奈良西大寺展  叡尊と一門の名宝

近鉄の大和西大寺駅を降りると、古びた土塀に囲まれた静寂な伽藍がある。これが西大寺である。その創建に遡ると、聖務天皇の娘である孝謙天皇が天平宝字8年(764)9月11日に恵美押勝の反乱を平定するために発願(ほつがん)した金銅四天王像の像造である。上皇方が勝利し、孝謙上皇は称徳天皇となった。「西大寺資材帳」(宝亀11年ー780年)は、この翌年(781)の西大寺創建を伝えている。この資材帳によると、金堂には薬師如来を安置し、講堂には弥勒菩薩を祀り、その境内は東西十一丁(1200m)、南北七丁(約760m)という広大な寺域には百十を超える堂塔が立ち並ぶ壮麗な大伽藍であった。父の聖務天皇が平城京の東側に創建した東大寺に対して、この寺は西大寺と呼ばれた。神護慶雲4年(770)、称徳天皇が崩御され、都も長岡京を経て平安京に移った。左大寺は、鎮護国家の大寺として栄えたが、その後は他の南都の寺院同様衰退し、再び注目されるのは鎌倉時代に入ってからである。鎌倉時代に中興の祖、叡尊(えいそん)が登場した。叡尊の活動の理念は「興法利生」(こうぼうりしょう)と言われる。「興法」とは仏教を盛んにすることであり、叡尊はそのために、当時乱れていた戒律を復興し、釈迦本来の仏教に立ち戻ろうとした。そして「利生」(りしょう)とは、人々を救うことである。叡尊にとっては、この二つは分かちがたく結びついていた。文暦2年(1235)正月、35歳で西大寺に入った叡尊は、ここを拠点として「興法利生」の活動を始めた。従って、左大寺の歴史は、奈良時代と鎌倉時代に分かれる。

重要文化財 塔本四仏坐像  木心乾漆造 漆箔    奈良時代(8世紀)

西大寺創建間もなく建立された東西いずれかの塔に安置されていたと伝える。四軀とも奈良時代後期に流行した木心乾漆の技法で制作されている。この四仏は、釈迦如来、阿弥陀如来、宝生如来、阿閦如来(あしゅくにょらい)である。前期に並べられた仏像は釈迦、阿弥陀如来の2像であった。(写真右2仏)現在光背を亡失するが、台座は同大同巧のものが揃っている。この四体の基本構造は、頭部・体部をすべて檜の一材で彫り出し、その内部に内刳りを施す。表面の木屎漆(こくそうるし)の盛上げに厚い薄いの差はあるが、木心部はほぼ木彫像と同様の彫りを示している。その様式や技法からみて奈良時代末期から平安初期(延暦初年)にかけて造立されたと考えられる。

国宝  十二天像  絹本着色           平安時代(9世紀)

十二天は八つの方位を守護し、天・地・日・月・を支配する計十二の護法神から成り、密教の修法道場を守護する役目を担っている。本図は現存する十二天の作例の中では最も古いものであり、各尊はそれぞれ二侍者をしたがえ、鳥獣に騎乗している。本図は帝釈天像であり、白象に騎乗している。十二天の図像の組み合わせは、承和2年(835)に始まった真言院御七日御修法(ごしちにちみしほ)など、重要な密教の修法が完成される過程で整備されていったと推測される。本図はその過程に対応する9世紀後半の作と考えられる。(老化が目立つが貴重な国宝である)

国宝 興正菩薩坐像  木造 彩色    鎌倉時代(弘安3年ー1280)

興正菩薩叡尊を慕う門弟たちが合力で造立した叡尊80歳の寿像(生存中に造られた肖像)である。昨年(2016年)に国宝に指定された。作者は仏師善春。善春もまた父善慶とともに叡尊を師と仰ぎ、戒を授けられた弟子同朋であっあったと考えられる。像は鎌倉時代後半を代表する肖像彫刻の傑作である。像内には叡尊の行実や信仰を偲ばせる各種経典、舎利容器、綬菩薩戒弟子名など数多くの納入品が納められているほか、門弟の鏡恵が記した弘安3年8月27日付の造象願文などが納入されていた。

重要文化財 愛染明王坐像  木造 彩色   鎌倉時代(法治元年ー1247)

西大寺愛染堂の厨子内に納めらている秘仏の本尊像で、法治元年8月18日に叡尊とその弟子範恩が、西大寺における三法久住を願って造立した。作者は南都関係の造像を多く手掛けた仏師善円である。日輪光を背にし、宝瓶上の赤色蓮華に坐す総身真紅のお姿は、煩惱をそのまま悟りのあらわれとする密教究極の真理を具象化したものである。焔発を逆立て、五鈷鉤(ごここう)をつけた獅子冠を戴いた三目六臂の憤怒(ふんぬ)の像容は、本経である「瑜伽瑜教」(ゆがゆきょう)に説かれるところと一致している。納入品も多数ある。叡尊は弘安の役のおり、弟子300人余を率い南北二京の僧560余人とともに京都・石清水八幡宮で祈願すると、結願の日に叡尊所持の愛染明王像の鏑矢が八幡宮から西を目指して飛んでいき、異族を滅ぼしたという伝えが広まっている。これは叡尊の験力と愛染明王の霊験の両方を伝えている。

重要文化財 文殊菩薩坐像(文殊五尊像のうち)木造・彩色 鎌倉時代(正安4年ー1302)

文殊菩薩が四眷属を従える文殊五尊像は文殊信仰の中心地として著名な中国・五台山の文殊菩薩の一形式とされ、鎌倉時代には渡海文殊として広く知られていた。叡尊や忍性(にんしぉゆ)は「文殊涅槃経」に説かれる文殊思想をもとに数多くの民衆救済事業を行ったが、法会は25日の文殊縁日に墳墓の近くなどで実行されるのが通常で、亡魂救済の意味も含まれていたらしい。叡尊の文殊信仰の記念的事業になった般若時文殊五尊像の造立もこの思想にもとずいている。左大寺像は文殊菩薩の像内墨書銘から、叡尊が亡くなった3年後の永仁元年(1293)に門弟によって像立が発願され、叡尊の13回忌にあたる正安4年(1302)に完成したことがわかる。前期には右前の善財童子と左奥の最勝老人の二像が展示された。

重要文化財 釈迦如来立像 木造 素地 鎌倉時代(建長元年ー1249)

西大寺本堂の本尊で、造立の経緯は、昭和47年(1972)の修理で像内から取り出された納入品によって鮮明となった。清凉寺の釈迦像はすでに三国伝来正身釈迦として天下に名高く、その模造も実に多いが、原像を前に直接摸刻したと確かに言える像はまさに本像のみである。宝治2年(1248)8月8日に造立の発願がなされ、翌建長元年(1249)2月14日に本仏の供養、木作りが行われ、4月3日には完成し、5日に西大寺に入り、5月7日に開眼供養される。作者は仏師善慶以下9人、他に絵師や番匠の名も判明している。本像が造られた目的は戒律復興と広法利生にあった。檜材の寄木造りで、素地仕上げとし、頭髪に彩色、特徴のある細やかな衣装や丸文などに切金を施している。面貌からわかるように原像の忠実な摸刻というよりも善慶一派の作品解釈、明快な刀さばき、穏健な作風というものが極めてよくうかがえる作品である。

国宝 金銅透彫舎利容器 1基   鎌倉時代(13世紀)

現在西大寺に伝わる、外部を灯籠型とした舎利容器で、内部には、蓋の中央に宝蓋をもつ小さな金剛界大日如来を安置した、脚付の塔形の舎利瓶を納めている。外部の燈籠形の頂上には火焔宝珠舎利容器を置き、屋根は六花形で魚々子地に雲龍と蓮華草文を鋤彫りの肉薄で表し、蕨手の先に宝鐸・瓔珞を下げる。西大寺には、この他に金銅宝塔、鉄製宝塔など3点の国宝舎利容器がある。叡尊の釈迦信仰を物語る逸品であるが、中でも、この透彫舎利容器は、他に類例を見ない逸品である。

重要文化財金銅火焔宝珠形舎利容器 鎌倉時代(正応3年ー1290)海龍王侍

真言律宗一門の名宝である。台座は六花形の二重框座とし、六葉複弁の半花、獅子座、華盤、敷茄子、蓮台と順次積み重ねて、頂上に四方火焔で囲んだ水晶製舎利容器を安置している。当時の金工装飾の粋を尽くした舎利容器である。台座の裏に「正応3年」(1290)の刻銘があり、正応3年に京の工人によって制作されたことが分かる。正応年間は叡尊の尽力によって海龍王寺の堂舎が復興された時期であり、この舎利塔もこの間に作られたことが知られる。

重要文化財 吉祥天立像 木造 彩色 鎌倉時代(建暦2年ー1212)浄瑠璃寺

建暦2年(1212)の造立され、本堂(九体阿弥陀堂)に安置された厨子入の吉祥天女像である。この像を収める黒漆春日厨子内面は、扉六面に梵天・帝釈天・四天王の全六天が彩画され、後壁には八臂弁財天を中心にした五神が一図に描かれている。これらは彫像の吉祥天をはじめいずれも「金光明最勝王経」に説かれる諸尊であり、彫像と厨子絵とで構成される全体が「金光明最勝王経」の立体曼荼羅世界を表すものと考えられる。本像は、浄瑠璃寺でも秘仏であり、滅多に参拝できない。此の吉祥天を拝むだけでも、この展覧会を拝観する意味があると思う。

 

西大寺は創建の由来から言っても、東大寺と並ぶ南都七大寺の中でも、由緒深いお寺であるが、現実には遺跡のみで、殆ど往時の面影はない。この「西大寺展」が開催され、西大寺に伝わる仏像が展覧されるのが、殆ど唯一の機会である。しかし、四大寺由来の仏像は、塔本四仏坐像と十二天像(懸け絵)位で、後は国宝の経典2巻と経箱、西大寺伽藍絵図程度のものであり、後は中興の祖、叡尊に関する仏像や「真言立宗」一派各寺の仏像や図像である。平安時代の末、皇室や政権担当者である藤原氏の内輪の権力争いによって起こった保元・平治の乱は、それぞれの肉親が二手に分かれて戦う痛ましい骨肉の争いであり、それに引き続く血なまぐさい源平合戦の有様と共に、都の人々に「乱世」を実感させた大きな出来事であり、それより前、浄土教系の仏家によって唱えられた、仏法の終わりを示す「末法の世」がまさにやって来ているという危機感を持たせる事件でもあった。こうした状況の中で鎌倉時代がはじまるのである。この時代、寺や僧侶の堕落は眼にあまるものであったらしく、教団の持つ巨大な力を背景とした武力を備えた僧兵の集団を組織して政治に介入したり、世俗的な権利を主張し、争いを起す者さえあった。こうした仏教界に登場したのが、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、時宗の一遍、法華宗の日蓮などで、新仏教とされた。これらは、末法の世から救済を目指したことである。そしてむずかしい修行は必要ではなく、一つの教えを選んでそれに一心にすがれば良いと説き、武士も大衆も競ってこれらの新しい仏教に救いを求めることとなった。こういう時代に生まれた叡尊は、まず醍醐寺で出家し、密教の修行をし、ついでこうした先学の思想と実践に直接、間接に影響を受けながら、天平以来の名刹で、衰微の極にあった西大寺に住み、ここを信仰活動の拠点としてこの寺を再興し、また当時形骸化していた南都の戒律の復興に勤めた名僧として忘れることの出来ない大きな存在なのである。しかもそれだけでなく、実践家として、社会の最下層に位する大衆や、病苦にあえぐ不幸な人たちを救済するなど、思い切った慈善事業まで自ら実行しているのである。叡尊によって1500個寺の末寺を有したとされる。「叡尊と一門の名宝」という名前の通り、末寺のすばらしい仏像等も多数拝観できる展覧会であった。

(本稿は、図録「創建1250年 奈良西大寺展 叡尊と一門の名宝」、図録「奈良西大寺展  1991年」、青山茂他「大和古寺巡礼」、日経新聞2017年4月8日「奈良西大寺展」を参照した)