国立西洋美術館  常設展  印象派の画家

国立西洋美術館は、企画展と平常展の2本立てで展覧会を開いている。常設展については、観客も少なく、最近では外国人観光客が多い展覧会になっている。また65歳以上は身分証明書を見せれば無料となる有り難い施設である。私は、最近、上野へ行けば、他の展覧会を見て、余裕があれば、必ず常設展を見ることにしている。さて、国立西洋美術館は、実業家の松方幸次郎氏(日銀初代総裁として日本史で倣った松方正義の子供)が、1910年代から20年代にかけて収集した松方コレクションが基礎となっている。古い話だが、この松方コレクションは、戦時中、フランスに保管され、戦後、フランス政府が敵国財産として没収した。日仏両政府の交渉の末に「寄贈返還」されたのは1959年(昭和34年)のことである。この松方コレクションを収納・展示するために建築されたのが国立西洋美術館であった。この美術館は世界的に近代建築を主導し、国際的影響力を持ったル・コルビジェの手になるものである。後年、フランス政府の主導によって、「ル・コルビジェの建築作品ー近代建築運動への堅調な貢献」として、フランス政府によってまとめられてユネスコに申請され、7ケ国17遺産をシリーズ中の一遺産として、2016年7月に(昨年)に世界文化遺産に登録された。さて、松方コレクションの内容は、絵画196点、素描80点、版画26点、彫刻63点、参考作品5点、合計370点であった。なお、その後、寄贈や国家予算による購入によって増加し、日本における近代洋画の最大拠点となった。個人的な事情を述べれば、私は、この国立西洋美術館と京橋のブリジストン美術館で、近代西洋絵画・彫刻を学び、西洋美術について多くの勉強をした思い出の美術館である。今回、改めて国立西洋美術館の常設展のうち、19世紀以降の印象派に属した画家(後に印象派を離れた画家も含む)とポスト印象派の画家(19世紀以降20世紀にかけて)の2回に分けて連載したい。勿論、松方コレクションにはルネサンスから20世紀の抽象派作品まで網羅しているが、私の好みによって、印象派とポスト印象派の2区分で解説したい。いずれルネサンス以降の画家や彫刻家達も取り上げたいと思う。

雪のアルジャントゥイュ クロード・モネ作  油彩・カンヴァス 1875年

クロード・モネ(1840~1926)は、印象派を代表する画家であり、生涯、印象派であり続けた稀有の作家である。生涯、彼の関心は刻々と表情を変える自然の風景にあった。外界の瞬間的な印象を鋭敏な目で捉え、明るい色彩と素早い筆致でカンヴァスに定着を試み続けたモネは、印象派の美学に最も忠実な画家とも評されている。1871年から78年にかけて、モネは妻のマミーユと生まれたばかりの長男ジャンとともに、パリ近郊のアルジャントュイュに暮らした。セーヌ河畔のこの町は、休日にはパリからボート遊びの人々が集まる行楽地である。大雪に襲われた1874年末から1875年初めにかけての冬、モネはここで一連の雪景色を描いた。その限りなく繊細な眼はここで、雪に襲われた木々や道路、そして凍てつく冬空、それぞれの白に光の効果が与える微妙な陰影の変化を見分け、同時代の平凡な郊外の町の一隅を詩的な風景へと変貌させている。

舟遊び  クロード・モネ作  油彩・カンヴァス    1887年

鉄道が普及した19世紀後半のフランスで、多くのパリ市民が近郊や地方へ休日を楽しみに出かけた。舟遊びは当時の人気のレジャーの一つである。妻カミーユを亡くし、1883年にジヴィェニールに移住したモネは、近くを流れるエプト川の舟遊びの光景を繰り返し描いている。その中でも本作はひときわ完成度が高い。モデルは、後にモネの再婚相手となるアリス・オシュデの連れ子ブランシュとシュザンヌである。画家は高い岸の上から川で舟遊びに興じるふたりの娘たちを見下ろしているのであろう。水平線は描かれず、画面全体を満たす水の川面を、白い夏服の娘たちを乗せた小舟が一艘、悠然と横切っていく。1880年代後半、モネは、しばらく制作から離れていた戸外の人物像に再び取り組んだ。しかし、ここに見られるように、その顔は省略的に画かれることが多く、人物も光と影の下で絶え間なく変化する風景の中のモチーフの一つとして扱われている。そして1890年代以降はふたたび風景を描くことに集中することになる。

陽を浴びるポプラ並木 クロード・モネ作  油彩・カンヴァス  1891年

光の効果に対するモネの関心は、1890年代以降、時間や天候をさまざまに変えて同じモチーフを描く連作の制作へと向かう。1891年の初夏から秋にかけて取り組まれたのが、ジヴェルニー近辺のエプト川の岸辺の「ポプラ並木」の連作である。モネはアトリエ舟に乗って制作に励んだと言われる。この連作では、季節や時刻、天候の違いによる光や色彩の変化と、川辺のポプラ並木が作る垂直と蛇行線のリズムの響き合いが重要なテーマとなっている。本作では、勢いのある筆致で描かれた緑の岸辺に優美に立つ3本のポプラの幹越に、蛇行していく木々の曲線が覗く。しかし前列の木々の梢が画面上端で大胆にも断ち切られているせいか、前後の位置関係が明瞭ではなく、空間の奥行きはあまり感じられない。極めて平面的で装飾的な画面構成がなされている。水面にはポプラと空が明瞭な反映像を映し出し、空間をさらに曖昧なものとしている。

セーヌ河の朝  クロード・モネ作  油彩・カンヴァス   1898年

クロード・モネは念願のアトリエ舟をセーヌ川に浮かべ、妻に見守られながら制作に励んだ。舟で川に漕ぎ出し、水面を至近距離から観察できるアトリエ舟はモネの戦力となった。この船は文字通りアトリエに改造されているから、自然の尽きせぬ魅力をその場でカンヴァスに留めることが可能であった。願っても無い制作環境を手に入れたモネは刻々と変化する水面を這うモネの低い視線は、川に漕ぎ出したアトリエ舟の経験なくしては、とても考えれないものであった。

 

睡蓮  クロード・モネ作  油彩・カンヴァス   1926年

1883年、ジベルニーに移り住んだモネは、庭作りに熱中し、自宅の前に多種多様な花の咲く「花の庭」を造った。その後さらに庭を拡張し、池を造成して睡蓮を浮かべた「水の庭」を造った。1890年代からこの池がモネの絵の主要なテーマとなる。最初の池を描いた連作では、日本風の太鼓橋を中心に、池とその周囲が大きく捉えられていた。その後1903年から描き始められた連作では、睡蓮の浮かぶ水面の広がりだけで画面が構成されるようになる。本作は、のちにオランジェリー美術館に収蔵された1914~26年作の大型連作のための習作の一つと考えられている。アトリエを訪ねた松方幸次郎が画家から直接購入したもので、完成度も高く、晩年の様式を示す重要な作品である。当時、モネは庭の隅にガラス張りのアトリエを建てて、時の恵果とともに表情を変える蓮池の水面を相手に朝から晩まで制作に励んでいた。本作は、一見日本の屏風を思わせる装飾的な平面構成だが、そこには、水辺といい重層的な絵画空間が生み出されている。1908年頃からモネの資力の低下が進み、1913年には白内障と診断され、後に2度の手術を受けるなど、晩年は目が病んでいた。最晩年の作品では、モチーフも水面も次第に荒々しく表出的なストロークで描かれ、抽象化も進む。その色面の広がりや感覚的な表現は、抽象主義やアンフォルメなど、20世紀美術の展開にも影響を与えている。

アルジェリア風のパリの女たちハーレム  オーギュスト・ルノワール作1872年

1872年のサロンに向けて描かれた本作は、ドラクロワの1834年の傑作「アルジェの女たち」に着想を得ている。やはり東方風の女性像を描いた「アルジェの女」が1870年のサロンに入選した前例もあり、ルノワールとしては戦略的な計算による自信作だったに違いない。だが意に反して本作は落選し、その上、中央の女性のモデルを務めた恋人のリーズとの7年にわたる関係にも終止符が打たれることになった。ロマン主義以降ひとつのシンボルとして定着したオリエント風の主題は、当時の画家たちに、別世界の出来事という口実のもとで大胆な裸体表現を行う余地を与えていた。ルノワールはドラクロワ作品から場面設定を借りながらも、縦長の画面に対角線を強調した動きのある構図を作り、さらに裸体の女性達を中心に据えて独自色を出そうとしている。だが、ルノワール好みの豊満な裸婦は、ドラクロカワが表現したハーレムの香気と翳りを損ない、オリエント風を装ったパリの売春宿と見做されるまで戯画化した感がある。普仏戦争とパリ・コンミューンの直後の状況の中で、そうした企てが公的に受け入れられることは難しかったであろう。本作は、程なくして初期の印象派コレクターの一人であるウジーヌ・ミュレルに買い取られている。

木かげ オーギュスト・ルノワール作  油彩・カンヴァス  1880年

ルノワールは1880年(40歳)の時に、イタリアに旅行して、画風が大きく変わる時期となった。1880年作の本作は、ルノワールの印象派時代の最後を飾る絵の1枚に当たるだろう。「木かげ」に描かれた木々は、色彩に彩られて、正に印象派そのものである。ルノワールの印象派時代の最後の1枚として記憶に残したい。

帽子の女  オーギュスト・ルノワール作  油彩・カンヴァス  1881年

ルノワールはイタリアから帰国後の1883年頃から印象派の技法に行き詰まりを感じ、輪郭のはっきりした形と固有色による表現への転換を図った。しかし「乾いた時代」と呼ばれる1880年代中葉の生硬な様式は支持を得られず、長く続かなかった。1880年代末から、ふたたび彼の画風の転換が始まる。彼はヴァトーやフラゴナールのロココ絵画を新たな師範と仰ぎ、洗練された筆触による表現を改めて価値を見出した。「真珠の時代」と呼ばれる1890年代の作品では、柔らかい筆触によって対称の肉付けが表され、女性の肌や衣服は、淡い色調が微妙に溶け合ってほのかな輝きを放つ。この新しい画風は大いに人気を博し、美術界におけるルノワールの地位は、この時代に揺るぎないものとなった。

立ち話  カミーユ・ピサロ作 油彩・カンヴァス  1881年頃

印象派の画家の中で最年長のピサロは、1874年から86年まで8回の印象派展にただ一人、毎回参加を続け、グループの精神的支柱として印象主義の展開に貢献した。作品においては1870年頃からモネやルノワールの闊達な筆触や明るい色彩を取り入れながらも、より構築性の高い質実な画風を築いている。「立ち話」は1882年の第7回印象派展の出品作品である。ピサロはこの数年前から、当時暮らしていたポントワーズ周辺の農村の周辺に題材を取り、農民の姿を中心に据えた作品を多く描いている。それらを発表した1882年の印象派展では、何人もの批評家がミレーを引き合いに出してピサロの新作に言及していたが、そのような見方は彼の意に反していた。ピサロはミレーの農民に込められた宗教色を嫌い、労働の苦しみと言う固定観念から解放された現実の農民の姿を描いたからである。この作品にも、田舎の農村を歩けばごく普通に目にする農家の女性が垣根越しにお喋りしているところであり、左側の若い女性は片腕を柵の上に乗せ、寛いだ姿勢を取っている。ミレーの理想化された農民像とは大きな違いがある。

 

結局モネとルノワールとピサロに終わった。特にモネは印象派を最後まで貫いた、印象派の生みの親であり、最後の睡蓮の連作に至るまで、モネらしい一生であり、日本では一番人気の高い画家である。ルノワールは印象派からスタートしたが、イタリア旅行を経て画風を変更しながら、人気の高い画家として生きた。ルノワールの日本における人気は未だに高い。次回では、新印象派、ゴッホ、藤田嗣治などを取り上げたい。

 

(本稿は、図録「国立西洋美術館名品選」、図録「ルノワール展  2016年」島田紀夫「ルノワール 作品と生涯」、吉川節子「印象派誕生」、日経新聞2017年6月25日「ザ・スタイル・アーツ」を参照した)