奈良大和四寺のみほとけ(2)

室生寺については、この「美」で、過去に2回取り上げている。それほど思いで深いお寺である。大学2年生の5月の連休の後に、K君(法学部)と共に室生寺を訪れた。この時は駅から6キロの道のりを、バスに頼らず、近鉄室生寺駅から歩いて参詣した。それは途中で大野寺の摩崖仏が見られ、自然の大岩壁に光背を彫りくぼめて内部を平らにして、その平滑な面に線彫りでえ弥勒の尊像を彫り付けたものである。岩に刻み込んだ人間の悲願の大きさと深さが、伺い知ることができた。像とともに刻み込んだ尊勝曼荼羅がその信仰の結晶のように見えるのである。この大野寺の摩崖仏を、ゆっくりと見学するために、あえてバスを利用せず、6キロの山道をわざわざ歩いてきたのである。時刻は夕方に近く、室生寺にたどり着いた時は、夕方のややうす暗い時刻であった。当然、室生寺のは閉門しており、私たちは、お寺の門前にある「橋本屋」と呼ぶ宿に1泊した。夜遅くなったのは、多分奈良の薬師寺や唐招提寺などを巡った後になったのであろう。翌朝、橋本屋を後にして、待望の室生寺にお詣りした。お寺の門前に「女人高野山」の大きな石塔があったことが記憶に新しい。丁度、石楠花(しゃくなげ)が一面に咲き、実に美しいお寺であったのが強く印象に残っている。

国宝  五重塔  木造・五重     平安時代(延暦年間782~806)?

五重塔は、室生寺の建物の中で一番古い建物である。奈良時代との説もあるが、やはり平安時代と見るのが妥当だろう。この塔は、室生寺の中で最も人々に愛され、親しまれている建物である。しかし、この五重塔の建立に関する記録はなく、奈良から平安時代初期の建築で年代的に基準となる作例に乏しく当塔が一般建築物とはかなり異なる存在であり、様式的にも創建年代を確定することは困難であるが、私は平安時代8世紀頃の建築物だろと見ている。屋外に立つ五重塔としいては最も小さい総高16.1メートルの塔で、奈良時代に一般的であった十六丈級の五重塔の三分の大きさである。現実的には、可憐で優雅に見える。石楠花の咲く5月には素晴らしく可憐な塔である。平成10年9月の台風で、大きな被害を受け、全国から浄財が集まった。

重文  弥勒堂    木造・杉製          鎌倉時代

よろい坂を上り詰めた右側に立つ、方3間の建物が弥勒堂である。入母屋造り、杮葺き、方3間の建物である。鎌倉時代の建物であるが、江戸時代に大修理が行われている。

国宝  釈迦如来坐像  木造・彩色   平安時代(9世紀)

全体像が二等辺三角形の枠内に収めた、極めて安定感に富む仏像である。平安初期の一木彫刻特徴が顕著である。また木彫の特色である、衣文線の鋭く流麗な彫においても、遺憾なく魅力を発揮している。造像年代は9世紀半ばと思われる。彩色は殆ど落ちて、ところどころに胡粉地が残っている。カヤの竪(たて)一材より彫成し、背面に背刳りを施す。脚部は横木一財を用いる。極めて男性的な釈迦如来坐像である。本像は、興福寺の僧賢驍が室生寺を創建した当時の本尊だった可能性がある。

国宝  本堂(金堂)  木材・杉材   平安時代(貞勘9年頃ー867)創建

鎧坂の上第二段目の台地上、前が二段に落ち込む地形に立つのが本堂(金堂)である。古くは{根本動}「薬師堂」と呼ばれていたが、江戸時代に真言宗になって以来は「金堂」と呼ばれている。この堂は創建以来、天承元年(1131)を初めとして鎌倉、江戸時代など数回にわたる修理が施され外観、構造共に創建当初から大きく変わっている。本堂の今一つの特徴は、奈良時代以降寺院の主要伽藍堂宇はすべて檜材を用いているが、当堂の用材は杉が用いられている。あえて杉材を用いたのは、当地での調達が極めて容易であったことと、山林修行を旨とする興福寺奥の院としての性格に由来するものではないだろうか。

金堂の諸尊  国宝・重文が多い。

金堂母屋に設けられた須弥壇には、現在中央に国宝・釈迦如来立像、向かって右に薬師如来立像(重文)と地蔵菩薩立像(重文)、向かって左に文殊菩薩立像(重文)と十一面観音菩薩立像(国宝)の五体が祀られている。前方には鎌倉時代の小ぶりな十二神将立像(重文)が祀られている。大ぶりの五尊はそれぞれ作風にやや違いがあり、同時一具の作とは考えにくい。なお、今回はすべて、この展覧会に出品されているわけではないので、これ以上の推測は辞めておきたい。

国宝  十一面観音菩薩立像   木造・彩色  平安時代(9~10世紀)

本堂の,向かって一番左側の仏像である。金堂には、柱三間の須弥壇上に、高さ2メートル超の薬師如来(現在は釈迦如来として信仰されている)を中心にその左右に四軀の像が並ぶ。この像は、室生三本松に所在する地蔵菩薩立像と共に、中尊の薬師如来の脇侍として、9世紀後半に造られたものと見られる。さざなみのように細戦で刻まれる衣文線が美しく、ふっくらとした頬と見開いた小さな眼が、観音の慈悲を表しているかのようである。私は、室生寺の諸尊の中で、一番美しい仏像であると、かねて思っていた。

重文   地蔵菩薩立像、   木造・彩色  平安時代(10世紀)

本像は、本来の安置佛だった室生三本松の地蔵菩薩立像が寺外に出たあと、他堂から移された。本像の光背は、本来は、この寺外に出た三本松の像のもので、中尊の光背と同じ作風を持つ。唐草などを域彫や透彫とする通例の光背と異なり、板に彩色で文様を描く板光背で、南都文化圏に特有のものである。外延部にあらわされた唐草文の先端はひるがえって火炎となり、その躍動感は見事というほかはない。

安倍文殊院(崇敬寺)

山田道から飛鳥への入口は安倍氏の根拠地である。ここに安倍梯麻呂(はしまろ)の建立と伝わる法隆寺式大伽藍の安倍文殊寺院跡が埋まっている。中世、阿部氏は東北200メートルの安倍山にある阿部氏にかかわりのある古墳群に接して現在地に移築し、文殊院となった。本尊である文殊菩薩像(国宝)は、総高7メートルを超える日本三大文殊の一つで、文殊菩薩が眷属を従えて海を渡る「渡海文殊」として信仰される。

国宝  文殊菩薩像内納入品 仏頂尊勝陀羅尼・文殊真言等 紙本墨書鎌倉時代(承久2年ー1220)

安倍文殊院の本尊である文殊菩薩五尊像の納入品である。奥書に、慧敏が発願した九尺の文殊像に収めるため明編(みょうへん)が承久2年(1220)に執筆した旨が記される。奈良東大寺の僧であったことから、阿部文殊院の前身は、東大寺を本寺とする崇敬寺の別所であったことから、文殊菩薩五尊像は東大寺や南都の文殊信仰にもとずいて造像されたと考えられる。

 

奈良大和四寺として岡寺、長谷寺、室生寺、阿部文殊院の四寺の仏像類を展示する展覧会であった。手寺された仏像類は15店で、内国宝4点、重要文化財9点という豪華な内容であった。小さいが、優れた展覧会であった。特に「図録」は860円と格安で、求める人が多かった。最近、「図録が売れない」という話を聞く機会が多いが、大冊で高い図録は買わない人が多いと思う。図録の有り様を見直す時期ではないだろうか。

(本稿は,図録「奈良大和四寺のみほとけ  2019年」、図録「室生寺の御仏たち  1999」、探訪日本の古寺第10巻「奈良1」、保育社「飛鳥路の寺」、保育社「室生路の寺」を参照した)