大原美術館  日本の近代洋画

大原美術館は、昭和5年(1930)、大原孫三郎氏の手によって開館し、わが国最初の西欧絵画の美術館が誕生した。昭和10年(1935)に、財団法人に改め、戦後も蒐集を続けた。戦後新たにセザンヌ、ドガ、シスレーなど19世紀絵画や、ピカソ、ルオー、ブラックをはじめとする20世紀のエコールド・パリの巨匠たちの作品を加え、更にカンディンスキー、キリコ、ニコルソン等の現代絵画までに及んだ。これと前後して明治、大正,昭和の三代に亘る近代日本の洋画の代表作品も併せて蒐集した。昭和35年(1960)に開館30周年を記念して新館を設立し、古代エジプト美術品やペルシャ美術陶器などを陳列した。更に昭和36年(1961)には、陶器館を建設し、バーナード・リーチ、宮本健吉、河井寛次郎、浜田庄司のいわゆる民芸作家の陶器類を陳列し、更に昭和45年(1970)には東洋館、47年(1972)には児島虎次郎館を増設した。今回は民芸、版画、染色、古代美術の紹介は省略する。

和服を着たベルギーの少女  児島虎次郎作 油彩・カンヴァス  1911年

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児島虎次郎は1902年に東京美術学校西洋画予科にに入学し、黒田清輝に学んだ。この年、大原家の奨学生となり、1歳年長の孫三郎との親交も始まった。この作品は、ベルギー時代の児島の代表作である。明るく鮮やかな色彩と躍動感あふれる筆遣いは、児島が指導を受けたエミール・クラウスによるベルギー印象派の影響を示している。画面には、少女の髪や顔に施された細かい筆触や、着物の柄を模した闊達な筆触、また帯に見られるペインテイング・ナイフの使用など様々な技法が用いられている。本作品は快心の出来映えであり、フランスの国民美術協会展で初入選した。

男の顔  青木繁作  油彩・カンヴァス   1903年

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明治44年(1911)に僅か29歳で世を去った青木繁は、明治の洋画壇に特異の画風を残したまことに天才と呼ぶに相応しい画家であった。「男の顔」は明治37年(1904)美校を卒業する年に制作したもので、自画像ではあるが、彼はこのなかにジンギスカンのような東洋的英雄の風格を表現しようとしたらしい。暗い背景のなかから浮かび上がる表情には、幻想的なロマンチックな情熱に憧れた多感な青年の夢がある。

雲のある自画像  萬鉄五郎作  油彩・カンヴァス   1912年

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大正期の日本洋画壇はフランスのフォービスムやキューヴィスムが相次いで紹介され、多くの画家がその洗礼を受けることに成るが、それの運動を最も鋭敏に把握したのが萬鉄五郎であった。萬鉄五郎の芸術は、大正期を通じてもっともユニークで本質的な新しさをみせたので、その足跡は鋭敏な観察力と高い叡智と情熱とをもって、近代絵画の正しいコースを示し、昭和期の日本洋画への大きな発展の道を開いたものと言える。本作品は、初期のフォービスムの影響を受けたところのある作品である。強烈な色彩の対比や奔放な筆致のなかに、新鮮な風をいっぱい吸い込もうとする彼の自由な若々しさがあふれている。

重要文化財 Nの家族  小出楢重作  油彩・カンヴァス  1919年

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小出楢重は佐伯祐三とともに大阪の生んだ最も傑出した画家でああった。大阪に生まれ、芦屋で亡くなった典型的な関西人に気風を持つこの画家は、大阪人の粘っこい体質と気質とを、油絵独特のマチェールや造型のなかに余すところなく表現した。大正8年(1919)彼の出世作ともなった「Nの家族」を描き、二科展に出品して樗牛賞を受け、その才能を認められた。彼自身とその妻子を描いたこの作品は色彩を渋く暗い調子でありながら、セザンヌの影響を思わせる堅固な安定した粘りのある作風を示している。

重要文化財  信仰の悲しみ  関根正二作  油彩・カンヴァス 1918年

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大正期と言う時代は、きわめて特異で個性的な画家、いわゆる異色の画家と呼ばれた人たちを生んだ。萬鉄五郎、村山槐多、関根正二などがその代表的な画家であるが、わけても関根は異色な存在であった。明治32年(1918)福島県に生まれ、僅か20歳で亡くなった。「信仰の悲しみ」は彼の代表作で、その芸術的意図や素質のすべてこの作品のなかに凝集されている。この頃彼は強度のノイローゼに悩まされいたが、ある日、日比谷公園に休息していた彼の前を共同便所から出てきた4,5人の女たちが通り過ぎるのを見て、不思議な幻想にかられて描いたという。朱や青や黄の衣をつけた女たちが髪をたらし、うなだれて、暗く重苦しい空の下を黙々と歩む。鮮やかな色彩が陽炎のように燃えて,観る人を幻想的な世界に引き入れる魅力を持っている。関根は当初「楽しき国土」と題していたが、友人から逆の評を得て「信仰の悲しみ」に変更した。関根は、この絵について、次のように述べている。「朝夕孤独の寂しさに何者かに祈る心地になる時、ああした女が三人又五人、私の目の前に現れるのです。あれは未だに完全に表現できないのです」と。本作品を気に入っていた大原総一郎は、「関根の数少ない絵の中でも傑作だがら、大切にするように」との言葉を残している。(図録より引用)

頭蓋骨を持てる自画像  中村彜(つね)作  油彩・カンヴァス 1923年

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明治末から大正期にかけて日本の洋画画壇には多くの傑れた画家が生まれた。中村彜もその一人であった。優れた才能を持ち、文字通り絵画に生命を賭けて37歳の若さで倒れたこの画家の生涯は短かったが、その残した仕事は日本洋画史上に不滅の光を放つものである。本作は死の前年である大正12年(1923)の作である。すでに自己の死を予感したごとく彼は髑髏(どくろ)を題材とした作品を描いている。ここにはセザンヌとゴチック建築の影響がある。彼は抽象的な方法を試みている。この病弱な画家が死に直面しながら渾身の力を振り絞って掻き上げたまことに力動感に溢れる作品である。

広告”ヴェルダン” 佐伯祐三作  油彩・カンヴァス  1927年

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1917年に大阪より上京した佐伯は、川端学校で藤島武二に師事、翌年に東京美術学校予備科に入学した。1923年に妻子とフランスへ出発。翌24年の夏、里見勝蔵に連れられモーリス・ド・ブラマンクを訪れた「アカデミック」と批判されて転機を得た。この頃の佐伯はヴラマンクの強い影響が残っていたが、佐伯は、パリの街、裏街風景に向かい、太い筆触やや技法はヴラマンク的でありながら、ヴラマンク的な激しい劇的な自然の解釈から退いた、ユトリロ的な静かなピトレスク的な解釈に向かい、佐伯の人間的な生活的な哀愁深まる画面となっていく。本作品は佐伯祐三にしか見られないパリの裏町の、ちぎれそうになったポスターの一杯貼られている壁の、沈鬱な哀愁に翳る画面となっている。VERDUNとは、大一時世界大戦でフランス軍がドイツ軍の猛攻を防いだ街の名である。パリの裏町風景を美しいと思う佐伯の伝統をついでいるのは荻須高徳(おぎすたかのり)である。

舞踏の前  藤田嗣治作  油彩・カンヴァス   1925年

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20世紀前半のパリ画壇では、マチス、ルオー、ブラックらの純粋なフランス人画家と、ピアソ、モジリアーニ、シャガール、藤田などの異国の画家たち(エコールド・パリ)が、それぞれの個性的な仕事で、その美を競っていた。藤田は独自の東洋的技法でパリ画壇の寵児となった。藤田は、東洋的な技法(むしろ浮世絵風と呼んだ方が正しいかも知れない)をヨーロッパの伝統的な油絵の中に取り入れることを試み、面相筆の細い線で形を包み、淡い墨をぼかしたマチエールで、いわゆる「乳白色の地肌」を作り上げたが、これが繊細優雅を好み、エキゾチズムに憧れた当時のパリの人達に大きな声望を博し、彼は一躍パリの流行児となった。本作は、藤田の最高傑作と言われた。この作品には乳白の肌と黒い線と、ほのかな黄、青、ピンクなどの抑制された色彩とが完璧に調和して、彼の技法がここに凝縮されている。

深海の情景  古賀春江作  油彩・カンヴァス   1933年

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古賀春江は大正末期から昭和初期にかけて立体主義、シュールレアリスムを反映させた日本人画家としては特異な存在であった。本作品は、彼の死の年に描かれた作品で、深い海の底のさまざまな魚や海草が揺れ動き、この画家の不思議なイメージを展開している。動物の顔をした白い生物はグラフ雑誌の舞踏に関するページから、深海の不思議な生物は、少年雑誌から転用したものである。本作品の完成時には、すでに古賀の衰弱は激しく、友人の高田力蔵がサインを代筆したと伝えられている。

被毛氈  満谷国四郎作  油彩・カンヴァス   1932年

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満谷は明治44年(1911)秋から二回目の渡欧を果たし、パリではローラスに師事した。またセンザンヌやルノアールの影響を受けたと言われてる。彼が、この二人の巨匠からその芸術の本質をどの程度学んだかは疑問であるが、彼はセザンヌから画面構成や表現方法を、またルノアールからは装飾的な効果を学んだものと思われる。しかし、この二人からの影響は満谷の後期の装飾的な東洋風の様式へすすむ動機となったことは、彼にとっては極めて重要なことであった。本作品は昭和7年(1932)の制作で、満谷国四郎の晩年を飾る傑作として知られている。黄,朱、黒などの極度に単純化された色彩と簡潔な構図によって、彼の晩年の東洋画風な様式がよく示されている。ゆるやかな情感がただよい,観る人をしみじみとした雰囲気のなかに誘ってくれる。

孫  安井曽太郎作  油彩・カンヴァス    1950年

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安井曽太郎は梅原龍三郎とともに昭和の洋風画壇の重鎮として活躍した。彼が梅原と同年の明治21年(1888)に同京都に生まれ、よきライバルとして、またきわめて対照的な個性や画風によって常に画壇の中心的な存在であった。本作は昭和25年(1950)の制作であり、彼の晩年を飾る傑作である。自分の肉親を描いただけに、のびのびとした自由な雰囲気と、生き生きとした情感にあふれている。安井芸術の特質がここに結集されているように見える。

耕到天   藤原武二作   油彩・カンヴァス   1938年

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昭和13年(1938)に制作され、その年の第二回文展に出品されたもので、藤島武二の晩年を飾る傑作である。積み重なって天に迫る自然の壮大さと、緑の麦畑と茶の山畑と咲き乱れる花の色彩が交錯して続く装飾的な効果とが、力強い筆致と大胆な構図によって十分に表現され、晩年の円熟した力量が画面の中に感じられる。彼は明治、大正、昭和の三代にわたり日本洋画の発展とともに常に革新的な道を歩んだ画家で、洋画壇に残した足跡は極めて大きい。「耕到天」(耕して天に到る)とは、貧しさを語る言葉であるが、この画面にはたゆまざる勤労のたくましさと豊かな自然を感じさせることは、この画家のなみなみならぬ力量を示すものである。

 

日本の近代洋画を所蔵する美術館は、国立近代美術館、神奈川県立美術館、ブリジストン美術館、ポーラ美術館、大原美術館の5大美術館をおもい起すが、この中で、特に、質,量を誇る美術館は大原美術館だと思う。いずれ劣らぬ美術館であるが、大原美術館は、歴史、資力、選定力で群を抜く力を示す。特に大原美術館は、倉敷にあり、関東でない点を高く評価したい。西日本の近代日本美術を愛好する方には、欠かせない美術館である。今回、たまたま月曜日の午後に時間が出来て、開館している美術館を調べたら、国立新美術館に、大原コレクションを展示していることを知り、10数年ぶりに観覧することが出来た。展覧品には、古代エジプト、中国、21世紀美術品、民芸等多数の展示品があり、興味深く観覧したが、取りあえず西洋、近代日本の洋画を2回に亘り、書き綴った。更に大原美術館に行く機会に恵まれたら、他の分野も取り上げてみたい。

 

(本稿は図録「はじまり、美の饗宴 すばらしき大原美術館コレクション」、藤田慎一郎「大原美術館」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)