奇想の系譜 (3) 狩野山雪 歌川国芳 白隠慧鶴

狩野山雪(1560~1651)は、桃山時代の文化がピークを迎える天正18年(1590)、狩野永徳が没した年に九州肥前国に生まれた。京狩野初代の山楽に16歳のころ弟子いりし、その後婿養子となった。その意味で、山雪も伝統的画家の修行をしっかりと積んだ画家であった。徳川幕府の成立により、探幽ら狩野本家筋が江戸へ拠点を移したのに対し、、京に残った山楽・山雪の系統は後に「京狩野」と呼ばれる。妙心寺や清水寺、東福寺など京都の大寺院のための作画を多く残した。生来学者肌で漢学に通じ文化人的な資質を持ち、日本で最初の画家伝である「本朝画史」は、山雪の原稿を元に息子の狩野永徳が完成させた。伝問的な画題を独自の視点で再開釈し、垂直や水平、二等辺三角形を強調した理知的な幾何学的構成で知られる。

重要文化財 梅花遊禽図襖(ばいかゆうきんずふすま)四面 紙本金着色狩野山雪(寛永8年(1631)京都・天球院

永徳の没後、狩野はを含む画壇全体は、永徳の晩年の「奇々怪々」な表現に追随することをむしろあきらめ、より整った、優美な装飾形式を追及する方向に移りつつあった。それは関ケ原合戦以後、新しい閉鎖的な封建秩序の確立に向かって動き出した徳川幕府の政策と微妙に呼応するものでもあzった。山楽はひとりそうした動向の外にあって、師の創始になる、正に桃山の時代精神のモニュメントともいうべき巨樹画の気宇と生命を保ち続け、桃山の時代精神のモニュメントともいうべき巨樹画の気宇と生命を保ち続け、正に桃山の巨匠の最後の生き残りであったわけである。私は昭和45年4がつから昭和50年10月まで、2年半、京都」支店長を務めたことがある。京都は私の好みに合い、古寺巡礼を楽しみ、年間200ケ寺を回っていた。タクシーに乗れば、京都の運転手さんは、行先を告げると、必ずそのお寺の蘊蓄を語ってくれるものである。それに対し、私は「そういう説もあるが、私はむしろ、この意見を採用する」等一言すると、運転手さんは、「大学の先生ですか?」と聞いてくる。私は「まあ、そんなような者だ」と曖昧に答えて、降りる際に会社のチケットを切ると「ああ、明治の支店長さんですか!」と答えられたものであった。京都のタクシーの運転手の中では、多少名前が通っていたようである。さて、数多くのお寺の絵画や仏像を拝見したが、妙心寺の塔頭・天球院だけは、固く門を閉ざして公開してくれなかった。天球院は、寛永8年(1631)姫路城主池田照正の妹に当たる探求院殿の発意で、妙心寺内に創立された。この時方丈に描かれた襖絵は、桃山障壁画の最後を飾るものとして名高かった。この障壁画は、狩野山楽の筆と伝えられてきたが、山楽は70才を超える高齢であり、近年、狩野山楽の弟子・山雪のの手におると推定され、議論を呼んだが、この「梅花裕禽図襖」は、私は狩野山楽筆と、信じている。この天球院の襖絵を是非、拝観したいと思って40年経つが、非情にも唯の1回も開扉されることは無かった。今回「奇想の系譜展」で、天球院の襖図が一部開扉されることを知り、正に天にも昇る気持ちであった。この襖絵については、正に辻暢雄氏の「桃山の巨木の痙攣」という一言で、紹介したい。あまり多くを語りたくない。

重要文化財 寒山拾得図 一巻 紙本墨画 狩野山雪作京都・真正極楽寺・真如円

ボサボサ頭、気味悪い笑いを浮かべた男二人は、奇想天外な行動をとって常識を超越し、禅宗絵画の脱俗のキャラクターとなった唐代の僧である。画面上、頭のサイズは人の顔よりずっと大きい。手前の寒山の肩に置かれた拾得の左手、鋭く伸びた爪が肩に食い込んでいるようで痛そうである。この不気味な表情は、伝顔輝筆「寒山拾得図」(東京国立博物館)のような中国元代の顔輝様の道綽画に淵源を持つが、顔輝様の道綽画に淵源を持つが、顔輝画の顔を吸い込みであるのに対し、このすさまじいほどの迫力はどうだろうか。丸みを帯びた逆台形は、三雪画に頻出する独得の顔であり、伝顔輝画をもとに、山雪は幾何学的デホルメを加えている。一目みたら忘れられない強烈なビジュアル、夢に現れてほしくないグロテクスクな人物像の迫力である。

歌川国芳は、寛正9年(1797)、江戸日本橋の紺屋の家に生まれた。生粋の江戸っ子である。広重とは丁度同年で、北斎より37年後輩に当たる。父の友人であった歌川国芳が鍾馗の図を見て12歳の時に弟子とした。兄弟子に国貞がおり、役者絵や美人画を描き、かつリアルに描くことで通名であった。国芳の魅力は、大画面(例えば3枚続き)で、物語を描き、かつリアルに描くことで大いに受けた。また、猫が好きで、ユーモアを解する江戸っ子であった。私も国芳の大ファンである。

相馬の古内裏 大判3枚 弘化2年~3年(1845~46) 歌川国芳作 千葉・成田霊公院

「相馬の古内裏」は、文化3年刊の読本、山東京伝「善治安安方忠義伝」に基ずく。平将門の遺児滝夜叉は、弟の将軍平吉門と共に筑波山の蝦蟇の精霊肉芝仙(にくしせん)から妖術を授かり、荒れ果てた相馬の古内裏を巣窟として、亡父将門の遺志をついで謀反を企てるが、源頼信の臣・大宅太郎光圀によって陰謀をくじかれる。国芳は、これを巨大な骸骨に置き換え、源頼信の臣・大宅太郎光圀によって陰謀をくじかれる。国芳は、これを巨大な骸骨と置き換え、夜叉姫と遭遇する場面とを繋ぎ合わせている。闇の奥から前面に押し出してくる巨大な骸骨の動きに対して、破れ御簾の滑るような動きが画面を斜めに走る。骸骨は解剖学的にも正確なものとされ、国芳がリアルな描写のために研究努力したことが示される。単なる標本的な骸骨では無く、動きがリアルな描写のために研究努力したことが示される。

宮本武蔵の鯨退治 大判3枚続き 弘化4年(1851)頃 歌川国芳

図中に「宮本武蔵は肥後の産にして後、備前に来たって奉仕す また諸国めぐりて剣術を修行す ある時備前の国の海上に大いなる背美鯨をさしとふす」との説明が付されている。何と大胆な構図で、鯨の巨体を表すために画面の端から端までが最大限に使われている。鯨の体には白点がありリズミカルに施されている。牡蠣殻が付いたものとされる。鯨の形については、享和3年(1803)司馬江漢の「西洋旅譚」の鯨の図も産照したものと見られる。幕末ぎりぎりの時期であり、西洋の絵画、書物の影響を受けていることは間違いない。

讃岐院眷属をして為朝をすくふ図 大判3枚続き嘉永4年(1851)歌川国芳作

「崇徳眷属をして為朝をすくふ図」は文化4~8年(1807~11)に刊行された「読本 曲亭馬琴作・葛飾北斎画(鎮西弓張月)の第31回、32回に基づく。保元の乱で敗れた鎮西八郎為朝は伊豆大島に流され、付近の島島を征服する。勅命による討伐船が大島にむかった、為朝は九州に逃れる。平氏討伐のため都に上ろうと水俣から出帆したところ、暴風雨に遭い船は難破する。為朝は最早これまでと自決しようとすると、讃岐院(崇徳院)の眷属が飛来し為朝を助ける。琉球に漂着した為朝は、琉球王の王女を内乱から救って国を平定し仙界に入る。海を鎮めるために身を投じる妻白縫、讃岐院の遣わした烏天狗に救われる為朝、為朝の一子舜天丸を抱いた為朝の忠臣八町礫紀平治を背に乗せて琉球に向かう巨大な鰐鮫といった、異なる時に起きた三つの場面が一つの大海原の画面にまとめて描かれる。鰐鮫の大きな動きだけではなく、これに拮抗する為朝の小船、舞い降りる薄墨の烏天狗の軽い動き、波のうねりなどが相互に絡み合い複雑に連動するムーブメントにも注目したい。大判を3つにつなぐ形式は、武者絵では国芳にお作が初めてである。江戸っ子の肝玉を冷やしたに違いない。痛烈な印象を与える。

「奇想の系譜」以外に、白隠慧鶴(はくいんえかく)(貞享2年~明和5年ー1796~1858)と、鈴木其一(寛正8年~安政5年ー1796~1858)の2名が追加されている。白隠については異論がないが、私は、鈴木其一は、決して「奇想の系譜」ではなく、れっきとした江戸琳派の大成者であり、江戸絵画を勉強する身には、鈴木其一は「奇想の系譜」に入れられては困る。鈴木其一こそ、日本の伝統文化である琳派の後継者であり、むしろ「江戸琳派の集大成者」である。従って、「奇想の系譜展」からは削除して掲載しない。

白隠慧鶴(1685~1768)は日本臨済宗中興の祖として、最も顕名かつ重要な宗教家である。いま日本に伝わる臨済禅の法経はすべて白隠下になり、現在の臨済宗は文字通り「白隠禅」と言って」良いだろう。「中興の祖」とは文字通り「一旦すたれた宗旨を挽回した人」ということになる。白隠は、むしろ新しい時代に即応した人類救済のプログラムを提起した宗教改革であっあっというべきであると思う。宗教家であって画家では無いので、一点のみを掲載する。詳しくは「白隠展」2012年ーブンカムラ・ザ・ムュージアムを参照願いたい。今回の「奇想の敬具」展の企画者「山下祐二氏」が「白隠のいる美術史」という論文を寄せているので、参考までに読んで頂きたい。

達磨図  一幅 紙本着色 白隠慧鶴作 江戸時代  大分・万寿寺

背景の深い黒。衣の鮮やかな朱。顔面のほのかな朱。そして眼球、胸と、「直指人成仏」という讃文の白、数千点も変存する白隠の作の中で、これほど鮮やかな色彩のコントラストを示すものは他にない。しかも縦2メートルの大作である。渾身の力が漲った大幅。ゆえに、白隠の代表作として多くの書物で繰り返し紹介されてきた、もっとも有名な作品である。制作年代については、明和4年(1767)83歳の制作だとする説が有力である。一見に値する。

 

辻暢雄氏の「奇想の系譜」を展覧会で一堂に会する企画は、思いも掛けない企画であり、企画者の山下祐二氏のご努力に敬意を表したい。アメリカ等海外からの出品作も多く、見学者も非常に多かった。今年を代表する一大展覧会であった。よくぞ、これだけの作品を集めたものだと感心した。関係者一同に対し、心から感謝したい。ご苦労様でした。大変、感激しました。有難うございました。

 

(本稿は、図録「奇想の系譜展   2019」、辻暢雄「奇想の系譜」、図録「歌川国芳ー奇と笑いの木版画  2017年」、図録「白隠展  2012年」を参照した。)