奇想の系譜(2) 長澤芦雪  岩佐又兵衛

 

長澤芦雪は宝暦4年(1754)-寛政11年(1799)の45年間の間に、異能を発揮し、様々な絵画を残した。父・上杉和左衛門は、はじめ丹波篠山の青野家に仕えたが、後に淀に移って稲葉丹後守に仕えた武士であった。下級武士の息子として淀で成長したが、好きな絵の道を志し、京に上って応挙のアトリエに通って絵の手ほどきをを受ける内に、めきめきと頭角を現し、やがて京へ移住して、天明2年(29歳)の時には、すでに、応挙の高弟として一家をなしていたらしい。同年発行の「平安人物志」の画家の項には、応挙がトップに載せられ、若冲、蕪村がそれに続き、それからだいぶ間を置いてではあるが蘆雪の名がある。「奇想の画家」の中では、まともな道を進んでいたことが分る。天明6年(1786)南紀串本にある無量寺の僧愚海が、かねて親交のあった応挙を訪ねて、南紀にある東福寺の寺院の襖絵を揮毫するよう依頼した。ところが当時応挙には南紀に出向くことができない事情があり、蘆雪が代理を務めることになった。応挙の信頼は厚かったことが理解できる。しかし、蘆雪の生活態度には相当世間の反感を買う面があったらしい。49歳で死亡しているが、才気煥発、無類の器用さ、多趣多芸、大向こうをあっと言わせる芝居気があり、反面、反感を買うような態度もあったらしい。

龍図  八面  紙本墨画  長澤芦雪作    島根・西光寺

八面の屏風であり、この絵は左隻に描かれた龍図であり、極めて珍しい絵である。このように前身が描かれる龍はなく、蘆雪の発想の豊かさを物語っている。顔は側面から描かれ、口角が上がりまるで微笑んでいるように見えるのも他の龍図には無い特徴である。鱗は輪郭線をとらえずに平筆によって勢いよく描かれ、筆運びの勢い自体が、龍の持つエネルギーを示しているようである。蘆雪が南紀遊歴(天明6~7年)前後の時期に制作された基準作として極めて貴重な作品である。

花鳥図 一幅 絹本着色  長澤芦雪作 江戸時代  阪急文化財団逸翁美術館

 

長澤芦雪は「奇想の画家」の中では、唯一人、まともな師匠について学んでいる。従って、他の「奇想の画家」と異なり、オーソドックスな絵を描くこともある。この花鳥図は、正にオーソドックスな花鳥画であり、師である応挙から学んだことがうかがわれる。中国南方原産である錦鶏という画題は、決して一般的ではない。若冲は「動植採絵」においても「雪中金鶏図」を描いているが、他の画家がこの鳥を描いた事例は極めて少ない。若冲の「白梅金鶏図」を仕上げた後の1770年前後の作と推定される。その頃の蘆雪はいまだ十代だが、後にこの絵を見る機会があったのいではなかと想像される。優美な尾羽を長く伸ばす金鶏の姿は、きわめて近似している。落款「蘆雪」と印章「蘆雪」「政勝」は、南紀遊歴以前の作品たとえば「檜に猿図」(個人蔵)などに近似する。若き日の蘆雪が若冲に心寄せていたことが想像できる作例であろう。

秋景山水図 紙本墨画淡彩 長澤芦雪作 天明8~9年(1788~1789)キャサリン&トーマス・エドソンコレクション

淡墨で描かれた急峻な岩肌に群生する松。その間に点在する紅葉した木木。松は濃墨で紅葉は淡い着色。そのコントラストが、季節感をうまく演出する。踊っているような松のかたちのリズム感、ぼかしを駆使した空気感を表す描法に、応挙とは異なる蘆雪の資質がよく表れている。「平安蘆雪写」という落款における「蘆雪写」の筆触は「雨中釣燈篭図」(個人蔵)の筆癖にきわめて近似している。近い期間、即ち天明6~7年の南紀遊歴を終えて以降、寛正前期までの作と推定される。この作品には「奇想の画家」の面は、まるで見られないと思う。

重要文化財 山姥図(やまんばず) 額一面 長澤芦雪作 絹本着色 寛正9年頃広島・厳島神社

山姥とその子供(後の坂田金時)をほぼ等身大で表す。迫力に満ちた画である。恐ろしい山姥の顔に驚かされるが、本図は、蘆雪の顧客であった広島の商人たちが厳島神社に奉納する絵馬として描かれた。画題は、浄瑠璃「茹山姥」に基ずく。画題は、浄瑠璃「女躰山姥」に基づく。「女躰山姥」では、遊女であった八重垣が自害した夫の魂を体内に宿して山姥となり、山中で子供を産み育てる。母子は後に夫の恩人である源頼光に会い、子供は坂田金時として頼光に仕えることを許される。恩義に報いるため超人的な力を得た母子の姿が、金時の活躍などとともに畏敬の対象とされたものと考えられる。山姥と5、6歳の金時が頼光の前に現れたところだとすれば、親子にとっての喜びの場面ということになる。そこに至るまでの山姥の苦労は計り知れず、彼女の屈託に満ちた表情には、これまでの生の苦しみが刻まれている。元遊女で今は鬼女・母といおう、さまざまな要素を併せ持つ山姥を活写している。暗く屈託した山姥と対照的に、金時の無垢の明るさが輝くように表され、未来の成功への希望が象徴されているようである。

 

岩佐又兵衛については、今までこの「美」で書いているので、紹介は省き、いきなり作品に入りたい。

重要文化財 山中常盤物語 第四巻 一巻 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代 静岡・MOA美術館

おごる平家を討つために、源氏の御曹司牛若は15歳の春、東国へ下る。頼むは奥州の藤原秀衡である。都にある母の常盤は、行方のしれぬ牛若案じ、清水にはだし参りをしたりしていた。春も半ばとなり、母常盤は侍従を従え東国へ下る。二人が山中の宿にたどり着くと、常盤は旅の難儀と牛若恋しさに、重い病の床につく。山中の宿に住む六人の盗賊は、常盤と侍従を東下りの上臈とみて美しい小袖を盗もうと謀る。夜半に押し入った盗賊たちは、常盤と侍従の着ている小袖まで盗もうと謀る。夜半に押し入った盗賊たちは、常盤と侍従の小袖まで剥ぎとったので、常盤は小袖を残すか、さまなくば命も取って行けと叫ぶ。盗賊は常盤を刺し、常盤にすがる侍従も殺して逃げる。(古浄瑠璃の一部)

堀江物語 一巻 紙本着色 岩佐又兵衛作  江戸時代  京都国立博物館

下野の豪族で、清和源氏の血を引く堀江三郎は美しい姫君を妻に迎えて男子をもうける。だが京から来た国司の中納言と姫君の父とが結託し、三郎を自害に追い込んだ。遺児の若君は生き延び、奥州の岩瀬権守に愛育され、元服後は岩瀬太郎と名乗る。やがて真相を知って敵討ちをこころざした太郎は国司の妻子を殺害、さらに京に上って国司を討ち果たした。帝から坂東は八国を任された太郎は、姫君の父の剃によって復讐を完遂。下野の血で堀江家の再興をなしとげた。         又兵衛には、この物語を絵画化した二種類の絵巻物が残る。一つはぜん12巻のもので、MOA美術館に所蔵される。もう一つは6巻の絵巻と断簡が確認されるものである。6巻物は京都国立博物館が所有している。この作品は,MOA美術館12巻物の習作のようなものである。

重美 伊勢物語 鳥の子図 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代 文化庁

柳の下にたたずむ一人の女性が、流れる水面に筆を差し出し何事を書こうとしている。これは「伊勢物語」第五十段「鳥の子」に取材した図である。この段は一組の男女が相手への恨み言を歌でかわし合うというもの。男の「鳥の子を十ずつ十ぱかさねとも、思わぬ人を思うものかは」の歌に対し、女は「ゆく水に数かくよりもはかなきは、思わぬ人を思うなり」と返す。本図はこの女の歌を絵画化している。

本性房怪力図(ほんじょうぼう) 一幅 紙本着色 江戸時代 岩佐又兵衛作 東京国立博物館

 

古典文学に取材した作品は、絵画化の長い歴史のなかで定着した図様の伝統に拘束されがちである。この絵は「太平記」巻第三の挿絵に題材を取る。この絵は「太平記」巻第三の挿絵に題材にとる。元弘岩年(1331)笠置山に拠点に移した後醍醐天皇の勢力を、鎌倉幕府が包囲、迫り来る幕府の軍勢に対し、南都の般若寺から来ていた本性房という怪力の僧は、普通の人間ならば百人ががりでも動かせそうもない巨岩を軽々と脇に抱え、鞠のように次々と投げつけて応戦した。幕府軍は崩れ落ち、深い谷は人馬の死骸で埋め尽くされ、近くを流れる木津川が血に染まるさまは、まるで紅葉を川面に映したようだったという。又兵衛の筆は、この惨劇をファルスへと転じて見せた。どこか見得を切る歌舞伎役者のようである。

国宝 洛中洛外図屏風(舟木本) 六曲一双 紙本金地着色 岩佐又兵衛作 東京国立博物館

京都市街(洛中)と郊外(洛外)の景観を一望する屏風絵の形式は、室町時代に成立し、江戸時代はじめ頃に全盛となった。その数は現存するだけで200件に迫る。かっての所蔵者の名前をとって舟木本と呼ばれる。この洛中落外図は、同主題の絵画のみならず、浮世絵を含めた日本の風俗画史における重要な転換点に位置する。極端に言って、舟木本の斬新さは、都市に暮らす人々の生活の様子を、絵画の中心的な主題へとせり上げたところにある。本図は、四条河原町を行く祇園祭を描いた部分である。寺町から四条通りへ進む大きな幌(ほろ)を担いだ母衣武者を描いたものである。四条通りをそのまま南下するのは南蛮人の扮装(コスプレ)をしたものである。現代のファローインのようなものである。

妖怪退治図屏風   伝岩佐又兵衛作 八曲一双  紙本着色 江戸時代

最近見出された作品で、この展覧会が最初の公開となる。地面には銀の砂子が蒔かれる。銀こそ黒く変色したが、それ以外のコンディションは、ほぼ完璧に近い。画面の左側から騎馬武者の一行が山路を下り(この左局には出てこない)水際立った先端の1騎は、黒雲に包まれたおびただしい数の異形のものたちに向けて弓を引く。(この黒雲が左隻である)人物の顔には所謂「豊頬長顎」(ほうきょうちょうい)の特徴が見られる。(この顔の表現が岩佐又兵衛の特徴とされる)この絵の制作期は、又兵衛が福井の地で絵筆をふるった元和2年(1618)頃から寛永14年(1637)までで、その前期と想定される。又兵衛の作品ではなく、又兵衛工房の作と思われる。この絵の内容については、まだ断定できていない。

 

長澤芦雪と、岩佐又兵衛を、本稿では取り上げた。岩佐又兵衛については、度々取り上げているが、比較的新規の絵画を取り上げたつもりである。長澤芦雪は、丸山応挙の高弟であり、絵の基本は良くできているが、「奇想の系譜の画家」らしく珍しい絵も描いている。絵の基本をきちんと学んだ「奇想の系譜の画家」である。

 

(本稿は、図録「奇想の系譜展  2019年」、矢代勝也「岩左又兵衛作品集」、辻暢雄「岩佐又兵衛」、図録「京都 洛中洛外図と障壁画  2013年、辻暢雄「奇想の系譜」を参照した)