奇想の系譜展 (1) 伊藤若冲と曽我蕭白

今から50年前(1970)に、一冊の書物が刊行された。辻慶雄氏の「奇想の系譜・江戸のアバンギャルド」(美術出版社)である。岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長澤芦雪、歌川国芳の六人の画家を取り上げた、この「奇想の系譜」、以後の江戸時代絵画研究、日本美術氏研究に対し、決定的な影響を与えた。今回の展覧会には、この六人に加え、白隠慧鶴、鈴木其一の二人を加えて企画されたものである。従来の日本美術史の江戸時代を飾る丸山応挙、池大雅、与謝蕪村、渡辺崋山と浮世絵師に比較して、この8人の画家は「異端」「傍流」扱い、あるいは無視され続けた。私が所有する「原色日本の美術」(小学館)全30巻(1972年刊行)で調べて見ると、この8人の画家は、全く採用されていないか、僅かに採用されても「異端」「傍流」扱いで、僅かな写真が出るのみで、殆ど無視されていた。私にとって江戸時代絵画は、浮世絵を除き、はっきり言えば、殆ど興味を引んで以来、すっかり、この「奇想の系譜」の絵師に取りつかれ、フアンになってしまった。特に「伊藤若冲」と「岩佐又兵衛」には熱を上げた。若冲は「ご即位20年記念(2009)に「三の丸尚蔵館」の「動植採絵」全30点が展覧され、あまりの美しさに2回も訪れ、図録も全2巻を求め、愛読書の一つとなった。その後、各美術館でも、保管する「伊藤若冲」を展覧する機会が多くなり、かつ「生誕300年 若冲展」(2006)には、展覧会初日に朝早くから並び、丁寧に全作品を鑑賞した。この展覧会では6時間も並ぶ盛況ぶりで、恐らく100万人近い動員をしたのでは無いだろうか。また「岩佐又兵衛」については、それを所有する山種美術館、出光美術館、熱海MOA美術館などをめぐり、凡その作品を鑑賞することが出来た。この二人については「黒川孝雄の美」で再々取り上げている。今回「奇想の系譜」展は、辻先生の弟子に当たる山下雄二先生(明治学院大学)の監修になるもので、さじかし、珍しい作品も多数展示されているであろうと、期待と希望を持って鑑賞した。十分満足できる内容であった。皆さんに鑑賞をお勧めする。

紫陽花双鶏図  一幅 絹本着色 伊藤若冲作 エツコ&ジョー・プライスコレクション

向かい合う雌雄の鶏を主題にとし、足元に芍薬らしい花、後ろに岩と紫陽花を配した本図の図様は、「動植採絵」のなかの「紫陽花双鶏図」の準備作であろう。細部・全体を通じて見られる、独特の形態感覚は、若冲の個性的スタイルが、このときほぼ完成の域に達していたことを物語る。プライス氏は、日本のコレクターが誰も若冲に気づいていない時期に日本を訪れて若冲の作品を探し求めた。業者がそれに応じて提供したものがこの図で、昭和39年(1964)のことである。プライス氏の先見の美を賛美するか、日本のコレクターの質の低さを嘆くか、何れにしても「保管」されたことは喜ぶべきことであろう。

虎図 絹本着色 伊藤若冲作  エツコ&ジョー・プライスコレクション

前脚を舐める姿がユーモラスで、猛獣のイメージではない。家業を弟に譲って、絵師の道に専念することを決意した宝暦5年の首夏(陰暦四月)に描かれたことが落款より明確な、若冲の画歴の中で重要な一点である。本図が、京都・正伝寺に伝わる「猛虎図」を手本として描いたことが知られる。描かれた虎は、原画の虎よりも表情が豊かで動きがある。虎の身体部は黄土を主体とし、薄墨や鉛丹を併用してそれらの濃淡と黄土の濃淡とを重ねて微妙な色彩変化をつけ、その上に岱赭(たいしゃ)の紫色のあるこげ茶で、一本一本、体毛を丁寧に施している。背景には素早い筆さばきで張り出た枝などをさっと描き、一つの画面の中で、描写の精粗の対比を試みている。

葡萄図 紙本墨画  伊藤若冲作  エツコ&ジョー・プライスコレクション

プライス氏が若冲に関心を抱くようになった最初の作品であり、重要な意味を持つ。落款の代わりに「景和」を入れる本作は、若冲初期の貴重な作例である。中世にわが国に伝来し、当時、京都の寺院に多く所蔵されていた様々な中国絵画や朝鮮絵画を見る機会を得た若冲は、それらから図様や描写方法について刺激を受け、模倣を重ねる中で自身の絵画技術を高めていったことが知られている。本作もそれらの影響を受けているだろう。「景和」は若冲の字であり、「若冲」の居士号を使用する以前の三十歳代前期頃の製作と推察される。輪郭線を用いず、繊細に墨の濃淡を利用して葉や幹、葡萄の実を見事に描写しており、墨表現の面白さを知りえている。これを見抜いたジョー・プライス氏の見識にも敬意を表したい。

象と鯨図屏風 六曲一双 伊藤若冲作  寛永9年(1767) 滋賀・MIHOMUSEM

左隻

 

左隻

六曲一双の屏風の左右に、海上に胴を出して勢いよく潮を吹く鯨と、うずくまって鼻を高々と上げる象とを向き合わせた六曲一双の水墨屏風である。海の王者と陸の王者が、互いにエールを交換しているようだ。北陸の名家に伝わったもので、2008年に存在が知られ、MIHO MUSEMの所蔵となった。「象と鯨図屏風」象隻の画面向かって左端に「米斗翁八十二歳」の落款がある。若冲が還暦後、元号の改まるごとに年齢を一つ加算したという説に従えば、若冲80才の作となる。若冲が14才の時、一頭の像が京を訪れ、天皇、上皇にお目見えした。この時の京市民の反応は察するに余りある。少年若冲もこの象を見たに違いない。その時の記憶が、この屏風に見られる。象への愛情あふれる表現となったのであろう。

 

京の商家に生まれ、伊勢や播州で精力的な活動をした曽我蕭白は、40才を過ぎて生地である京都に定住した。18世紀京都画壇の鬼才たちの中で、もっとも激烈な表現を指向した。20才台後半から、室町時代の有力な漢画の一派である曽我派の直系にあたると自称して曽我性を名乗った。漢画を学び中国の仙人や聖人といった伝統的な故事を多く描いているが、その表現は独創的で狂気に満ち、ときに見る者の神経を逆なでし、混沌の渦へと陥れる。

雪山童子図  曽我蕭白作  明和元年(1764)頃  三重・継松寺

釈迦の前世での行いを物語る「本生譚」の一こま。若いバラモンン僧雪山童子として修業していた時、悪鬼の姿に身を変えた帝釈天から、修行の熱意を試されたところである。鬼は「諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽」という涅槃経14聖行品の上2句を唱えて、下2句はお前が俺に自分の身を食わすなら教えよう、という。雪山童子がそれに応じると、鬼は後二句を唱えた。雪山は歓喜してそれを木の幹に書き付け、約束通り樹上から身を投じようとすると、悪鬼の姿は神々しい帝釈天に変わった。青、赤、橙のどぎつい対比と奇怪な誇張が、この図を「群仙図屏風」の類縁に当たる唯一の作品に位置付ける。鬼の口から真理の言葉を聞き、より目を輝かせて両手を広げて鬼にジャンプする瞬間の雪山、下には凶暴の化身ともいうべき悪鬼が口を広げて待っている。卑俗さと聖性とが混ざった特異な宗教画である。

重要文化財 群仙図屏風 六曲一双 曽我蕭白作 紙本着色 明和元年(1764)文化庁

右隻

曽我蕭白は若冲より15年遅れて生まれた。若冲の長い人生に伴走しながら、20年近く先に逝った。50年に満たない人生ながら、残した作品は若冲以上に多い。生活のために多作を強いられたとは言え、弟子は殆どなく、生涯孤独であった。「群仙図屏風」は江戸時代絵画史を通じて類のない、怪奇な作品である。右隻のみであるが、空は嵐模様、波騒ぐ海上のつむじ風に乗って、竜にまたがり手に鉢を持つ仙人は、呂洞賓の龍退治の場面とされる。(異説もある)簫を吹いて鳳凰に聞かせる簾史。なぜかこの人だけが赤い服を着て赤ら顔である。虎を従え、髭と蓬髪を風になびかせるこの人物は、医薬を良くする扁篛(へんじゃく)とする説がある。右隻には4人の仙人がいる。左隻にも4人の仙人がおり(図には無い)、八仙図である。赤、群青、雌黄のどぎついほど強烈な配色が、当時の黄檗宗の頂相に施されたものと同じであり、このような彩色法は当時の屏風画としては稀である。不老不死の仙人たちは、吉祥の画題として還暦や誕生の祝いの席に描かれた。そうした特殊な儒学者グループに関係する人であった可能性がある。ちなみにこの屏風は、京都の京極家から出たといわれている。

 

本欄では伊藤若冲と曽我蕭白を扱ったが、伊藤若冲を知らない人はいないが、蕭白となると知っている人は殆どいないと思う。まして、ここで取り上げた蕭白の作品は異常なものが多い。サイケデリュクな作品は、多分、多くの人には馴染めない作品であろう。まさに「奇想の画家」であるだろう。

(本稿は、図録「奇想の系譜展  2019年」、図録「生誕300年記念 若冲  20  2016年」、辻惟雄「奇想の系譜」、日経大人のOFF 2019年1月号)