奈 良  大 安 寺

天平19年(747)の「大安寺伽藍欄縁起並流記資材帳(だいあんじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)によれば、大安寺の創立は聖徳太子の熊懲精舎(くまごりしょうじゃ)に遡るとする。しかし、私は、これは神話の世界だと思う。太子の遺志を引き継いで舒明天皇は舒明11年(639)に百済川のほとりに百済大宮と百済大寺の造営を開始した。天王家が建立した最初の寺であり、「大寺(おおでら)」の名を持つ規模であり、偉大な大王の寺の意味を持つ。王宮護持のため、大寺は大宮と対にして造営された百済大寺に建てられたという九重塔は王家の象徴でもあった。百済大寺の遺跡は吉備池廃寺(桜井市吉備)が最も有力視されている。(発掘されている)                          天武天皇2年(673)に百済大寺は高市の地に、高市大寺となる。高市の地に遷されたのは、飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはら)の護持に関わると見られ、天武6年(677)には大官大寺(だいかんだいじ)の寺号が与えられた。     現在、藤原京の左京八条二坊の地の大官大寺跡は、発掘調査の結果、7世紀末、文武天皇の代に造営された大官大寺であり、未完成で焼失していることが明らかになった。和銅3年(710)、都は平城に遷される。王宮、国家の護持のため大寺も遷都によって平城京に遷され、新都には官寺として大安寺、薬師寺、私寺として元興寺、興福寺が営まれた。大官大寺を受け継ぐ大安寺はいちはやく、霊亀2年(716)に平城京左京六条四坊後に遷されることになり、天平元年(729)には入唐留学生を経験した道慈律師が造営の任に当たることとなった。搭は六条大路を隔てた七条四坊の別院に営むことを特徴とする大安寺伽藍となった。天平10年(738)前後には塔を除き、主要伽藍はほぼ完成していたと考えられる。   奈良時代には、大安寺は四大寺の筆頭に位置し、道慈、善議,勤操に連なる三論の系譜ほか、来日僧も止住し、都の教学拠点であった。

平城京における大安寺の位置

官寺である薬師寺より、広い寺地を持つことが明らかで、奈良時代の官寺の最高位にあった。今日、薬師寺は観光地として有名であるが、大安寺を知る人は殆どいない。私が、大安寺に参詣した3時間ほどの間に、観光客は一人も来なかった。

重文 十一面観音菩薩立像        奈良時代

十一面観音菩薩は、疾病をまぬがれ、財宝や食物に恵まれるといった、さまざまな功徳が説かれている。頭部と両腕部が後世に補作されているが、体部から造立当初の端正なお姿を知ることが出来る。帯に掛かる衣は波形にひるがえり、裳腰の左右はたくし上げられ、流麗な衣文(衣と皺)と相まって、衣に軽やかな動きが感じられる。花や唐草を連ねた胸飾が極めて華麗であり、台座にも華の文様が浮き彫りされている。奈良時代の秀作である。                     (秘仏  毎年10月1日より11月30日まで開扉)

重文 馬頭観音立像     奈良時代

災厄を消除する馬頭観音像として信仰されている。目尻を吊り上、上歯で下唇をかみ、厳しい怒りの表情を見せる。腰には獣皮をまとい、胸飾と足首に蛇を巻き付ける。一般的な観音のおだやかな姿と異なり、悪事や邪心を退けるような、畏怖すべき姿である。平安時代に密教が流行すると多趣の憤怒像が造られるが、本像はそれに先立つ貴重な古作である。                       (秘仏で、毎年3月1日より31日まで開扉される)

重文  聖観音立像    奈良時代

聖観音菩薩(観世音菩薩、観自在菩薩)は、姿をさまざまに変えて人を救うとされ、本来の姿が聖観音と呼ばれる。大安寺の他の観音像と同じく、カヤの一木造である。足下に楕円形の台(履物か)を表すのは、馬頭観音・楊柳観音と共通する珍しい特徴である。顔立ちはおだやかで、肩から垂れる天衣は優美である。衣の衣文は細かく数多く刻まれ、装飾も華やかであり、全体に造形感覚が現れている。  (この仏と他の6佛像は、常設で鉄筋の讚仰殿(さんぎょうでん)に、祀られている。常時拝観出来る)

重文  不空羂索観音立像    奈良時代

不空羂索観音は、慈悲の縄(羂索)で、すべての衆生を救いとると説かれる菩薩である。8本の腕は小ぶりに補作されているものの、当初の形をとどめる体部は、幅と厚みも大きく、量感豊かである。顔立ちや衣文も力強く刻まれ、実に堂々たるお姿である。衣には、彩色されていたと見られる装飾文様の痕が、浮き彫り状になって残っている。

重文  楊柳観音立像      奈良時代

岩座に立ち、目尻を吊り上げて開口する。その姿は類例を見ないもので、本来の尊は明らかではなく、馬頭観音立像と同様に、空海が真言密教を広める以前の古い古密教(雑密)の尊像とと考えられている。肉体表現に優れ、体の肉づきの抑揚や、顔の筋肉の隆起が巧みに表されている。肩にかかるお髪は、木と粉の木糞漆(こくそうるし)によるものである。                       多くの菩薩像が着ける丈帛(じょうはくー左肩から右脇にかける衣)が見られず、腹部に薄い衣をまとうように帯を腹部上方で締めるのも珍しい。容姿が異色で彫技も優れた重要な像である。

重文  四天王立像   多聞天    奈良時代

4体とも頭部から台座までカヤの一本で掘出(両腕先は後補作)されているが、作風に違いがあることから、複数の四天王像があったうちの4体が残ったと考えられる。多聞天像は前身の動きが大きくバランスも良い。その肉づきは抑揚に富んでいて、顔立ちが気迫に満ち、甲冑も体制に応じた自然な動きを見せる。

重文  四天王立像 持国天立像    奈良時代              重文  四天王立像 増長天立像    奈良時代              重文  四天王立像 広目天立像    奈良時代

この三天王立像は、頭体部の動きを控えて重厚な姿に造られ、鷹揚な趣がある。持国天と多聞天は胸甲に華やかな花紋の浮彫が良く残る。力強さと華麗さを併せ持つ名作である。

大安寺西塔の遺構(東南から)

大安寺には、寺からかなり離れた場所に七重塔跡が残る。東西両塔で、現在の奈良地方では見られない大きな東西二棟の堀跡が残る。大安寺を見学される場合は、少々寺から離れているが、この東西二棟の跡地は必ず見学して頂きたい。いかに大きな規模のお寺であったかが、一目でわかる。

和辻哲郎や亀井勝一郎の「古寺巡礼」等には、一度も出たことが無く、恥ずかしながら私も「大安寺」と呼ぶ、「大官大寺」の後系となる古寺の存在に全く気付かなかつた。奈良の旅行案内書を読んで、「大安寺」に気付き、遅ればせながら、「大安寺」に詣でた。規模の大きな、大官大寺の後を継ぐ大寺を、遅ればせながら拝観した。仏像類は、七仏は常時「讚仰殿」(さんぎょうでん)に祀られており、何時でも拝観できる。2佛は秘仏で時期限定で拝観できる。近鉄奈良駅からバスで約20分で「大安寺前」で降りて、15分程歩く。小学校や、民家があり、昔の「大安寺」の遺構は見られない。現存する「大安寺」は、狭くて小さなお寺であるが、鉄筋の讚仰殿は何時でも拝観できる。七仏は常時拝観出来る。大安寺の規模を知るためには、やはり東西両塔(七重塔)跡地を拝見する必要がある。バスを降りて約20分歩き、仏像類を拝観して、更に10分程歩くことは、かなり厳しいが、大安寺のかっての規模や、寺格を知る上で是非拝観して頂きたい。同じ官寺である「薬師寺」の規模をはるかに上回る規模に驚かされる。

(本稿は、森下惠介「大安寺の歴史を探る」、大安寺編「大安寺」を参照した)