィンセント・ゴッホ作 油彩・カンヴァス     1889年

1888年12月末にゴーギャンとの共同生活が破綻して以来、ゴッホは精神障害の発作を繰り返し、1889年5月上旬には自らサン=レミの療養所に入った。入院してからしばらく外出を禁じられていたゴッホは、状態が落ち着くと療養所の庭に出て制作するようになる。何週間も療養院の敷地内に留まらざるを得なかったものの、新たな環境はゴッホにインスピレーションを与えた。庭に対しては以前から興味を持っていた。療養院での日々の様子を弟のテオに伝える手紙の中では、庭で描き上げた作品のモチーフについて「キヅタに覆われた木々の太い幹、同じくキヅタやツルニチソウに覆われた地面、石のベンチとひんやりした木陰のバラの茂み」と挿図を添えて書き送っている。本作もまた、療養院の荒れた庭に咲くバラの茂みを描いたものであろう。草が生い茂る地面を背景に、淡いピンク色の花を咲かせたバラが低い視点からクローズアップで捉えられ、描かれている。このような構図は、浮世絵やジークフリート・ビングの「芸術の日本」の挿図など、パリ時代にゴッホが触れた日本美術の影響が見て取れる。ゴッホほど、日本の浮世絵を愛した画家は少ない。

海辺に立つブルターニュの少女たち ポール・ゴーガン作 油彩・カンヴァス1889年

ゴーガンは1888年の夏にポン=タヴェンを訪れたエミール・ベルナールから刺激を受けて、明瞭な輪郭線に囲まれた平らな色面で画面を構成する「クロワニズム」の様式を取り入れた。彼は、印象主義を乗り越え、象徴主義絵画の創始者のひとりとなった。ゴーガンは1889年の大半をブルターニュで過ごしている。秋にはポン・タベンから海辺の寒村ル・プールデュへ移り、オランダ人画家メイエルデ=ハーンと共同生活を送りながら制作した。この作品はル・プールデュの農家の子供たちをモデルにしながら、ブルターニュの印象を総合主義の理念に基づいて表現したものである。黒い頭巾を被り、大きすぎる服を着たふたりの少女は、拗ねたような表情を浮かべ、警戒の眼差しを返している。ごつごつした素足を誇張して描かれた彼女らの姿は、素朴な木彫像のようである。背景は鮮やかな色面によって帯状に分割され、岩礁のある険しい海岸の眺めを表わす。

坐る娘と兎  ピエール・ボナール作 油彩・カンヴァス 1891年

ナビ派の画家達はゴーガンの言葉や作品に触発され、自然の再現とは異なった、絵画として独立した色面、線、構図を追求し、作品に装飾的な傾向を示したグループである。ナビとは「預言者」を意味する。ボナールはこのグループのひとりとして活躍を始め、特に当時ヨーロッパ全体に広がっていた日本趣味(ジヤポニズム)に深く傾倒した画家である。のちに人物や風景など身近な日常の光景を、周囲に溶けるような明るい色彩と筆致で描くようになる。本作は1891年、サン=ジェルマン=レで開催されたナビ派の第1回展に出品された。この時期のボナールは、全面的な構成による装飾的な絵画やポスターを制作し、浮世絵などの日本絵画の影響を全面的に出していた。それは日本画を思わせる縦長の画面が用いられた本作にも十分認められ、アールヌーヴォー風の曲線を描く肘掛椅子に座る女性が、木の葉の上にまるで貼り付けられたように見える。すべてが流れるような曲線で描かれ、画面にリズムを造り出している。

サン・トロペの港 ポール=シニヤック作 油彩・カンヴァス 1901~2年

最後の印象派展となった1886年の第8回展に参加したジョルジュ・スーラーとともに新印象派を創始したシニャックは、1891年のスーラーの急逝後この流派を率いた。彼は1892年にみずから操縦するヨットで南仏のサン・ト・ロペを訪れて以来、この色彩豊かな風物に魅了され、毎年数カ月をこの港町で過ごす。本作はサン・ト・ロペを見出してちょうど10年目に当たる1902年に完成された。シニャックの風景画としては最大の作品であり、彼の代表作の一つに数えられる。サン・ト・ロペの旧い港の全貌が西側から捉えられ、特徴ある教会の鐘楼を中心とした旧市街地、17世紀の城塞がそびえる丘、波止場に泊まる帆船、漁師たちを乗せた小舟など、シニャックが愛した街の歴史と風土を物語るさまざまなモチーフが描かれている。新印象派に特有の色とりどりの筆触が画面を覆っているが、作者自身が本作について「強いオレンジ色の背景に青のアラベスク」と記した通り、遠景の街並みのオレンジ色と前景を包む影の青という補色の組み合わせが、全体の配色の基調である。彼のこうした新しい画風は、マチスを始め、純粋な色彩による表現を求める20世紀初頭の画家たちに示唆を与えることになる。

花と泉水アンリ=ジャン=ギョーム・マルタン作油彩・カンヴァス 1900年頃

新しい世代の筆頭であるジョルジュ・スーラーが新印象派を創始する一方、彼と同世代のアンリアルタン、アマン=ジャン、エルネスト・ローランらはアカデミズムを基礎としながら印象派や新印象派の手法を吸収し、世紀末に流行する折衷的な絵画様式を作り上げた。マルタンは新印象派の点描技法を取り入れたが、厳密な色彩分割の原理に基づくのではなく主観的な感覚によって配色を選び、光の効果や神秘的雰囲気を生み出すためにこの技法を利用している。マルタンは1890年代に象徴主義的な寓意画をサロンに出品して注目され、20世紀初頭から1930年代まで、故郷トゥールーズとパリの市庁舎、エリゼ宮、国務院など多数の交共建築のために大画面の装飾画を手がけて成功を収めた。その一方、フランス南西部ロト県の小村ラバスティード=デュ=ヴィエールの丘に建つマルケロールという名の屋敷を拠点に、自然と人工の美に調和を表現する色彩豊かな風景画を数多く描いている。マルケロールの庭園に設けられた半円形の人工池は、彼の作品にたびたび描かれたモチーフである。池の石壁の中央には、鵞鳥を連れたプットーの石像が立つ。池の周囲にはゼラニュームの鉢がびっしりと並び、その赤い花が緑の茂みと鮮やかな対比をなす。

テラスの二人 エルネスト・ローラン作 油彩・カンヴァス 1922年

エルネストローランはサロン肖像画の伝統に印象派と象徴派の新しい感覚を取り入れ、ベル・エポックの富裕層の間で人気を博した画家である。彼は国立美術学校で知り合ったジョルジュ・スーラー、アマン=ジャンと親交を結び、印象派やピュヴィ・ド・シャパンヌの作品に関心を寄せたが、1889年にローマ賞を得てイタリアで5年間の留学生活を送り、帰国後は伝統あるフランス芸術協会サロンを発表の場として、アカデミックな経歴を貫いた。1919年には美術アカデミー会員に選出され、国立美術学校の主任教綬にも就任している。1900年代以降は肖像画のほか、女性を主役とした日常の穏やかな情景を描いており、同様の傾向を持つアマン=ジャン、アンリ・マルタン、ル・シダネルとともに「アンチミスト」としばしば呼ばれる。「テラスの二人の夫人」は、ローランの洗練された色彩感覚をよく示す晩年の作品である。舞台はおそらくパリ郊外ピエーヴルの自宅の庭であろう。

坐る女 藤田嗣治作  布・油彩             1929年

足を投げ出して座るポーズは、肖像画の際に藤田が好んで用いたものである。マネやルノワールの影響と思われるが、藤田の代名詞でもあった「横たわる裸婦」のような雰囲気を、肖像画でも再現する格好のポーズだろう。また、衣装の柄やデザイン、布の襞などをたっぷりと見せることの出来るポーズでもあり、この作品でも柔らかな布の作る美しいドレープを見せ場の一つになっている。一方、金地で仕上げた背景もお得意のスタイルだった。藤田が金箔を自作に取り入れ始めるのは、乳白色の下地を生み出すよりも早く、1910年代後半である。日本的な仕上げや、中世のキリスト教絵画のような雰囲気を模索する中で見出した手法だったが、乳白色の下地で人気を博した頃から、注文制作の肖像画にも積極的に使うようになる。金箔は現地で調達したものを使い、大きな作品の場合でも、貼る作業まで自分で行うことが多かったらしい。金地で仕上げたオリエンタルな雰囲気の肖像画は、注文主が藤田の作品に求めるイメージにぴったりだったに違いない。藤田の画家人生において絶好調の時代であり、作品の価格はマチス、ピカソと並んだとも言われる。

 

ポスト印象派は、新印象派・象徴主義・ナビ派など多彩な展開を見せたが、20世紀のピカソやマチスに繋がる美の系統を作った。印象主義と現代を繋ぐ重要な時代であった。私個人としては、最後のフジタの作品が一番好きである。理屈ではなく、好みを好きに言える場は有りがたい。

 

(本稿は、図録「国立西洋美術館名品選」、図録「新印象派  2014年」、図録「ゴッホとゴーギヤン展 2016年」、図録「藤田嗣治展  2016年」を参照した)