大宰府  観世音寺  宝蔵のみ仏たち

私は、前篇の「大宰府 観世音寺 お堂と塔跡」で、観世音寺とは観世音菩薩を本尊としたために「観世音寺」という名前が付いたのであろうと推定し、広く「観音信仰の寺」と判断したのである。境内にある宝蔵庫に入ると、極めて大きな木造仏が並び、非常に驚いた。これは何度訪れても、驚きは変わらない。これの仏像類は、本堂に当たる講堂、金堂に安置されていたのであろうが、すべ初期の仏像はなく、平安時代、鎌倉時代の仏像類である。大火、災害等によって焼失したり、毀損したりして、残っているのは梵鐘のみである。従って、どの仏像がどこのお堂に安置されていたかも不明であるが、いずれにせよ観世音寺に伝来したことは間違い無い、「観音信仰の寺」と言う前提で、まず「観世音菩薩」と言われる仏像から紹介したい。

重要文化財不空羂索観音菩薩立像(ふくうけんじゃくかんのんぼさつりゅうぞう)鎌倉時代(13世紀) 像高517cm  寄木造

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この観音像は、手に持つ不空の羂索によって罪業の溺れ、悪業に沈む衆生の救済を悲願とする観音である。日本では東大寺三月堂本尊(奈良時代)、興福寺南円堂像(鎌倉時代)が知られている。私は、この像こそ、観世音寺講堂の本尊であり、寺院名の由来像であると確信している。この像は、大正3年(1914)修理のため解体したとき、胎内から塑像の顔面破片、塑像の木心(写真左に写る),経巻などと共に、この像の由来を記した胎内銘が発見された。これによると観世音寺講堂には奈良時代の不空羂索観音の塑像が講堂本尊として安置されており、康平7年(1064)の火災にも焼けず尊容を保っていたが、承久3年(1221)7月12日夜、俄かに倒れて砕けてしまった。この像の傍に立つ心木が奈良時代の塑像の心木であるという。再建にあたっては、鎌倉前期の貞応元年(1222)8月14日に滋済阿闍梨(じさいあじゃり)を勧進上人とし、良慶法橋を行事検校として、仏師琳厳が長尊を助手にして造ったもので、その頃における地方作としては極めて出来の良いものであり、また仏としてまことに本格的なものであった。三目八臂を持つその容姿は成熟した女性の美しさを表す。頂上仏の如来形は,平安初期の優秀作である。

重要文化財 十一面観世音菩薩立像  像高 498cm 寄木造り平安時代後期

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十一面観世音菩薩は六観音の一つで、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)のうちでは修羅道にあって衆生を済度すると言われている。この像の胎内に多くの銘と共に延久元年(1069)7月という平安後期の墨書銘があって、この像の像立期を実証している。この時代は、日本的ないわゆる藤原文化の華が咲き、法成寺、法勝寺など寺院の建立が盛んで、その中に安置する丈六の巨像の像立も多いが、現在まで残っていて、しかも製作期の銘のある例は非常に少ない。その点で、本像は極めて貴重な仏像である。

重要文化財 馬頭観世音菩薩像  像高 503cm 木彫寄木 平安時代初期

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馬頭観世音菩薩は六道の中では畜生道にあって、頭上に戴く馬が草を多く食う様に衆生の悩みを執り尽くして救済するという。もともと馬はインドでは四聖獣(獅子、象、牛、馬)の一つとして、アーリヤ的に神聖視されている。仏教以前のバラモン的要素を多分に持つ馬頭観世音は、怒りと悲しみの複雑な顔でなければならないが、その表現は困難である。それをこの像はよく表現しているので、世に馬頭観音像の傑作と言われている。寺伝によると、この像は大治年間(1126~1130)大宰府大弐藤原経忠の寄進とされているが、像の胎内に当時、観世音寺の責任者として活躍した上座威儀師の銘があって,寺伝が正しいことを証明している。従って、この像は遺例の少ないわが国の馬頭観世音菩薩中最古のものであり、文字通り日本一の馬頭観音像と言えよう。

重要文化財  兜跋毘沙門天像(とばつびしゃもんてんぞう)像高 221cm 平安時代初期

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毘沙門天は梵語で、仏法守護の神である。仏法を多く聞き帰依したので四天王では多聞天という。北方を守る独尊では毘沙門天として信仰されている。観世音寺の毘沙門天は、観世音寺の仏像の中で最も古く優秀な像である。踏まえている地天から像頭まで樟の一木彫りになり、その力強い彫方は平安時代前期いわゆる弘仁期の姿を残すものである。地天を踏まえている毘沙門天を兜跋毘沙門天と言う。兜跋毘沙門天は兜跋国王(今のチベット辺り)を表すものと言われ、その姿は寒い国の服装をしているのが本来の姿である。この形をしたものは平安初期作(但し唐代)の京都東寺にあるが、観世音寺像はそれより少し時代が下がる。この像は静的な観世音寺像の中にあって、あくまで動的な逞しさを持った像である。

重要文化財 地蔵菩薩像 像高123.6cm寄木造 平安時代後期(12世紀)

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数多い仏像の中で一番庶民に親しまれている姿である。地蔵菩薩像は釈迦入滅後、次の弥勒が生まれるまでの末法界の六道にあって一切衆生を済度するという。その姿は一般の菩薩と異なり僧形で衆生の親しみを感ずる姿である。この岩座に半跏像は平安時代後期の作である。この岩座の半跏像は錫杖をもついわゆる延命地蔵である。延命地蔵は、平安時代に当時流行した延命経によってなされた像である。この像はその童顔が美しい。拝する者に如何にも地蔵さんらしい親しみを感じさせる。

重要文化財 大黒天像  像高171.8cm 木彫 平安時代中期(11世紀)

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大黒天は元来仏法を守る武神であり、また寺院の食堂に祀ると自然の栄があると信じられていた。それが日本人の習慣や生活に同化し、民信仰なども加わって、現在では槌を持ち米俵の上に立つ福徳の神になっている。この観世音寺の大黒天像は大黒天神法にある姿とよく似ている。日本人の信仰に同化したものであるが、そ顔に憤怒の感じがあるのは、古式の武神のおもかげを残している。この像は平安時代中期(11世紀)の作で、この様式の大黒天の中、最も古く優秀な像である。なお、この像は現在くつを履いているが、これは大正3年(1914)の修理によるもので、それ以前はわらじであったそうである。

重要文化財阿弥陀如来坐像 像高219.7cm寄木造平安時代中期(12世紀)重要文化財 四天王像 像高236cm 一木造 平安時代中期(12世紀)

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この像は鳥羽院の時(12世紀初)大宰府大弐長実の寄進と伝えられるが、それに相応しい平安時代の定朝様式を持った如来像である。この時代は菅原道真の進言によって遣唐使が廃され、それまでの唐文化の流入に変わって日本文化が盛んになっ時代であり、仏教もまた自己内証によって悟りを開く密教から、ただ仏にすがって現世に浄土を具現しようとする他力的な浄土思想に心を傾けた時代である。定朝様式の阿弥陀仏の美しさが見られる。四天王は仏法の守護神で本尊の四方に立つ。その配置は本尊に対し、東から右回りに置かれる。東ー持国天、南ー増長天、西ー広目天、北ー多聞天の順である。武神であるから甲冑に身をかため、武器を持ち、邪鬼を踏んで威力を示している。この四天王は平安時代中期の作で、穏健で力に溢れた作である。私は、個人的には、この阿弥陀如来坐像等は、今は無い金堂に納められていたのではないかと推測している。

 

観世音寺の仏像は、概して巨大であり、圧倒される思いがする。木彫では、日本でも珍しい大きさである。何故、圧倒する巨大さが必要であったのだろうか?その理由を自分なりに考えてみた。一つは、この大宰府の土地が、古代日本の大陸(支那、朝鮮)に対する窓口であり、大陸文化に対して虚勢を張る必要があったからではないだろうか。支那、朝鮮の進歩した文化に対し、日本も負けるものでは無いという、一種の気負いを感じるのである。もう一つは、日本国内で京都(みやこ)文化に対し、西海道の文化は聊かも劣るものでは無いという,これも一種の虚勢であったろう。しかし、そんな虚勢を張らなくても、太宰府は、日本(京都、鎌倉)の外交、軍事、文化の先進的な場所であり、江戸時代の長崎、明治時代の横浜のような外国文化や外交情報をいちばん最初に吸収する場所だった。ここで、古代日本の大陸に対する歴史を述べて、仏像の巨大さの原因を考えてみたい。最明6年(660)7月、百済は唐によって滅ぼされ、百済から復興の援軍の要請があった。これをうけた最明天皇は、最明7年(661)の冬に、百済から復興の援軍の要請があった。これをうけた最明天皇は、最明7年(661)の冬に難波を出て筑紫へと向かった。そして3月には那大津に上陸して、盤瀬行宮に入る。さらに5月には朝倉橘広庭宮へ遷り、朝鮮半島への派兵の準備を進めるが7月に死去した。そして663年8月、百済復興を目的とした倭軍は、朝鮮半島南部の錦江河口で、唐・新羅の連合軍と戦った。世にいう,白村江(はくそんこう)の戦いである。倭軍は大敗し、この年の9月、百済は完全に滅亡した、この敗戦によって唐・新羅軍の海路を超えた侵攻は現実的なものとなった。「日本書記」によれば、天智3年(664)に、「白村江の敗戦によって唐・新羅の脅威にさらされた倭は、有事に備えた伝達手段として烟(けむり)や火をあげる烽火(のろし)を整備し、また西海防備のための防人を置いて外敵の侵攻に備えた。そして百済の亡命官人の指揮のもと、水城(みずき)、大野城など、太宰府の防衛施設」を造営している。まさに「大宰府羅城」と呼ばれた、西方の防備施設であった。観世音寺が完成する746年に対し、83年前の事件であったが、この唐・新羅連合軍に対する恐怖心は、癒されるものではなく、単なる虚勢のみではなく、「大宰府羅城」の一環であった可能性も高い。大野城や水城をを見ると、1350年前の、倭の防備の姿が見える。それほどまでに,支那大陸や朝鮮半島に対する、備えが必要であったのである。かかる国際的な危機の後で作られた観世音寺は、日本にはかって存在しなかったような巨大な仏像群が必要だったのであろう。そうすると、虚勢ではなく、倭の「偉大さ」を示す、「実力の存在」を表すモニュメントであったのであろう。

 

(本稿は、図録「観世音寺」、杉原敏之「遠の朝廷」、五木博之百寺巡礼「第10巻四国・九州」、五味文彦他「山川日本史」、原色日本の美術「第9巻中世寺院と鎌倉彫刻」「日本書記」を参照した)