大徳寺の塔頭      聚光院

大徳寺の塔頭に聚光院(じゅこういん)というお寺がある。永年、非公開のお寺であったが、今年の3月から約1年間の予定で、一般公開されることになった。これは聚光院創建450年を記念した特別公開である。聚光院は永禄9年(1566)、戦国武将三好義継(みよしよしつぐ)が、義父長慶(ながとし)の菩提を弔うために創建した塔頭(たっちゅう)である。簡単に言えば、大徳寺(本坊)に付属した寺院のことである。付属と言うと、何やら小さい感じがするが、この隣が総見院と言って、織田信長の塔頭である。大徳寺の塔頭は格が高いのである。開祖は大徳寺第百七世住職笑嶺宗斳(しょうれいそうきん)である。聚光院の名は三好長慶の戒名によるものである。笑嶺和尚が千利休の参禅の師であったことから、利休は聚光院を自らの菩提所とした。千利休は多額の浄財を喜捨し、またここを一族の菩提寺とした。現在、利休が書いた寄進状が残っている。また、利休の流れを汲む茶道三家(表千家、裏千家、武者小路千家)歴代の墓所ともなっている。方丈(本堂)は、創建時(1566年、戦国時代)の姿が残る建物であるが、そこには狩野松栄(1519~92)、狩野永徳(1543~90)による障壁画四十六面が納められ、その全てが国宝指定されている。この国宝障壁画は、長年に亘って私が是非拝見したい絵画であったため、今年6月の梅雨時にも関わらず、拝観した次第である。

国宝 花鳥図(全図)方丈室中 狩野永徳筆 室町時代、永禄9年頃(1566)

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室町時代の最末期ではあるが、この聚光院の障壁画は、むしろ桃山時代の到来を端的に示す作品である。狩野元信によってうちだされた大画面構成の障壁画様式が、ここにゆるぎない確実な姿で提示されることになった。しかも、その原動力は、主として図に見るような、若年期の永徳の手腕によるところが大きい。この襖絵制作では、父松栄は仏事などが行われるもっとも重要な中央の部屋(室中)の揮毫を弱冠24歳の長男永徳に譲り、みずからは衣鉢の間や礼の間を担当して脇役にまわっている。息子の実力と名声が父に勝ることを承知の上での対処であったのだろう。部屋の東、北、西の3面を囲むコの字形に配置された襖絵は、梅の老木が広げた枝の下を早春の雪解け水が生きよいよく流れる東の4面に始まり、松の枝越しには遠く雪を戴いた峰、枝の下には優美に羽を休める鶴、そして鳴き交わす落鴈(らくがん)と季節の移ろいが水流とともに、ぐるりと部屋をひと巡りしている。正に「桃山の光景」である。

国宝花鳥図(右側面4図)方丈室中狩野永徳筆 室町時代永禄9年頃(1566)

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そして永徳は父の期待にみごとに応えて、新しい時代の到来を告げるような、ダイナミックで生命感あふれる花鳥図を描いたのであった。実際、この四季花鳥図襖絵には、巨大性、開放性、躍動感、覇気といった、のちに桃山の「大画」として結実する永徳芸術の特質がすべて、初々しいかたちで姿をみせている。まさに”出発点は聚光院にありき”なのである。室中の三方襖16面にわたって繰り広げられる一大パノラマは、東側「梅に水禽」に始まるが、もっとも見応えあるのが、この梅である。激しく身をよじりながら伸展していく梅の巨木は、自己の内面に抑えきれないほどの表現意欲を潜めた永徳その人の姿である。鋭く跳ねだした枝先や咲き誇る梅の小花に春のめぐりの歓びがあふれ、金泥の霞が画面に明るい光を与えている。昭和54年(1979)にパリのルーブル美術館から「モナリザ」が来日したが、その返礼としてフランスで展示されたのが、この聚光院の本堂の障壁画であった。正に日本美術の粋として選ばれたのである。

国宝 琴棋書画図 壇那(だんな)の間 狩野永徳筆 室町時代永禄9年頃(1566)

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琴棋書画図(きんきしよがず)は画題的には人物図の範疇に入るが、画面の構成はむしろ山水的要素が濃厚である。左方では琴にあたる場景、右方には図のごとく水亭における囲碁人物と背後の衝立画によって棋と画がしめされ、読書する人物も描かれている。山水花鳥とは区別される真体(しんたい)をもって描かれているのと、濃い墨調に濃淡を加えた結果、背景の余白に金泥引きを行っている。的確ではあるが、やや硬さが見られる。士君子たちが琴・棋・書・画に興ずる姿を描いている。水墨のみの「四季花鳥図襖絵」と違い、こちらでは花木や人物の着衣に、朱や緑青、代赭(たいしゃ)などの色彩が加えられている。このように部屋ごとに筆法や画題、手法をかえるのは、室町時代の障壁画制作の約束ごとであり、絵師がどのような画題や画体でも臨機応変に描きこさなければならなかった。室中でさっそうとした自由な筆さばきを見せた永徳が、この「琴棋書画襖絵」では硬質の息の短い線を使うのも、真体画の制約ゆえである。それにしてもなんと力のこもった筆線と運筆であろうか、紙が破れんばかりである。

国宝 遊猿図 方丈裏側の間 狩野松栄作 室町時代永禄9年頃(1566)

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父の松栄作の遊猿図である。筆致はおだやかで、この種の画題にありがちな威圧的印象はあたえない。ことに遊猿図は、水辺の岩上や樹幹にたわむれる親子連れの一群をとらえ、温かみのあるなごやかな雰囲気をあらわしている。筆写である松栄の人間的な円熟を物語るものかも知れない。

国宝 虎図  方丈裏側の間 狩野松栄作 室町時代 永禄9年頃(1566)

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竹林と虎図である。典型的な様式であるが、この時代にしては、良く虎の威風を表している。傑作と言えよう。松栄の描く広々とした奥行きのあっ作風は、狩野元伸が確立した大画面構成を継承したものと言われ、部屋を落ち着いた雰囲気にしている。永徳の若画きと言える山水花鳥図などとは対照的である。

花頭窓より庭園を望む

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花頭窓の付いた唐門から、庭園を望むと聚光院方丈の前庭が見える。花頭窓に区切られた不思議な庭園に見える。

聚光院の庭園              室町時代 永禄9年頃(1566)

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作庭は、この方丈の造られたのと同時期と判断するのが妥当だろう。この方丈前庭には別名「百積庭」(ひゃくせきのにわ)とも呼ばれる。広さは約53坪であり、南部の生垣に沿って直線状に石が並んでいる。中央の石橋をはさんで両側に集団石組があったと考えられているが、いずれもかなり荒廃している。向かって右手前の石組がやや完全な形で元の姿を残している。しかし、この庭は、いまの形でも他の庭に見られない厳しさと優しさを備えている。解説者は、この庭園の、本堂室中の襖絵「花鳥図」と相対する関係にあると説明された。私が、この庭の持つ厳しさと優しさを指摘したが、方丈の狩野永徳、松栄の親子の障壁画が影響しているのかも知れない。また、庭園西側には千利休が沙羅の木を植えたと伝わる。現在の木は3代目とのことであった。平家物語の巻一の冒頭に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(せいじゃひっすい)のことわりをあらわす。」とある。正に、沙羅の樹が、この沙羅双樹である。

沙羅の花

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沙羅の花は白色で、6月の朝に開花し、午後になると落花する。沙羅の木の植わる庭は、京都では少ない。薄明の意味があるのだろうか?ハラハラと落ちる沙羅の花は美しく、儚い人生を意味するのであろう。枯山水の庭にには不向きと思うが、千利休の手植えと伝えられている。

重要文化財 茶室 閑陰席(かんいんせき)外観と路地  江戸時代(1741)

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千利休は、秀吉の不興をかい、天正19年(1591)に切腹させられた。没後150年を記念して、この閑陰席と枡床席が建設された。聚光院と茶道三家との関わり合いを最も如実に伝えるものが、閑陰席、枡床席の二つの茶室である。

重要文化財  茶室  閑陰席(内部)     江戸時代(1741)

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茶室・閑陰席は千利休百五十回忌の際に、表千家七代如心斎の寄進によって建てられたもので、ここで朝茶を開いたことが記録に残っている。利休の精神を汲み、明かりが極度に制限され、簡素で緊張感のある設えがほどこされている。水処を挟んで、枡床席が設けられたのは、その約70年後と伝えられる。閑陰席の三畳に対して四畳半で作られており、その半畳は踏込み式の床の間となっている。この正方形の床の間を「枡床」と呼ぶが、これは表千家六代覚々斎が考案したと伝わっている。天井も閑陰席よりやや高く、貴人口を設けるなど、明るくのびやかな設えがされている。

千利休(左)と三好長慶の墓

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前庭の生垣の外に(総見院の鐘楼横)、千利休と三好長慶の墓が並んで立っている。このお寺の持つ歴史や文化を物語るものである。

書院と千住博画伯の襖絵               平成25年

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平成25年(2013年)秋に建て替えを行った書院は、千住博画伯による障壁画が奉納された。納められた「瀧」、「春夏崖図」、「秋冬崖図」のうち、今公開では「瀧」が初の一般公開となった。構想から完成まで16年間を費やした大作で、鮮やかな群青から真っ白な瀧が浮かび上がる姿は壮観である。千住博はお寺から大書院の襖絵を10年以上前から以来されていた。千住は語る。「南米アマゾンに何ケ月も滞在して素描を重ね、多様なモチーフで描くも、得心がいかず幾度も破棄し、4度目でついに辿りついた。戦国時代に永徳は、花と鳥で儚い時の流れを描いた。現代を生きる僕は宇宙的な時の流れ、地球という奇跡の宝石で描こう」と。地球の奇跡。それは水と重力。これを端的に表すのが瀧だ。「瀧が表すのは時間。猛スピードで流れ去り、二度と戻らない。これまで数々の瀧を描いてきたけれど、時の流れを象徴するモチーフとして再発見できた」と振り返る。宇宙の宝石とは、吸い込まれるような群青の岩絵具のこと。「岩絵具は46億年前に原始惑星が衝突して地球が誕生したときのかけらそのもの。あの青は星の色」。

狩野松栄、狩野永徳の襖絵は、全42枚が全て国宝に指定され、通常は京都国立博物館に寄託されている。しかし、創建450年記念として、今年の3月から約1年間公開されることとなった。襖絵をすべて国宝に切り替えて、松栄、永徳の襖絵が公開されたのである。この聚光院は、千利休の墓所でもあり、茶を嗜む人にとっては、大切なお寺である。室町時代末期から桃山時代にかけて、政治と同様文化にも大きな変動が起こった時代であった。地方に多くの英雄が出現すると共に、華やかな地方文化が花開いたのである。伝統を尊重する京の文化も、やはりその影響を受けつつあった。この頃から大徳寺にも戦国武将の創立する塔頭小院が増え、それに茶趣味というものが加わってくる。(私は、この時代を「日本のルネサンス」と呼んでいる。)聚光院は、戦国武将として名高い三好長慶の養子義継が、父の菩提を弔うために創立したもので、永禄9年(1566)大徳寺第百七世笑嶺宗訴(しぉゆれいそうきん)禅師が開祖である。この笑訴は千利休の参禅の師でもあって、そのようなところから、この寺は利休との関係深く、墓地には立派な利休墓の宝塔があることは良く知られている。狩野永徳(1543~1590)は桃山時代を代表する画家である。例えば、雪舟の水墨画が室町文化を代表する画家であるとすると、正に狩野永徳は、桃山時代を代表する画家であり、唐獅子図(宮内庁、それまでは毛利家所蔵)、檜図屏風(東京国立博物館)等が代表作であろう。狩野永徳は、時の権力と結びつき、信長の安土城、秀吉の大阪城等の障壁画を沢山描いたが、いずれも戦火に焼かれ、残る作品数は少ない。この数少ない永徳の作品がまとまっているのが聚光院である。今回、この聚光院が1年に亘り公開されることは、私に取って大変な朗報であり、幸いにも六月の梅雨の中でも、拝観する機会に恵まれた。今後、この作品に逢うことは無いだろうと思い、熱心に説明を聞き、襖絵を丁寧に見学し、たいへん満足した。今年、一番の収穫であった。(ここまで書いて、11月に京都へ行く機会があるので、もう一回拝観したいとという思いが強くなった。)現在JR東海のPRとして、聚光院の狩野永徳の「花鳥図襖」が頻繁に放映されている。多分、日本中で見られる映像であろうと思う。(なお、拝観を希望する方は、聚光院のHPから「拝観願い」を申し込んで、希望の日、希望の時間を確定しておくと、並ばずに入館できる。7月、8月の日曜日は、予約で満杯のようであるが、当日いけば、うまくすれば入館できることもある。)

(本稿は、パンフレット「創建450年記念特別公開 大徳寺聚光院」、新潮美術文庫「狩野永徳」、吉川功「京の庭」、立原正明「日本の庭」、探訪日本の庭「第6巻 京都Ⅱ 洛中・洛北」、探訪日本の古寺「第6巻 京都Ⅰ 比叡・拓北」、現色日本の美術「第13巻 障壁画」、日経新聞2016年9月3日「プロムナード」を参照した)