大宰府  観世音寺  お堂と塔跡

西海道における文化の中心地であった大宰府には、拠点となる多くの寺院が建立された。このうち、観世音寺、筑前国分寺、同尼寺などは、太宰府を支える護国の寺であった。中でも観世音寺は、府の大寺と呼ばれた西海道随一の寺であった。「続日本紀」の和同2年(709)2月に元明天皇が「天智天皇が斉明天皇のために、誓願した筑前観世音寺の造営が開始されたが、その後、年を重ねながら、今に至るまで造営されていないので、速やかに造営を遂げよ」という詔を出された。この記録から、観世音寺は、斉明天皇7年(661)に朝倉橘広庭宮で急逝した斉明天皇の追福のため、息子である天智天皇によって発願されたことがわかる。しかし、発願から建立までには、じつに80年以上かかっており、実際には伽藍の造営が完了したのは天平18年(746)であった。さらに天平宝字5年(761)には、西海道諸国の僧尼に戒律を授ける戒壇が設置された。東大寺、下野薬師寺とともに天下の三戒壇の一つとなった観世音寺は、名実ともに、西海道随一の権威を誇る府の大寺となった。だが、観世音寺はその後、幾度もの火災や様々な災難によって焼失してしまう。創建時の伽藍はすべて失われ、現在は、日本最古と言われる梵鐘と、江戸の初めに再建された講堂と戒壇を残すのみである。

観世音寺の石碑

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観世音寺の石碑が右側に立つ、何時の時代かは知れない。

南大門跡

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観世音寺の南大門の跡に碑が立っている。1360年前の南大門跡である。

観世音寺伽藍絵図        室町時代 大永6年(1526) 観世音寺蔵

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観世音寺の伽藍は、東に五重塔、西に東面する金堂、中央北の講堂に中門から伸びる回廊がとりついている。そして、その背後に大房を配している。戒壇院は廻廊の外側の寺院であろう。(この絵図には記載が無い)観世音寺伽藍の大きな特徴は、金堂が東を向いている点である。この正面に講堂、東に塔、西に東面する金堂からなる伽藍配置を”観世音式”と呼ぶ人がいる。この伽藍配置は、飛鳥の川原寺、近江崇福寺、陸奥多賀城廃寺などにある。斉明天皇にゆかりのある寺院や朝廷が関与した国家的な寺院に採用されることがわかる。長い僧坊は,僧の宿泊施設であり、往時の研修僧が多かったことを偲ばせる。

講堂                    江戸時代前期

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一時は廃絶状態にあったこの寺を甦らせたのは、黒田藩の力だったそうである。代々の藩主と、博多の豪商である天王寺屋らの支援で、伽藍の整備が行われて、観世音寺はかろうじて復興したのである。講堂は、観世音寺の本堂に当たるお堂である。創建時の講堂は、現在の2倍以上の広さを持つ巨大な建物だったという。現在の観世音寺は天台宗になっているが、当初は戒壇があった関係で、「八相兼学(はっしゅうけんがく)の寺」と称されていた。天台宗の寺になったのは、明治以降のようである。もともと観世音寺は観世音菩薩を本尊としたために「観世音寺」という寺名がついたのであろう。むしろ「観音信仰の寺」といった方が分かり易いだろう。

鐘楼(しょうろう)      江戸時代初期

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黒田藩の援助によって造営された建物であるが、この鐘は、現存する日本最古の銅鐘(どうしょう)として名高い。創建時の唯一の遺品である。

国宝  梵鐘(ぼんしょう)     白鳳時代

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観世音寺のながい歴史の間に創建時代の寺宝のことごとくが失われた中にあって、この鐘だけが1300年以上の歴史を誇り、挽歌を奏している。この鐘には文武2年(698)の銘を持つ、日本最古の有銘鐘である京都妙心寺の鐘とその大きさ、様式が最もよく似ており、同じ時代に製作されたものと言われている。しかも妙心寺の鐘は「粕谷」の銘があり、これが九州福岡県粕屋の地にあたる。観世音寺の鐘は無名鐘と言われていたが、この鐘に「上三毛」の銘が発見され、これが豊前の国にある地名であることがわかった。又、この鐘の音響については荘重な音で昔から親しまれている。今でも、年末の百八の鐘は、この鐘がつかれ、テレビでも放映されることがある。

五重塔心礎

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鐘楼の手前に、五重塔の心礎(しんそ)がある。これは、かってここに立っていた五重塔の中心の柱(心柱)を支えていた「心礎」と呼ばれる礎石である。その大きさには驚かされる。当時の五重塔の壮大なすがたが偲ばれる。

戒壇院             江戸時代

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戒壇院は、江戸時代まで観世音寺の堂宇の一つであったが、明治以降独立して臨済宗妙心寺派の寺になった。鑑真が、天平勝宝6年(754)に東大寺に戒壇をもうけた。それ以来、国家公認の僧侶となるためには、東大寺の戒壇まで行くのはあまりにも遠くて大変であった。そのため天平宝字5年(761)には、この大宰府の観世音寺と、下野(しもつけ)の薬師寺にも戒壇院を設けられた。これが「天下の三戒壇」である。九州や四国、中国地方にいて仏門に入ろうと若者たちは、みなこの大宰府の戒壇に集まったのである。一遍上人が、四国からわざわざ大宰府に来た理由が分かったような気がする。戒壇に登壇するまでの過程は大変なものであったらしい。誰でも戒壇を受けられる訳ではなく、いくつもの難関を突破して、戒壇院に授戒を申し込むことが出来た。1年のうちで授戒がおこなわれるのはわずかに八日間のみで、中国の科挙の試験のように、大変競争率の高い難関だったようである。その代り、ここで合格すると正式に官僧となり、将来の仏教界での栄達が期待できることになる。天下の三戒壇の中では、現在、ここが一番奈良時代の面影を伝えていると言われる。

宝蔵(収蔵庫)          昭和時代

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講堂等に仏像を配置すれば、保存状態が悪く傷みが激しくなるので、境内の一角に宝蔵が新設され、重要文化財に指定されている巨大な仏像類は、ここに保存されている。

大宰府政庁跡の礎石と碑        奈良時代

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正殿跡の礎石は平安時代の再建時のままで、柱座の経は60cmを超える。その上に建つ3基の碑、背後の大野城とともに大宰府政庁を象徴する景観である。近年の研究で大宰府に条坊があり、観世音寺は(縦)左郭七房、八房、(横)二条,三条に位置することが明らかになった。大宰府政庁の真中を走る道は、朱雀大路と言われていた。

 

観世音寺の歴史は古く、奈良時代まで遡ることができる。古さという点では、九州だけでなく日本全国の寺の中でも指折りの寺である。かって、この地には大宰府政庁があり、勉学の施設があり、外交、軍事の拠点として重要な役割を果たしていた土地である。大宰府は、後世の長崎や横浜のような東アジア全体の文物の交流の渦の中にあり、日本でも最も支那大陸や朝鮮半島に近い場所であり、最新の情報が流れる地であったのである。

 

(本稿は杉原敏之「遠の朝廷」、探訪日本の古寺「第15巻九州・四国・沖縄」、五木博之「百寺巡礼第10巻四国・九州」「続日本紀」を参照した)