始皇帝と大兵馬俑ー「永遠」を守る軍団

兵馬俑は始皇帝の墳丘から東へ1.5キロ離れた「兵馬俑抗」から出土したものである。極めて写実的に表現されており、約8,000体ありながら、1体ずつ違う顔の造形には、実在の将兵をモデルにしたものと考えられている。1974年3月に、この地の農民が井戸を掘っていて、偶然一山の粉々になった陶俑の破片を発見したことから、井戸を掘る工事は直ちに中止され、中央および陜西省の文物部門の指導者と考古学の専門家が現地に駆け付けて調査をした。1年余の調査・発掘を経て、ここが始皇帝陵墓の大型の兵馬俑抗であり(1号俑抗)、周囲は14,260平方メートル、中には陶俑と陶製に馬が約6,000体、木製戦車40輌あまり、各種青銅武器数万点が埋まっていることが判った。更に、1976年には2号兵馬俑が発見され、発掘の結果、面積は6,000平方メートル、中には陶俑、陶製の馬1,300体あまり、それに大量の青銅器武器が収められていた。それは1号兵馬俑抗の内容に比べても、さらに精彩を放ち、多数の騎兵、80輌あまりの木製戦車,跪車(きしゃ)、立射「(りつしゃ)など各様のポーズをとった歩兵俑が発見された。

2号兵馬俑に続き、1976年5月には3号兵馬俑が発見された。面積は約520平方メートル、中には木製戦車1輌、陶窯と陶製の馬72体が納められていた。3号俑抗の形態は複雑であり、一目でこれが警備の厳重な兵馬俑の指揮部であることがわかった。極めて注目に値することは、この地下に埋もれた8,000体の兵馬軍団については、関連の史書の中に全く記載を探し出すことができないことである。このため、兵馬俑軍団は一層神秘的な色合いを増している。兵馬俑抗以外にも「馬厩抗」(ばきゅうこう)、雑技俑を埋めた「K9908」など200基近い大小の陪葬抗(ばいそうこう)が配されていた。1980年には「銅車馬抗」が発掘された。形状と出土位置から,生前の始皇帝が実際に乗った馬車をかたどったものと考えられる。始皇帝を永遠に守る軍団を階層別に説明するが、いずれも「秦始皇帝陵墓博物院」に帰属するものなので、いちいち説明しない。

将軍俑(しょうぐんよう) 秦時代(前3世紀) Ⅰ号兵馬俑出土

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冠をかぶり、鎧を見につけた武将の俑である。顔立ちは面長で四角く、額は広い。顎はがっちりしており、髭が長く口は大きく、唇は厚い。重ねた両手の下に剣を立てていたとされる。湘軍俑の左肘内側に空いた楕円形の隙間がある。ここに鞘ごと剣を指しこみ、両手は指揮用馬車の側板に添え置いた可能性も考えられる。兵馬俑の兵種としては最も数が少なく、戦闘指揮用の馬車付近で出土した例が複数ある。

軍史俑(ぐんりよう)  秦時代(前3世紀)   1号兵馬俑で出土

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高く結い上げた髷の根元に帯をつけている。鎧はまとわず、右前合わせの上着を着用している。布製の腰帯を結ぶ代わりに革帯と金具を使って留めるなど、動きやすく工夫されている。膝丈のズボンを履き、箙(えびら)を背負っていたと推定される。左手は革製の盾を持っていたことも推測されている。

立射俑(りっしゃよう)  秦時代(前3世紀)  2号兵馬俑抗

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手には弩級を持ち、矢をつがえて攻撃命令を待つ兵士の姿である。元来、矢入れを背負っていたものと思われる。半身に構え、上からみた時に足をL字型に開く姿勢は、命中精度を高めるのに適したものである。装備はすね当てをつけ,革製の靴を履いている点を除けば、歩兵俑と同じ服装である。

騎射俑(きしゃよう)  秦時代(前3世紀) 2号兵馬俑出土

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体には長い上着を着て、外側に肩当ての付いた鎧を着けている。下にはズボンを履き、足には口の部分が四角い履物を履いている。右肘を地面に付けており、左の脚を曲げて立てている。、右腕は後ろに引いて曲げており、手は拳を半ば握っており、親指を立てている。左手は胸の前に当てており、指をわずかに曲げている。両手を体の右側に置いており、弓を手にして、矢を放つ準備をしているようである。

御者俑(ぎょしゃよう)  秦時代(前3世紀)   Ⅰ号兵馬俑出土

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体には膝丈の長い上着を着ており、外側に鎧を着け、下に膝当てを着け、足には口の部分が四角く、爪先が真直ぐな履物を履いている。背筋を真直ぐにして立ち、両腕を前に伸ばし、両手は拳を半ば握り、拳の中心を上に向け、親指をわずかに立てている。両目は真直ぐ前方を見ており、全神経を集中させ,手綱を引き御している。

馬丁俑(ばていよう)  秦時代(前3世紀)   馬厩抗出土

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秦始皇帝陵の東側で、死後の世界における厩舎のような竪穴列が見つかった。場骨とともに置かれていたことから、馬の世話をする馬丁と判断される。兵馬俑抗の俑がほぼ実物大と考えられるのに対し、馬丁俑は、実物より小ぶりに作られている。

雑技俑(ざつぎよう)  秦時代(前3世紀)  K9901抗出土

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K9901抗から併せて11体の陶俑が出土した。本作ではでっぷちとした体格の男子で、上半身は裸、下半身には短い袴(はかま)のようなものを身につけている。雑技俑と名付けられるが、実のところ、不明な点が多い。

兵馬俑(へいばよう)5体   秦時代(前3世紀)

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向かって左から立射俑、歩兵俑、軍利俑、将軍俑、騎射俑の5体を並べたものである。最後の会場の後ろに、この五体の人物像が数多く並んでいる。(但し、会場に並べられているのは複製であった。自由に写真が撮影できるコーナーも用意されていた)

1号銅馬車   秦時代(前3世紀)展示品は複製    銅馬車抗出土

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1980年、始皇帝の墳丘すぐ西側で「銅馬車抗」が発掘された。中には、御者の像とともに二輌の銅馬車が西向きに配置されていた。生前に始皇帝が実際に乗った馬車をかたどったものと思われる。実物の1/2のサイズの模型であった。始皇帝は生前、5回の全国巡行をしている。最後に,巡遊先の砂丘で50歳の生涯を終えている。この銅馬車は、四頭立て馬車をほぼ半分の大きさにかたどった精巧な模型である。1号馬車には車與には車蓋を立てている。御者は直立して手綱を引いている。将軍俑と同じような冠をつけ、腰帯に儀剣を差し、単なる1兵卒ではなく相応の身分であることを示している。この馬車が軽装で美麗であることから、軍事用ではなく、特定の儀礼の先導の役割を果たしたと思わせる。

2号馬車  秦時代(前3世紀)  展示品は模型    銅馬車出土抗

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御者は輿の前面に坐して手綱を操り、腰には儀剣を差す。輿には前面と両側面に窓があり、後方に扉がある。紗丘で崩じた始皇帝の亡骸は轀輬車(おんりょうしゃ)に載せたとの記録がある。これが始皇帝の御用車であることを推定させる。なお、「轀輬車」とは、窓を閉じれば暖かく、開ければ涼しいことに由来するものである。私は、1984年に始皇帝の大兵馬俑を見学した時、記念品としてこの2号銅馬車を4,000円程度で購入したが、今回の展示会場では、1.2万円で売っていた。元が強くなったのか,円が弱くなったのか、時代の差を感じた。

将兵の背の高さは、概ね180~190cmである。果たして、こんなに大きな人物が8千人もいたのであろうか?疑問に思う。兵馬俑は高い規格性を持っており、かつそれは「等身大」であると考えられている。秦は確かに全国から体格の良い兵士を徴用したのであろうが、これが現実の軍団とは思い難い。また、俑の生産効率を考えると、一人が1体づつ作っていくよりも,各部位の単位で規格を設け、分業体制で専従にして作る方が効率的であり、かつ正確である。研究者によれば、兵馬俑の破片から、脚、胴体、腕、頭部などを別作りとなって、それらを合せて焼成しているそうである。始皇帝は、不老長寿の仙薬を求めて徐福を東海の山神山に向かわせたと伝えられている。思うに、始皇帝は仙人に出会うことを求めていたのでは無いだろうか?即ち、始皇帝は神秘の世界に住む、永久不滅の存在である仙人と出会い、自らも永久不滅の存在になりたいと考え、この兵馬俑抗などを、生前に造らせたのではないだろうか。

 

(本稿は図録「始皇帝と大兵馬俑 2015年」、図録「秦の始皇帝とその時代 1994年」、図録「美の粋 1996年」、図録「中国王朝の至宝 2012年」陳舜臣著中国の歴史「第2巻 大統一時代」、NHK取材班 故宮ー至宝が語る中華5千年「第1巻 皇帝天下を制す他」参照した)