始皇帝と大兵馬俑ー天下統一 

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紀元前247年、西の大国秦(しん)に始皇帝が登場し、法家の思想を政治の場で実践した。黄土高原に生まれた秦は,周代に馬の飼育に長けた一族として頭角を現した。戦国時代半ばには、身分制度や刑罰に法家の思想を取り入れて、強力な中央集権国家に成長した。富国強兵に成功した秦は、始皇帝の時代には、全国の富の半ばを占めるまでになった。統一後、始皇帝は、焚書興坑儒(ふんしょうこうじゅ)と呼ばれる思想の弾圧を行い、さまざまな思想が噴出した百家争鳴と呼ばれる時代は終わった。皇帝は天の神に代わって天下を治める「天子」と同義語であるが、造語した本人はこれとは異なる意味を持たせたようである。始皇帝にとっての「皇帝」は、「天子」を超えた概念であり、「天子」を超越すること、そこにはもはや神秘の領域となる。始皇帝は、この神秘の領域に誰よりも近づこうとしたのである。秦は天下を統一(前221年)すると同時に、それまで国によって異なっていた度量衡、漢字の形、貨幣の統一し、全国に浸透させよとした。また、有力な貴族や功臣に王が一定の領地を与えて統治を委ねる統治方法を改め、地方に中央から官僚を派遣して、皇帝の意志を法令によって隅々にまで実現させるようにした。始皇帝は全国を五度も巡行してその威光を示した。その他、巨大な宮殿や長城の構築など統一後に始皇帝が行った事業は枚挙にいとまがない。

両詔権(りょうしょうけん) 青銅 秦時代(紀元前3世紀) 秦始皇帝陵博物院

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始皇帝は天下を統一すると,秦の重量制度を全国各地に普及させるため、重量の基準となる権(分銅)を多数製造させている。本品はその一つである。この分銅には側面に始皇帝とその子二世皇帝の詔(しょうー皇帝の命令)に関する銘文が刻まれている。この分銅は、当時の単位でⅠ鈞(きん)という重さの権であったと考えられている。

両詔両(りょうしょうりょう) 青銅 秦時代(前3世紀)陜西歴史博物館

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青銅製の升で、側面には両詔権と同じ銘文を刻んだものである。また底には二世皇帝元年の銘文を刻んでいる。この升の容量は当時の2升半に当たると考えられ、当時の平士に配給するひとり1日分の穀物を計るのに用いられたと思われる。

半両銭母范(はんりょうせんぼはん) 青銅 秦時代(前3世紀)陜西歴史博物館

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范は鋳型、母范は鋳型を作るのに用いられる型である。青銅製で14枚の銭の形や青銅で流れる経路(湯道)が浮彫で表されている。これで半両銭が造られた。これにより鋳型の大量生産が可能になった。こうした母范(ぼはん)が作られるようになったということは、大量の半両銭が必要になったのであろう。正に、通貨の統一である。「両」は古代中国の重量の単位で、秦漢時代の1両は15グラム強で、半量は約8グラムとなる。当時、貨幣経済が発達していたのであろうか。「前221年の天下統一後、中国全土で広く用いられるようになった」と図録では解説しているが、果たして本当かどうかは不明である。

瓦当(がとう) 陶製 戦国時代(前5~4世紀) 陜西省考古研究所

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この鹿文、虎雁文、狩猟文の瓦当は,前5世紀から前4世紀にかけて,秦の中心地が陜西省西部あった頃の瓦当である。いずれも戦国時代の他の国でが類例がない、秦国独自の文様であった。当時、瓦はまだk王朝の重要な建物にしか用いることができない特別な資材であったと考えられる。瓦当文様には、建物の安全や国家の繁栄を祈る気持ちが込められていたと想像できるが、本当の意味は今後の研究課題である。

水道の取水口 L字型水道管、水道管 陶製戦国~秦時代(前3世紀)秦咸陽宮遺跡博物館

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組み合わせ式の陶製の水道管である。漏斗状の大きな受け皿とL字型連結し、さらに円筒上状の菅を横方向に連続させて地下に水を流したものである。これらは咸陽宮出土である。この導水施設は始皇帝の地下世界を水害から守る治水対策に用いられたものであろう。この高度に発達した陶器製造の技術が、兵馬俑を作る技術に転用されているのであろう。

水鳥  青銅  彩色  秦時代(前3世紀) 陜西省考古博物館

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青銅製の水鳥で、鋳造後に表面全体をやすりがけして肌理(きめ)を粗くし、そこに下地となる漆を塗ったものである。鶴、白鳥、鵞鳥などもあり、皇帝祭祀に供されるために飼育していた水禽を表現したものであろう。

始皇帝陵

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始皇帝陵の周囲には、内外2重に巡らされた牆壁も発見されており、内城の周囲は3,807m、外城の周囲は6,210mである。牆壁は版築によって作られており、現在はその基礎が残っているだけである。内外の牆壁の4面には門があり、門の上には望楼があった。陵内の地上建築物は火を受けて、現存しておらず、磚(せん)や瓦の破片などが僅かに残っているに過ぎない。始皇帝陵はあたかも豊かな文化財を納めた地下の宝庫のようである。始皇帝陵を中心とする2キロメートルの中心区内には、地上、地下ともに様々な珍しい遺構や遺物が密集して分布している。中心区の外の周辺56.25キロ平方メートルの範囲内では、長年にわたって始皇帝の時代の遺跡、遺物の発見が続いている。始皇帝の建造物の配置や副葬物はいずれも生前に倣ったものであり、地下の王国は地上の王国の再現であった。あの大きな陵墓や地下宮殿は生前に住んでいた咸陽宮のようである。始皇帝陵は、中国の歴代皇帝陵の中でも最大規模を誇り、埋蔵物が最も豊富な大型陵墓である。現在、考古学的調査を経て知られている遺構、遺跡はその一部に過ぎないと思う。今後,更に多くの珍しく、貴重な遺物が発見されるであろう。

始皇帝兵馬俑抗  第1号抗   一部の写真

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私は1994年(平成6年)に,始めて私用で中国の観光旅行をした。万里の長城や故宮博物院等初めて観るものが多かったが、一番大きな衝撃を受けたのは、この始皇帝の兵馬俑抗であった。まるで、巨大な体育館のような建物の中で、兵馬俑を見学した思い出は、忘れることが出来ない。紀元前3世紀と言えば、日本では弥生前期であり、文字も無い時代であり、中国との歴史の差が余りにも大きいので,驚愕したことが記憶に強く残っている。それ以来、兵馬俑が展示される展覧会には必ず見学するようにしている。考古学的研究も進み、20年前には不明であったことが色々判ってきた。もう一度現場に臨むことは無いだろうが、兵馬俑を見る度に感激を新たにする。

日本に与えた始皇帝の影響は多岐に亘が、私はまず第一に徐福の話である。不老長寿の仙薬を求めて、徐福に3千人の童男、童女や技術者をひきつれ五穀の種子をたずさえて、東海の中の三神山に向かわせた。しかし、徐福は仙薬を入手できず、始皇帝の下へは戻らないで、平原、廣澤の地に住むつき、その子孫が繁栄したという。その徐福の辿りついた所が日本であるとして、和歌山県新宮や佐賀県諸冨町をはじめ全国各地(80ケ所以上ある)に徐福伝説が残っている。私自身も、三重県の太平洋岸の徐福上陸地点の碑を見たことがある。徐福の日本渡来は伝説として受け止められているが、時期は弥生時代の初めに当たっており、稲作文化の渡来を暗示する話にも思える。

弥生時代を特徴づける墳丘墓、方形周溝墓は、その祖形が咸陽時代の秦東陵園にみられることから、徐福の一行に加わった秦人が日本へ伝えたのではないかという説もある。応神朝に来日したと言われる弓月君は、始皇帝の長子、扶蘇(ふそ)の子孫と言われており、帰化人の中の有力勢力である秦氏(はたし)の存在にもあるいは影響が及んでいるかも知れない。

 

(本稿は図録「始皇帝と大兵馬俑 2016年」、図録「中国王朝の至宝 2012年」、図録「中国・美の粋 1996年」、図録「秦の始皇帝とその時代展 1994年」、陳舜臣著中国の歴史「第2巻大統一時代」,NHK取材班「故宮第1巻 至宝が語る中華5千年・1」を参照した)