奈良大和四寺のみほとけ(1)

奈良東北部に所在する岡寺、室生寺、長谷寺、阿部文殊院の四寺(よじ)は、いずれも7~8世紀に創建された古刹で、極めて魅力に富んだ仏像を伝えている。卓越した造形と厚い信仰を物語るみほとけ展であり、是非拝観して頂きたい。日本の異称に「ヤマト」がある。この「ヤマト」とは、本来御神体としてあがめられた三輪山の西麓一帯の地名であった。すなわち、奈良盆地の東南部、現在の天理市南部にある大和神社から、卑弥呼の墓と目されている箸墓古墳を経て、磐余と呼ばれた天の香具山東麓地域を指す。このヤマトを拠点とした王が、古墳時代初期の4世紀初頭、列島の覇者となった倭王権(ヤマト政権)の誕生である。一地域を指すに過ぎなかったヤマトという言葉も次第に、今の奈良県のあたる大和国全体、ひいては日本国全体を意味するようになった。このヤマトに存在する安倍文殊院、岡寺、長谷寺、室生寺の四寺の仏像類を一堂に会し、展覧するのが今回の展覧会の目的である。それは日本仏教の歴史であり、日本文化の発祥の歴史でもある。

岡寺

今回の飛鳥地方、室生地方、長谷地方は私の大学時代の憧れの地であり、しばしば学友と共に歩いた古い記憶の中に生きている。今回展示された仏像類は、私に取っては、懐かしい古仏である。飛鳥ブームが起きる前までは、飛鳥を訪れる人々の多くは、むしろ岡寺が目当てであった。西国三十三所巡礼の第七番が岡寺、厄除け観音を拝み、その後次の第八番長谷寺へと歩を向けたのである。ところが現在は、その岡寺は孤立している。飛鳥めぐりのコースから外されることが少なくない。現在の観光客は、飛鳥の寺々ということと、飛鳥時代に眼が直結しがちである。飛鳥時代より約半世紀のち、白鳳時代の初めに天智天皇の願を受けて義淵僧正が創立した、という寺伝さえ、すでに岡寺は、新しいと見られる所以だろう。

重文    岡寺  仁王門  木造         桃山時代

岡寺は、今の飛鳥でもっとも寺観のととのった寺であり、他の飛鳥寺院とは、拝観の仕方も異なってくる。正面の仁王門は、飛鳥唯一の重要文化財の建物である。本瓦葺の屋根は変形ながら和風の入母屋、二階の垂木は中心から放射線状に流れる禅様の扇垂、建物の木鼻は鎌倉期からの天竺様、こうした三様を巧みに混用し、室町時代の古様をひく桃山建築はすこぶる興味深い。本尊は、塑像の如意輪観世音菩薩像。坐像である。丈六の大仏である。銅像は東大寺廬舎那仏、木造なら長谷寺十一面観世音菩薩とともに、わが国の三大仏である。

重文  菩薩半跏像   銅造 鍍勤   白鳳時代(8世紀)

岡寺本尊の体内から発見されたと伝えられ、岡寺の歴史に関わる遺品として貴重である。片脚を組み思案する姿の半跏思惟像は、日本では仏滅から五十六億七千万年後に現れる弥勒菩薩として信仰されることが多い。本像の体つきや衣文の表現は自然で、白鳳時代に制作されたとみられる。(尚、図録では奈良時代とされているが、私は昔の白鳳時代という時代区分が好きで、好みの時代区分と理解して頂きたい)

重文   天人文甎    土製          飛鳥時代(7世紀)

「塼」とは焼いて仕上げた煉瓦のことで、「塼」(せん)とも書く。室内を飾るため、寺院の壁などにはめて使用される。中央のひざまく人物は、その独特な装束や、手にする衣が浮遊することから、天人と思われる。三国時代に新羅に類品があり、大陸の影響で制作されたと見られる。

重文  釈迦涅槃像  木造、彩色     鎌倉時代(13世紀)

釈迦が涅槃に入る時の姿である。二本の沙羅双樹の間に整えた寝床の上に、体の右側を下にして横たわったという説話にもとずいている。こうした涅槃の姿は他は一般に絵画に表されることが多く、木造のような大型の彫刻作例は、日本では極めて珍しい。平安時代までは両手を体に沿って伸ばす形が主流だが、右手をまげて頭に添える形は鎌倉時代以降に多くなる。また整理された衣文線や抑揚のある体つきの表現などから、本像は鎌倉時代に制作されたものとみられる。

国宝  義淵僧正坐像  木心乾漆像  彩色  奈良時代(8世紀)

岡寺の開基、義淵(?~728)の肖像として伝来した、日本古代肖像彫刻の名作の一つである。顔に刻みこまれた皺や浮き出たあばらなどの老いた姿と、目尻の下がった大きな目や鼻筋の通った異国の表情が融合しており、中国で定型化した僧侶の理想的な姿とされる。本像も実在の人物ではなく、僧侶の尊崇を受けた仏弟子の賓頭盧尊者像として造られたと見られている。重量感のある体つきと深い皺は、長年修行を重ねてきた高僧の精神性を表しているかのようだ。

長谷寺

長谷寺は、奈良県桜井市初瀬に所在する。この土地は、平安遷都以前の政治の中心地から伊勢神宮へと抜ける街道の要衝であり、「萬葉集」には「陰口(こもりく)の」という枕詞を冠した「初瀬」を読む歌が収められている。奈良時代前半に創建された長谷寺は、平安時代になると、しだいに朝廷からその霊験力が認められるようになった。有力な観音霊場として仁人気を博していた様は「源氏物語」や「枕草紙」などの文学に、「長谷詣で」が多く描写されることにもよく表れている。本尊は十メートルを超える十一面観音菩薩立像(重文)である。西国三十三所霊場の第八番札所でもある長谷寺は、今なお参詣者の絶えない観音霊場として名高い。

国宝  長谷寺本堂    木造        天平7年(735)

長谷寺の伽藍は天平7年(735)聖武天皇の世に、徳道上人によって上棟され、天平19年(747)に完成した。正に廬舎那仏の大仏鋳造が始まった年である。私は、長谷寺の階段状の伽藍が大好きで、三百九十九段あるという回廊の石段を上がり下りする回廊が大好きで牡丹の花が美しい寺である。

重文  難陀竜王立像  木造、彩色    鎌倉時代・正和5年(1316)

一般に雨乞いの本尊である難陀竜王は、長谷寺では本尊十一面観音立像の脇侍として安置され、春日明神と同体とされる。難陀竜王は竜を体に乗せた武将の姿であることが多いが、本像は「王」と書いた冠や衣服が中国の役人姿である点が珍しい。像内の銘文から制作年代と作者がわかる。舜慶以下八人もの仏師が造像にたずさわったのは5月2日に造像開始、13日に完成という短期間で完成させる必要があったためと思われる。

重文  赤精童子(雨宝童子)立像   室町時代・天文7年(1538)

雨宝童子とも呼ばれる雨を司る神。雨宝童子は天照大神と同体とされ、天照大神が伊勢に鎮座する時に長谷を取ったという伝承にもとずいて安置されたという。難陀竜王とともに本尊の脇侍である。髪型は童子の定型だが、衣服は女神像に近い。右手に宝棒、左手に寶珠を持つ。頭上に五輪塔戴くものもあるがこの像には無い。像内に安置された木札等に赤精童子と記されており、制作年代と作者がわかる。

重文  十一面観音菩薩立像  銅像・鍍金  鎌倉時代(13世紀)

本像の頭上面、両肩から先、天衣の垂下部、光背、台座は別鋳製とし、それぞれ本体に接合している。古代の金銅仏は全体を一度に鋳造するのが一般的だが、寄木造のように各部を別に造るのは鎌倉時代の銅像に多い。造形、鋳造技法ともに優れている。台座も岩座ではなく蓮華座である。かって付属していた文書によれば、護国寺の僧正決意が所持していたという。

十一面菩薩立像  木造、彩色          平安時代(12世紀)

住職の居所、慈眼院において、毎朝礼拝される像である。錫杖をと、岩座に立つ姿は、長谷寺本尊に特有の姿で「長谷寺様式十一面観音」と呼ばれる。右腕を垂下して錫杖をとるのが定型だが、本像は少し異なる。一木から両肘と両足までを造り、内繰りはない。穏やかな容貌と浅めの衣文は平安時代後期の特色を示す一方、胸腹部の抑揚に富む肉付き、内繰りのない一木造という構造は平安時代前期の要素である。

重文 地蔵菩薩立像  木造・彩色         平安時代(11世紀)

本像は、長谷寺の僧に変身して学生を誘って寺に入門させ、議論の席で問答したと伝えられ、論議地蔵と呼ばれる。長谷寺の学僧が特に信仰すべき像とされた。針葉樹(カヤ又はヒニキ材)の一木造で後頭部と背中から内繰り深く施す。両肩下がりから外側は別材で、左足先は後補である。一木造で背中から刳る構造、衣の襞に鋭さがある点に平安時代前期の名残はあるが、肉付きの薄い体に和様化の進行が見られ、十一世紀の作と考えられる。

阿弥陀如来立像  木造、漆箔   平安時代(12世紀)

来迎印を結ぶ、典型的な平安時代後期の定朝様の像である。定朝は平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像を造った仏師である。藤原道長、頼道など王朝文化をリードした貴族の求めに応じて、その好みにかなったいわゆる和様彫刻を完成させた。この像は正面中央で二材を矧ぐ。嘉永2年(1849)に寄進された。

(1)では、岡寺と長谷寺を取り上げた。恐らく岡寺を拝観した人は少ないと思うが、「天人文甎」は、誰でも見ているだろう。逆に、長谷寺は、大勢の人がお詣りしているはずである。しかし本尊の十一面観音像に惹かれ、他の仏像は殆ど記憶にないのではないだろうか。こういう展覧会があるお蔭で、お寺ごとの仏像に親しく触れることが出来た。また、奈良大和の巡礼の旅に出たい。

 

本稿は、図録「奈良大和四寺にみほとけ   2019年」、探訪日本の古寺第10巻「奈良一」、入江泰吉 大和古寺巡礼2巻「飛鳥・葛城古道」を参照した)