天正遣欧少年使節   伊東マンショの肖像

今年は日伊国交樹立150周年に当たる記念すべき年である。日本とイタリアを結ぶ最初の架け橋であった天正遣欧少年使節のひとり、伊東マンショ(1569頃~1612)を描いた肖像画が世界で初めて、東京国立博物館で公開されることになった。歴史書の上で、天正遣欧少年使節の存在は知っていたが、まさかこのような素晴らしい肖像画が、イタリアに伝わっていたことは、初めて知った。天正10年(1582)、九州の3人のキリシタン大名の名代として、伊東マンショら4人の少年を中心とする天正遣欧使節が長崎を出航した。彼らは中国、インド、ポルトガル、スペインを経て、ルネサンス期のイタリアの地を踏んだ。フィレンツェ、ローマ、ヴェネツィアなどの主要都市で歓迎を受け、ローマ教皇グレゴリウス13世との謁見式や華やかな舞踏会に参列し、天正18年(1590)4人揃って帰国した。それから400年以上を経た平成26年(2014)3月、ミラノのトリヴルツィオ財団が発表したドメニコ・ティントレット(1560~1635)筆「伊東マンショの肖像」の存在は、使節団が16世紀のヴェネツィアで公式に歓待された事実と、これまで文献でのみ確認されていたティントレットによる油彩肖像画の存在とを裏付ける、歴史的な発見となった。この展覧会では、使節団の動向を速報するために出版された「天正遣欧使節記」(重要文化財)や、博物館が保有するキリシタン資料からイタリアに関連する作品を併せて展示し、16~18世紀にキリスト教を通して交流した日本とイタリアの姿を見ることが出来る。尚、展覧会は7月10日までで、この機会を逃がすと、この肖像画には2度と見られない恐れもある。

伊東マンショの肖像  ドメニコ・ティンレッド作 カンヴァス・油彩 1585年

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1585年、使節団がヴェネツィア共和国を訪問した際、歓待した共和国元老院がルネサンス期ヴェネツィアの大画家ヤコボ・テンントレット(1519~94)に使節の肖像画を発注したことは、これまでも同時代の文献から知られていた。今回、発見された「伊東マンショの肖像」は、その記録を裏付けるものである。ヤコボは当初、より大きな集団肖像画として本作品の制作を始め、没後、工房に残された絵を息子ドメニコが切り詰めて単独の肖像画として完成させた、あるいは個別に制作した肖像画のうち唯一ほぼ仕上がっていた「伊東マンショの肖像」をさらに切り詰めて完成させたとみられる。この絵はイタリアのミラノ、トリヴルツィオ財団の所蔵に関わるもので、展覧会後返却されるものである。大きさは54.0×43.0cmと小作であるが、色、形は極めて明細である。

天正遣欧少年使節の行程図

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1582年10月5日、グレゴリオ13世新暦交付により、10月15日に定められる。使節団はゴア以降、新暦を採用。長崎ーマカオーゴアーリスボンを経由していることが、上の図で判る。

重要文化財  天正遣欧使節記  1冊活字本  イタリア、レッジオ刊行

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イタリア現地での歓待振りを刊行した冊子で、イタリア語で書かれている。東京国立博物館蔵。

重要文化財  三聖人像   外国人宣教師による舶来品

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ロザリオを持つ聖母子が描かれる破風付きの古代的な建物の中に、三聖人が描かれている。その持物から、中央が聖ラウレンティウス、右がシェナの聖カタリナ、左がドミニカあるいはパドヴァの聖アントニウスと判る。当時日本には無い麻製で絵画技術が高いことから、外国人宣教師による舶来品と見られる。

重要文化財  三聖人   日本人による模写

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セミナリョで西洋絵画技法を学んだ日本人による模写と考えられる。九州各地のセミナリョでは、天正11年(1583)に来日したイタリア、ナポリ出身の修道士ジョヴァンニ・ニコラオ(1560~1626)が日本人の少年たちに絵画、銅版画を教えていた。キリスト教禁制前の日本では、ルネサンス期の絵画技法が学ばれていたのである。

重要文化財 聖母像(親指のマリア) 1面 銅板・油彩 イタリア17世紀後半

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この聖母像は、江戸時代のキリスト教禁制下に、イタリア人宣教師ジョバンニ・バチィスタ・シドッチ(1667~1714)が携行したものである。青のマントに身を包む憂いに満ちた聖母の姿は、17世紀にフィレンツェで活躍した宗教画家カルロ・ドルチ(1616~87)が描いた聖母像に酷似している。シドッチを訊問した幕府高官で学者の新井白石(1657~1725)の記録によれば、シドッチはシチリア島バレルモ出身である。日本の風俗、言語を学んで、宝永5年(1798)、和服で屋久島に潜入したところを捕えられた。日本での布教を再開する使命を負って来日したが、江戸・小石川の切支丹屋敷に幽閉され、正徳4年(1714)に47歳で没した。平成26年(2014)、その屋敷跡からシドッチと見られる手厚く葬られた遺骨が出土している。「市塵」という小説の中で、新井白石がシドッチを訊問する箇所が出てくる。それによれば、長崎奉行所からの目録には「ビイドロ鏡」とされた物は、「ビイドロを嵌めた木の枠にいれた画像で、鏡のような物というのはビイドロの外見に気を取られた見方だろう。画像は頭に衣をかぶった西洋の女人像だった。白石は持って来た目録と照らし合わせた。サンタマリアと申す宗門の本尊の由、申し候と書いてある。」「白石はサンタマリアの像の前に戻った。若くはない、齢のころ四十近いかと思われるほどの女子の横顔だった。白石の気持ちを惹きつけたのは、鼻の高いその顔に現れているいかにもうれわしげな表情である。着けているものは白で、頭にかぶった布は藍色だった。」(藤沢周平「市塵」)この聖母像を巧みに表現している。シドッチと白石の問答からも、文化的背景や立場の異なるふたりが言葉の壁を越えてお互いを尊敬しあう姿が浮かび上がってくる。だから白石は、シドッチを死刑にしないで、小石川の切支丹屋敷に幽閉という形で、生かしたのであろう。

 

この「天正遣欧少年使節 伊東マンショの肖像」は、私に取っては思いがけない収獲であった。このような展示会が行われていることは全く知らず、「ほほえみの御仏」と「法隆寺宝物館」を見学する目的で、上野博物館で行ったところ、垂れ幕で、この「伊東マンショ」の展示会を知った次第である。かねがね興味のある話題であったので、絶好のチャンスと思って見学した。思いがけないイタリアに関する重要文化財4点と、シドッチ関連の解説を読んで、藤沢周平の「市塵」を懐かしく思い出した次第である。天正遣欧少年使節については、日本歴史の上で、ある程度承知していたが、改めて読み直してみた。天正10年(1582)、有馬(長崎県島原地区)のセミナリオ(初唐教育機関)の少年4人が九州のキリシタン大名の名代として長崎からヨーロッパへ向かったのである。正使は豊後の大友宗麟(1530~87)の名代・伊東マンショ(主席)、肥前の大村純忠(1533~87)、有馬晴信(1567~1612)の名代・千々石ミゲロ、福使は肥前から原マルチノ、中浦ジュリアンで、いずれも13歳前後であったという。この壮大な計画を立てたのは、イタリア・キェーティ出身のイエズス会巡察師のアレッサドロ・ヴァリニャーノであった。目的は日本での布教の状況を教皇や君主たちへ知らせ、日本の教会への資金援助を求めることと、帰国後に使節らがヨーロッパでの見聞を普及させることが大きな目的であった。ところが天正15年(1587)の豊臣秀吉による伴天連追放令、慶長9年(1614)の徳川家康によるキリスト教禁止命令によって日本におけるキリシタンの状況は一変した、4人は天正18年(1590)にそろって帰国したが、その後の人生はさまざまであった。肖像画の像主・伊東マンショ(1569頃~1612)は、天正8年(1580)洗礼を受け、「マンショ」を名乗ると、有馬に設立したイエズス会のセミナリョに入会した。秀吉と聚楽第(じゅらくだい)で謁見し、秀吉の覚えも良く、仕官を進められたことが知られている。

 

(本稿は、図録「伊東マンショの肖像」、藤沢周平「市塵」、日本の歴史・林屋辰三郎「第12巻天下統一」を参照した)