大和古寺の仏たち(1)

コロナ・ウイルスのせいで、全国の美術館、博物館がすべて閉鎖されている。私は「美」の連載を止めたくないので、かって拝観した美術展の中で、記憶に残る美術展の図録を頼りに、「美」の続きを書きたいと思う。最初に2012年に開催された「中国  王朝の至宝 2012年」を取り上げた。一応4回で終わりとし、今回からは1993年に東京国立博物館で開催された「特別展 大和古寺の仏たち」を、取り上げたい。大和の国の仏たちは、私が大学1年生であった昭和27年(1963)からのお付き合いで、実に60年近くお参りしてきた事となる。この展覧会は1993年(平成5年)の春の開催であり、まだ「美」という論評を書き出す前の展覧会であり、30年近い歳月が経つ。しかし、大和の国は、大きな変化はなく、仏像は全く昔のままである。30年経ったじかrと言って古くなるものでは無い。私からすれば、昨日のような思い出である。しかし、細かに見れば、お寺の建物が新しくなったり、良く見れば変化はある。しかし、変化よりも「変わらない美しさ」が、何時までも魅了してやまない。是非、私と一緒に大和の古寺を巡ってもらいたい。

平城京跡   大極殿の跡地

現在は、立派に大極殿が再建され、この石の遺物を見ることは出来ない。こんなに桜が咲いていたのかと驚くばかりである。奈良へ行く人は、年間何百万人といるが、大極殿まで足を延ばす人は少ない。「大極殿跡」として、広い場所があるので、是非一度足を運んでもらいたい。

国宝  薬師寺 東塔  木造3階建  養老2年(718)

薬師寺の歴史は古い。天武天皇9年(680)、天皇が鵜野(うの)皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して発願(ほつがん)し、藤原京の地(現在の橿原市木殿)に創建された。伽藍の造営は、持統天皇、孫の文武天皇まで引き継がれ、東西両塔を備えた寺院が建立されたが、和銅3年(710)の平城遷都に伴って、現在の地(奈良市西の京)へ移された。その時期は、文献では養老2年(718)とされているが、近年の発掘の結果、平城薬師寺の造営工事は、霊亀2年(718)には始まっていたことが確認されている。養老年間には、現在の東院堂の前身である東禅院が建立され、天平6年(734)頃までに主要伽藍は完成したと云われる。昭和50年代には金堂、西棟、中門が相次いで復興された。この写真は、東塔の昔の姿であり、金堂は新しく立て直された。      法相宗

国宝  聖観音立像  飛鳥~奈良時代(7~8世紀)  入江泰吉撮影

東院堂の本尊で,宝髻(ほうけい)は高く結い、丈帛(じょうはく)、裳をつけ天衣をまとい、胸飾、瓔珞などの装飾をつけ、通例の観音像とは逆に右手を垂加し、左手を上方に屈臂して直立する。正面から見ると、若々しい、青年のような表情と相まって体躯も非常に引き締まって見えるが、側面にまわると肉身の重厚さが見る者を圧倒する。金銅薬師如来像の両脇侍と、近い時期に制作されたと思われる。

重文  十一面観音立像  木造  奈良時代(8世紀)

薬師寺には、木彫の十一面観音立像が三体あり、本像はその中でも最古のものであるが、伝来に関しては不明である。檜の一木造りで、両肘先、両足先は別材を矧ぎつけ、背面に、後頭部肩から腰、腰から裳裾の三か所で内刳りを施し、別材をあてている。長年の風触のためか顔面の損傷がはげしいが、わずかに柔和な表情の輪郭を辿ることができる。頭上面は、、菩薩面が六面現存している。細かに抽出された胸飾りや臂釧(ひせん)には、かっての宝石が嵌入されていたようで、もとは華やかな美しさを備えたものであったのだろう。

国宝 僧形八幡神坐像    平安時代(8.9世紀)

 

国宝  神功皇后像     平安時代(8、9世紀)

国宝  興津姫命像     平安時代(8,9世紀)

南門前に位置する休岡(やすみがおか)八幡神社は、関平年間(889~898)に薬師寺別当の栄紹(えいしょう)が、宇佐八幡宮を勧請し、薬師寺の鎮守としたと伝わる。寺の鎮守として八幡神社をつくる例は、東大寺、大安寺などにあり、薬師寺でもそれに倣ったのであろう。この三像は、その祭神として祀られたのであろう。主神の僧形八幡神は、応神天皇に、二体の女神像は天皇の母である神功皇后と、天皇の后の仲津姫命にあてられている。制作年代は、八幡神社が建立された9世紀末頃と見られている。八幡神は、円頂(坊主頭)で袈裟をつけた比丘形につくられ、翻波式を交えた彫りの深い衣文が力強く表現されている。神宮皇后は左肘を立てて、興津姫命は右肘を浮かせて座す。両像とも頭上に髻(もとどり)を結い、豊かな髪を長く垂らす。着衣の形式も共通で、大袖の上に背子を重ね裙(くん)をつけている。胸元から長く垂れる紐は、背子の内懐紐と見る説と、裙の紐と見る説がある。本像は、平安時代の作でありながら、奈良朝の古式を踏襲した形で作られており、奈良・平安時代の服飾のあり方を感がえる上でも極めて興味深い作例である。

国宝 広目天立像 木造・彩色  鎌倉時代・正応2年(1289)隆賢・定秀作

国宝 多聞天立像 鎌倉時代 正応2年(1285) 隆賢・定秀作

東院堂の須弥壇上、聖観音像の厨子をとりまいて安置される四天王像のうちの二躯である。この四天王像は1986年に多聞天像台座框裏面の墨書名が発見され、鎌倉時代彫刻の基準作品として注目されることとなった。多聞天像台座の銘記によれば、この一具は正応4年(1296)に京都五條坊門の仏師法眼隆賢と駿河法橋貞秀により造立され、永仁4年(1296)に興福寺の絵師により彩色を施されたものである。正応2年(1289)は東院堂建立の弘安8年(1285)の4年後である。四駆の形・身色は、基本的には鎌倉時代初期の快慶作金剛峯寺像以後に一般的になる四天王像のそれに一致する。この形式は東大寺大仏殿の鎌倉再興像を典拠にしていると考えられ、南都の伝統に従うものである。

 

薬師寺と言えば、本尊の三尊像を思い浮かべるが、まさか展覧会に本尊を出品することはあり得ないことなので、それに続く聖観音立像をはじめ多数の仏像・神像が出品された。今回の解説は、僧形八幡神像や神功皇后像など、普段あまり取り上げない仏像・神像を取り上げた。薬師寺を最初に取り上げる理由は、数多くあるお寺の中でも官寺(天皇・国家が造ったお寺)だからである。当然、大安寺、東大寺も大きく取り上げられことになるだろう。乞うご期待。

(本稿は、図録「特別展 大和古寺の仏たち  1993年」,和辻哲郎「古寺巡礼」、入江泰吉「大和路巡礼 平城京」を