大徳寺と塔頭・大仙院

紫野(むらさきの)の大徳寺は、臨済宗大徳寺派の大本山であり、洛陽十刹(らくようじゅさつ)の筆頭に相応しい堂々たる風格を持つ寺院であり、三門,仏殿、法堂(ほっとう)、庫裏(くり)が一直線上に並ぶすっきりとした伽藍配置であり、禅寺らしい落ち着きが漲っているお寺である。大徳寺の創建は正和4年(1315)の鎌倉時代に遡り、開祖は大燈国師(1282~1337)である。13世紀に日本は大変革を来した。武家の封建国家樹立と共に禅宗国家を理想とし、一は道元の曹同宗と臨済宗が中国・南宋より将来され、曹同宗は主に地方に伝播し宗勢は極めて強かった。一方の臨済宗は北条時頼・時宗が蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)と無学祖源(むがくそげん)を招聘(しょうへい)して、建長寺と円覚寺を創めて開山に請じ、自ら参禅して武士を鍛えた。丁度,元が日本を襲った蒙古来襲の時代であり、一遍が全国の寺社仏閣を遊行した時代であった。それから50年、鎌倉禅が漸く京都に浸透した。南禅寺、東福寺、建仁寺、大徳寺が創建されたのである。ことに、江戸時代寛文年間の再建ながら、重要文化財に指定されている仏殿、法堂のたたずまいは、荘重で森厳である。また23寺の塔頭(たつちゅう)と呼ばれる戦国大名の寺院には、優れた茶室、美術品を所蔵している。

重要文化財  三門(金毛閣)         桃山時代(16世紀)

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三門は山門とも書く。左右には山廊(さんろう)を伸ばした重層・入母屋造りの、立派な楼門である。この門は大永年中(1521~28)に連歌師の宗長(そうちょう)が創建しかけて、工事なかばで投げ出したという、いわくが付いている。資金が続かなかったのであろう。本来、重層であるべき三門が、初層だけ出来上がったまま放置されているのは、いかにも見苦しい。中途半端である。そこで天正17年(1589),天下一の茶人の千利休(1522~1591)が私財を投じて、二階の部分を造らせ、重層の楼門として完成させた。落慶を祝い、利休はこの門の楼上に釈迦三尊など定めの仏像の他、等伯の壁画、自らの肖像を彫らせて安置した。これが、時の天下人、豊臣秀吉の怒りに触れ、利休の失脚、賜死へと繋がったと言われている。私は、この俗説には組しない。これは単なる言いがかりであり、本質的には「美の世界の王者」と「権力世界の王者」の反発であり、もっと言えば、国内統一を成し遂げた秀吉には、この時点では海の向うの異国に向けられ、堺衆の軍需商人としての役目は終わったのである。代わって、福岡の新興商人が、海外との取引に精通ししていたのである。かって焦茶色であった三門は何時の間にか緋色(ひいろ)に塗り替えられ、今では丹塗りに見えて,秋には映える色となった。

重要文化財  仏殿       寛文5年(1665) 江戸時代

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三門の北に並んで建つのが仏殿である。一重裳階(もこし)付き入母屋造、本瓦建築である。文明11年(1479)に堺の豪商尾和宗臨が一休禅師の請いを受け寄進し、さらに寛文5年(1665)169世の天佑紹杲(てんゆうしょうこう)の時、京都の豪商難波屋常佑(じょうゆう)によって再建されたもので、典型的な禅宗様(唐様)である。

重要文化財  法堂(はっとう)   寛永13年(1636)江戸時代

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仏殿の後ろに続いて建つのが、修行者に法を説くための法堂で、寛永13年(1636)開山大燈国師参百年遠忌に際して再建されたものである。一重裳階付き入母屋造り。本瓦葺で仏殿と同様に禅宗様建築であるが、裳階部分は7間6間となり、大徳寺伽藍の中で最もおおきな建造物である。大徳寺の仏殿や法堂・本坊本丈への立ち入りが禁止されている。塔頭の中にも、例えば黄梅院,真珠庵、聚光院、総見院、弧篷庵など門を閉ざして、拝観を拒絶しているところが少なくない。国宝、重要文化財は国民の税金で保護されているのだから、季節を限って拝観を許可する等の配慮があっても良いだろう。単に宗教のための寺院なら、その宗教を信ずる人だけの寄進の上で成り立つようにするべきであろう。すばらしい茶室や寺宝を持ち、それぞれに歴史的な由緒もありながら、全面禁止は如何なものかと思う。

国宝  大仙院  本堂    永承6年(1509)室町時代

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開祖大聖国師(だいしょうこくし)が、創建された当時のままの姿を残す室町時代の代表的方丈建築である。この本堂は禅生活が日本人の日常に浸透する過程を如実に伝える最古の貴重な遺構でもある。玄関も同時期の建築であり、国宝に指定されている。

大仙院  「礼の間」前の小庭         室町時代(16世紀)

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大仙院を創建したのは大聖国師古嶽宗亘(こがくそうこう)であるが、作庭は宗阿弥とする説があるが、これは信用できない。京の庭では「伝宗阿弥作庭」というものが、昔から数が多い。私は、阿弥号を持つ、時衆の作庭家で、室町時代の作家であると考えている.先ず眼を引くのは舟石である。縦に縞目の見える舟石は、実にしっかりとした形を見せていて、重量感にあふれた堂々たる姿である。小石を敷き詰めて広い水を表現したこの矩形の庭の、左手奥に位置していて、その先、白い築地塀の下にはいくつかの石が点在する。石はほとんど阿波の青石であり、緑色の華麗な石には多くの縦の縞がある。

大仙院 「書院の間」前の庭     室町時代(16世紀)

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この庭の石は非常に多い。庭の東方隅は、小さな台地になっていて、植込みが深い。椿の花が、赤い斑を散らしていた。右奥、石組の間から、枯滝が三段になって流れ落ちている。この石組を、多くの歴史学者、庭園研究家が、豪気、壮大、華麗、巧緻と賛辞を呈するが、私には、やや「狭い庭に石を詰め込み過ぎた庭」という感じがする。立原正秋氏は「北宋画のような絵画的な構成だが、龍安寺のよう庭のように美しくもない」と評している。もっともである。

大仙院 方丈東庭全景(前の二つの庭をまとめた写真)  室町時代(16世紀)

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二つの庭を方丈東庭の全景として眺めてみると、この写真のようになる。真中渡り廊下は、後から付けたものではないかと思う。水は左手から右手に流れると感ずると、これはこれで、充分満足できる作庭である。奈良本達也氏は、この大仙院の庭から宋元風の墨絵の山水を連想すると言われ、中でも雪舟の「慧可断碑図」(えかだんぴのず)を考えさせるという。「慧可断碑図」というは、慧可という男が入門の意志の強さを表すために、自分の腕を斬り落し、それを捧げて達磨を訪ねていく場面を描いた図である。険しい洞窟の中で座禅を組んでいる禅宗始祖の姿と、その後方に歩み寄る慧可の,凄まじいばかりの求道の心を示す墨絵である。確かに、大仙院の庭は、その石組は、「慧可断碑」の厳しさを見せているかも知れない。ここの庭の石には、すべて名前が付いているそうだ。

大仙院  方丈前の庭        室町時代(16世紀)

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方丈の前庭を目にすると、思わず「ほう」という声が出る。塀に囲まれた砂礫の庭に一木一石もないのである。全体的に清浄感がただよっている。見渡す限りは、砂紋の描かれた白砂の海である。左手に二つの砂盛りが美しい。石の多い枯山水の庭を見てきた目には、言いようもない清々しい。「無の美しさ」を感ずる。

大仙院 書院の間の西側の庭          室町時代(16世紀)

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眼の前に古い井戸があり、そこから南へ小石が続く。椿の花が美しく咲いている。枯山水の庭から、突然華やかな椿の花には驚かされる。

大仙院庫裏の入口には、「何妨」という二字の記された扁額が掲げられている。これは「なんぞさまたげん」と読まれて、いわば来たる者は拒まずという意味であろう。つまり禅の世界が門を開いて誰をも受け入れようとする姿勢であろう。考えてみれば、僧侶はお経を読み座禅を組む時は、決して庭の方に面して座ることはない。禅僧にとって、庭はそれ自体を眺め、それ自体を鑑賞するものではないのである。だからかれらにとって庭というものは、現実には見えていない遥かな世界であり、彼らの祈りや信仰を背後から支えるための一つの想像の世界ーあるいは想像や空想をひき起こすための、一つの媒体ということになるのではないか。このように考えると、庭は、その寺の住職がさほど情熱をもって作り上げる必要はなくなるであろう。つまり、人手に委ねてもいいと、私には考えられる。大仙院のチラシには作庭は「大聖国師」と書かれているが、私は無名の作庭家(時衆)が造ったとしか映らない。さて、文学者で大徳寺を訪れた人は多い。島崎藤村は昭和7年(1932)6月11日に和辻哲郎の案内で大徳寺の塔頭真珠庵を訪ねている。(「京都日記」より)丁度、藤村文学の集大成となる「夜明け前」と向き合っていた頃であった。大徳寺は茶の湯と縁の深い寺である。司馬遼太郎は「街道を行く」の中で次のように述べている。「大徳寺の特徴は、大燈国師以来のきびしい禅風をまもるべく、できるだけ世塵から超越しているところにある。ただ、東山・桃山時代以来、俗権とのかかわりをもったのは、茶を通じてであった。村田珠江(しゅこう)・千利休以来、茶道の本山として知られてきたために、「大徳寺の茶づら」と呼ばれた。禅僧でありながらしきりに茶の話をする、というところから付いた綽名だろうが、このことが大徳寺のえがたい個性をも作ったようである」

 

(本稿は古寺巡礼京都「第17巻大徳寺」、探訪日本の寺「6巻京都二」、立原正秋「日本の庭」、吉河功「京に庭」、島崎藤村「桃の雫」を参照した)