大原美術館   西洋の近代絵画

国立新美術館において「はじまり、美の饗宴 すばらしき大原美術館コレクション」が16年1月8日より4月4日まで開催されている。大原美術館は、西洋近代絵画、日本近代絵画、オリエント・中国古代美術品、現代、21世紀の美術品に至るまで、幅広い取集で知られている。大原美術館は岡山県倉敷市に1930年(昭和5年)に開設され、日本では最初の私立美術館となり、今日でも西洋近代美術品では、国立近代美術館、ブリジストン美術館、ポーラ美術館と並んで、4大美術館の地位を確保している。創業者の大原孫三郎氏は、児島虎三郎氏、満谷国四郎氏などに協力を依頼し、100年以上に亘って取集活動を続け、幅広い分野での美術品取集を現在でも続けている。日本近代絵画では、重要文化財2点も所有しており、年間100万人以上の入館者を誇っている。大原孫三郎氏は「倉敷紡績」(現在のクラレ)の経営者であり、大原社会問題研究所、大原農業研究所、労働科学研究所など幾多の文化事業を残し、中でも美術館が一番自分の負担になったと述懐されたそうである。私は、近代絵画の勉強のため10回以上大原美術館を訪れ、どれほど多く勉強させてもらったか知れない。岡山、広島等への出張を利用して訪れたものである。

受胎告知   エル・グレコ作  油絵  1590~1603年

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「エル・グレコ」とは古いスペイン語で「ギリシャ人」を意味し、画家がクレタ島出身であることに由来している。この作品は、古くから1600年前後の作品と解され、紫がかった朱,黄の強烈な色調や、暗い背景と輝くような光芒の激しい明暗の対比、マリヤや天使ガブリエルの長く引き伸ばされた彼独特の変型は、彼がイタリアで学んだヴェネチァ派やミケランジェロの影響の名残があるが、ここではもはやグレコ独特の様式であり、スペイン的感情がある。1922年にパリ画廊で売りに出されたのを児島虎次郎氏が見つけ,高額であったが大原孫三郎氏に打診し購入に至った。大原美術館所蔵のうち唯一のオールドマスターズによる作品である。

幻想  シャバンヌ作  油絵   1866年

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高い崖を背景にした森の中で、腰掛けたニンフがペガサスーこの羽翼の馬は一般的に幻想の象徴ーを捉えようと葡萄の蔓を投げ、その近くで子供がリースを作っている。女性のポーズはアングルによって古代ローマの壁画にあるモチーフを思い起こさせる。牧歌的な雰囲気を作りだし、古代の神話へいざなうシャバンヌの力を<幻想>は、典型的に示すもので、1866年のサロンでは大きく注目を浴びた。(この「幻想」は2014年3月の「美」の「水辺のアルカイダ」で取り上げている)

アルプスの真昼  ジョヴァンニ・セガンティーニ作  1892年

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この作品は1892年、すなわちセガンティニの中期の終わり頃のもので、彼の全作品の中でも傑出した名作である。彼は印象主義の理論と技法をグラビティから教わり、この作品にも新印象派の色彩分割の技法が余すところなく用いられている。単なる模倣ではなく、自己の中に吸収しつくしている。セガンティーニは自分の妻子、ごく少数の理解者以外に、殆ど親しく交わる人も無く孤独であった。この作品は、明るく輝く陽光の下にたたずむ羊飼いの娘の平和な姿に、表面的な描写以上に、彼の宗教的な自然観が窺える。都会を嫌悪してバルビゾンの村に閉じこもったミレーの心境に似通ったところがある。

泉による女  オーギユスト・ルノワール作    1914年

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ルノアールがこの「泉による女」を描いたのは亡くなる5年前、すなわち彼の73歳の時で、最晩年の作品である。老齢でしかも身体の不自由なルノアールがこのように瑞々しい豊麗な裸婦を描いたとは誰も信用しないほどである。ルノアールの所謂「乾いた時期」が数年続くが,晩年には再び豊麗な色彩が甦り,彼独特の画風が確立された。彼は印象派の光としての色にこだわらず色彩そのものの価値を自由に生かして輝くような画面を作り出している。若い娘の肉体の持つ豊かさ、感応的甘美さを、これほどまでに自由に描いた画家がいるであろうか。

かぐわしき大地  ポール・ゴーギャン作         1892年

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ゴーギャンは1891年、南太平洋の孤島タヒチに向けて旅立った。野性的な性格の持ち主であり、絶えず野蛮と原始への憧憬にかり立てられていた彼は、自分の魂を煩わすことのできないヨーロッパの合理的な文明生活に見切りをつけ、絶海の楽園を夢見てタヒチ島に渡った。「かぐわしい大地」は1892年に描かれた。「ここは幻想的な果樹園、その誘惑的な草木の群れがエデンのイヴの欲情をそそる。彼女の腕が恐る恐る伸びて悪の華を摘もうとし、そのとき怪鳥がの赤い翼がはためいて彼女のこめかかみをかすめ打つ。」これはゴーギャンが自ら彼の「私記」のなかに引用しているドラローシュの文の一節である。この堂々たる傑作も、93年に彼がパリに持ち帰り、オテル・ドルオで個展をしたときには誰も顧みるものはなかった。

「髪」 エドモンドー=フランソワ・アマン=ジャン作    1912年頃

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1878年にパリの国立美術学校に入学し、ポスト印象派に影響を受け、美術学校を中退。やがてアカデミックな写実的描写に印象派などの手法を折衷したスタイルを確立し、甘美な女性像を描いて人気を博した。全体的に柔らかい色調で描かれた本作品も、女性の姿が優美に表現されている。ウエーブした亜麻色の豊かな髪は、肌を露わにした上半身と相まって官能的な雰囲気を漂わせている。当時フランス画壇の重鎮であったアマン=ジャンの作品が日本の画家にとって有益と考え、本作品の購入を大原孫三郎に依頼した。送金を受けて、児島がアマン=ジャン宅を直接訪れて、作品を受け取った。この「髪」が大原コレクションの第一号である。

「マルトX夫人ーボルドー」 ロートレック作    1900年

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この絵はロートレックの最晩年の作である。彼は若い頃ベラスケススやゴヤ、アングルの影響を受けた。しかし「ロートレックに何よりも大きな影響を与えたのはドガと日本の浮世絵版画であった」とダグラス・クーパーが述べているように、1885年ごろ初めて会ったドガからはきびしいデッサンを、浮世絵版画からは色彩の単純化と簡素な表現を学んだ。この作品に描かれた夫人はモンマルトルの女ではなく、貴婦人の一人である。独特の線とすみずみまで丹念に塗られた色彩とが融合された堂々たるできばえで、彼の作品の中でも指を屈する傑作である。

「マチス嬢の肖像」  アンリ・マチス作    1918年

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20世紀前半のパリ画壇は「ベル・エポック」を背景にパリを中心とした華麗な華を開かせたが、その中でもっとも輝かしい光彩を放ったのはマチスの作品であった。1869年北仏ル・カトーに生まれた彼はパリの美術学校でモローに師事し、その後印象派や新印象派の影響を受けるが彼がもっとも感銘を受けたのはゴーギャンとゴッホの作品である。二人の影響によって20世紀最初の革命的な美術運動であるフォービズムが生まれた。この絵は、構図と色彩の単純化が追及されている。背景の青、帽子の白、顔のピンク、衣服の茶などの色彩がすべて同じ比率で、同じ強さで描かれ、巧みに組み合され調和されている。多様にして単一なるもの、秩序、調和の創造こそマチスの追及する課題である。この作品は児島虎次郎が直接マティスを訪ねて手に入れたものである。モデルのマルグットが売却を拒み、マチスが説得したというエピソードが伝わっている。

「ジャンヌ・エピュルヌの肖像」 モディリアーニ作   1919年

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10代で絵画の手ほどきを受けていたモデイリアーニは、26歳の時にパリに出てモンパルナスを拠点に活動し、藤田嗣治やシャイムス・スーテンらと交流したいわゆるエコールド・パリの画家である。本作品に見られる、全体的に細長く引き伸ばされ、目には瞳が与えられず、ほぼ正面を向いて幾分首をかしいだポーズは、モディリアーニの典型的な描き方である。肩と両腕がなだらかな曲線を描き、画面の下で手を組むことによって胴体は楕円形を構成している。円形のイメージが強く打ち出されている。描かれている女性は、画家の妻ジャンヌである。ジァンヌをモデルにした作品をモディリアーニは短い生涯においておよそ30点余り制作している。

 

倉敷の街は、江戸時代には天領であり、4公6民と言われ、税金は収獲の4割であり、豊かな生活が送られた。町衆が力を持ち、天領は日本中では400万石と言われた。これが徳川幕府の収入となり、倉敷には代官所があるのみで、諸大名の領地に較べれば、行政コストが安く済んだ。天領を実質的に動かしたのは商人たちであった。そして町の在り方は、商人たちに自治や公益性に対する意識を醸成させた。この街の持つ雰囲気と、大原美術館を創設した大原孫三郎に対する尊敬の念が、何時も私を倉敷に引きつけるのである。2010年に開館100周年を迎え、次のような使命宣言をしたそうである。

1.アートとアーチストに対する使命

2。あらゆる「鑑賞者」に対する使命

3.子どもに対する使命

4.地域に対する使命

5.日本と世界に対する使命

この5つの使命宣言は、大原美術館ならではの宣言であると思う。

 

(本稿は、図録「はじまり、美の饗宴 すばらしき大原美術館コレクション」、藤田慎一郎「大原美術館」、福島繁太郎「近代絵画」、司馬遼太郎「この国のかたち」第二巻を参照した)