寛永の美  江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽

寛永年間(1624~44)は、参代将軍徳川家光と大御所秀忠によって、幕藩体制の基礎が固められた時代として記憶されているが、文化的にも新たな潮流が生まれた時代として、歴史家の注目を集めてきた。歴史家・林家辰三郎氏は、昭和28年に「寛永文化論ー日本的伝伝統の起源をたずねて」という論文を発表している。簡単にまとめれば、寛永期こそ、中世の文化と近世の文化の結節点であったと主張された。寛永文化論は、暴走華麗な桃山文化の後、いきなり元禄文化が花開いたわけではなく、朝廷、幕府、町衆など各層のサロン的結びつきの中から大きな文化興隆期があったとする見方である。この展覧会では、その造形的な特徴と美意識に特に注目し、「きれい」という言葉に代表される瀟洒で洗練された美をクローズアップしている。まずは、新時代への胎動から見て行きたい。

鹿下絵古今和歌集断簡 本阿弥光悦筆 俵谷宗達画 江戸時代(17世紀)サントリー美術館

もとは「新古今和歌集」巻四、秋歌上の和歌二十八首が散らし書きされた全長20メートルに及ぶ長巻だったが、昭和10年(1935)に裁断されて上下二巻となり、さらに上巻が分割されたものの一つが本作である。巻物形式特有の時間的な展開によって秋の野における鹿の群れの生態を描く。上巻の参場面に当たる本作では、座り込んだ一群の鹿が右上から左下へと斜めに列をなし、光悦の書はそれに呼応するするように描き込まれ、書画一体の趣をなす。現在米国シアトル美術館に蔵される下巻の末に「徳有才光悦」の落款と「伊年」の朱文印があることから光悦書、俵谷宗達下絵の作品と分かる。

蔦下古今集和歌色紙 本阿弥光悦筆 俵谷宗達画 慶長11年 サントリー美術館

金泥のみで蔦の下絵を描き、その上に「新古今和歌集」巻四・秋歌上に所収される前大僧正慈円の和歌を散らし書きした色紙。生い茂る蔦には、顔料や墨の滲みを利用した宗達の特徴的技法「たらし込み」が用いられ、葉の質感が見事に表現されている。その下絵に対して、光悦は蔦の葉の重なりや蔦が垂れる様子に呼応して字の配置や書体を工夫しており、最後の句の「秋」を大きく描いて季節を強調している。文字と絵画が調和した優品である。「慶長十一年十一日」の年紀と光悦の落款印章をともなう一連の作品である。

柳下絵古今和歌集色紙 本阿弥光悦書 俵谷宗達画 江戸時代(17世紀)サントリー美術館

宗達による金銀泥の柳図の上に、光悦が「古今和歌集」巻第五・秋歌下に所収されるよみ人知らずの和歌を記している。柳の葉は水気の少ない金泥で描かれ、鋭利な線で表現された葉先が画面に緊迫感を与えている。一方、大きく描かれた葉などには、水気を含んだ筆が使用され、繊細な滲みやぼかしの表現が見られる。線の肥瘦を見事に使い分けた光悦の筆は上から下へと流れる柳の葉に寄り添うように書かれている。

伊勢物語図色紙「水鏡」近衛尚嗣筆(殿俵谷宗達画)江戸時代(17世紀)サントリー美術館

百二十五段本「伊勢物語」の第二十七段「水鏡(盥のかげ)」を描いた作品である。一夜限りで来なくなった男を恨み悲しむ女が、盥の水に自分の姿が映るのを見て、自分のほかにもう一人物思う人がいた、と歌を詠むところを男が立ち聞きするという場面である。本作は益田鈍翁旧蔵の一連の色紙のうちの一枚で、個々の色紙の作風に異動が認められることから、制作は宗達と工房の絵師による共同作業と見るのが妥当であろう。本作の裏書には「近衛大将様」とあり、これは近衛尚嗣を示すものと考えられている。本作は寛永年間における宗達の画業と、さまざまな文化人たちの身分を超えた交流」を示す点で、寛永文化の様相を良く伝える作品である。

源氏物語画帳 園基副詞 住吉如慶画 江戸時代(17世紀)サントリー美術館

後水尾院(1596~1680)は、その長い生涯の中で朝廷と幕府の関係に配慮しつつ、宮廷文化の再興に力を注ぎ、寛永文化の中心人物として活動した。後水野尾院は率先して和歌を中心とする古典文化の研究を進め、宮廷周辺では古典復興の気運が高まった。ここに示す源氏物語の五十四帖それぞれの一場面は約17センチ四方の小画面に描き、それに呼応した詞書の色紙とともに画帳にまとめたもの。色彩は淡く、透明感があり、優美、精緻な筆で丹念に描き混まれている。各人物の可憐な表情や樹幹の形態、葉の表現など、如慶の源氏絵の典型作例に位置付けられる。「土佐広通」の印からは、制作年代が寛文三年(1863)の住吉派の再興以前であることが分かり、詞書の園基幅の筆跡などと合せて、承応(1652~55)のころの制作と推測される。本作の色彩などから、狩野探幽をじはじめとする江戸狩野派様式と親近感が指摘される。また描かれる殿舎や調度にかんしても、古典からの引用によって復古的な様相を描く場面もあるが、几帳や襖障子の意匠は繊細で装飾的となり、屏風などの画中画も淡彩となるものが多く、寛永期の「きれい」の趣向が混入しているとする見解がある。

小袖屏風 小袖 二曲一双  江戸時代(17世紀) 国立歴史民俗博物館

鬱金色(うこんいろ)の絖地(ぬめじ)大柄な菊花型と帯状の文様を藍で塗り染め分け、菊花型には複数の菊唐草、帯状にはさらに目の細かい鹿子絞を配置している。鬱金の地には単弁の菊花と鹿子絞を配置している。空間をゆったりととり、一つの大柄な文様を中心に据えるところは典型的な寛永小袖の特色である。この小袖については野村正次郎の著した「時代小袖雛型風」目録によると、「後水野尾天皇第三皇女昭子内親王ご着用」と記した在銘の裏裂が存在することが示されており、近衛尚嗣へ嫁いだ後水野尾院と東福文院の次女・昭子内親王所用とみられている。

冠形大耳付水指 修学院焼 江戸時代(17世紀)    滴翆美術館

万治二年(1659)ごろ落成したとみられる後水野尾院の別荘、修学院離宮には寛文年間に窯が築かれた。ここで焼かれた焼物を修学院焼と呼ぶ。この修学院はたびたび皇族や公家に下賜されたことが記録に残っている。「冠型大耳付水指」は、修学院焼を代表する作品として知られるもので、円筒の袴をつけた形が逆さにした公家の冠に似ていることから、このように呼ばれている。左右均整のとれた瀟洒な趣の中に、独特の作為を見せる大きな耳の曲線が美しい。修学院離宮は、公開されているが、1日10人程度と限定されており、中々籤が当たらないことで有名である。私は昭和46年秋に、妻と申し込んで2名とも当選し、修学院全体を見学する幸運に恵まれた。深秋の修学院の山の印象は、忘れることの出来ない美しさであった。一生に一度の幸運であった。

小井戸茶碗  銘 六地蔵  朝鮮   朝鮮時代    泉屋博古館

小堀遠州(1579~1647)は寛永文化を代表する茶人であるとともに、伏見奉行を長く勤め、多くの建築造作も指揮した江戸幕府の有能な官僚であった。そうした演習は、幕府によってもたらされた大平の世にふさわしい、武家の教養としての「大名茶」を目指すべく、さまざまな新機軸を打ち出した。小堀遠州が愛玩した小井戸茶碗の代表作として知られているもので、遠州が京都の六地蔵で入手したことからこの名がついたという。遠州の茶会に井戸茶碗が見られるようになるのは寛永20年(1643)以降のことである。侘茶(わびちゃ)を代表する茶碗が晩年になって登場することには注目される。

共筒茶杓  銘 玉川  小堀遠州作  江戸時代(17世紀) 五島美術館

平安後期の歌人、源利頼の和歌「明日もこむのちの玉川萩こえて色なりなみに月やどりけり」(千載和歌集)より銘を付けた遠州作の茶杓である。遠州は典拠となったこの和歌を筒に定家様式で記し、栓と口にかけて「玉川」の二字を大きく書いている。和歌の連想による見立てや和歌を記す書、そして素材となる竹の選別など、いずれも細心の注意が向けられており、遠州の美意識が凝縮された名品と言えよう。

錆絵富士文茶碗  野々村仁清作  江戸時代(17世紀)  出光美術館

色絵の技法を大成し、京都随一の名工として名高い野々村仁清(生没年不詳)は、正保四年(1647)頃御室仁和寺の門前に窯を開き、御室窯の活動を開始した。そして、この開窯にあたって指導的な位置にあったのが、遠州と同じく寛永期に活躍した茶人・金森宗和(1584~1658)である。宗和は武家や町人、さらには公家とも交流を持ち、彼らに自身のプロデュースした御室焼を斡旋していた。その「宗和好み」が、意外なことに落ち着いた色調と独創的かつ洗練された造形を持つ作品群に行きつく。それらはまさに「きれい雅」のような寛永の美意識を継承・発展させたものと言っていいであろう。本作のような蒔絵白釉茶碗の一群は、金森宗和の指導のもとに作られた御室焼の比較的初期から作られていたものとなっている。それの銹絵白釉茶碗の一群は、金森宗和の指導のもとに作られた御室焼の比較的初期から作られていたものとなっている。それらの銹絵白釉茶椀の描写は、絵画としても風格を備えるものが多く、本作に描かれる富士山図も、三峰形であることや、外隈で描きだされた山容や余白の重視などの点が、当時流行していた狩野探幽の富士図との共通性が指摘される。大変優れた作行きを示すものである。

色絵花輪違文茶碗  野々村仁清作  江戸時代(17世紀) サントリー美術館

全体を碗形に轆轤引きし、腰下に面を取って姿を引き締めている。長石の多い独特の白釉を地軸とし、内外に黒釉を塗る。口縁の外側に銀彩の帯を巡らせ、同部の中幅に赤・青・緑の八個の花輪違文を描き、胴下部には八個の花入り連弁文を並べる。この花違文と連弁文は白釉地に色絵で表さされている。そしてすべても文様において、色と色が接触しないように輪郭を丁寧に縁取っている。本作は宗和好みを継承しつつ、さらに華やかさがくわえられていったものではないかと考えられる。

白釉円孔透鉢  野々村仁清  江戸時代(17世紀) MIHO MUSEUM

白濁釉が薄く掛けられた白一色の器形の側面全体に大小の円孔が無数に開けられた鉢。この穴は専用の工具で開けられたらしく所々に工具を押し付けてみたものの、貫通させなかった跡が残っている。この口縁の処理の違いでバリエーションがあり、真円、木瓜形の作例が確認されている。仁清は実に瀟洒で洗練された姿に再生させている。仁清は明らかに高取焼を意識した造形を追い求めていたことが、本作はその成果が結実したものである。シンプルかつシャープな造形で現代の工芸作品にも引けを取らない斬新さを見せるこの鉢は、色絵と違った面での仁清の真骨頂に位置付けられる作品である。

桐鳳凰図屏風 狩野探幽作 六曲一双 江戸時代(17世紀)

狩野探幽(1602~74)は、狩野派の絵師である狩野孝信の長男として京都に生まれた。幼くしてその画力を徳川家康・秀忠に認められ、本拠地を江戸へ移して幕府の御用絵師として活躍した。徳川政権による新たな時代にふさわしい美を探究したその生涯は、まさに寛永文化の展開に重なるものである。今日、探幽が巨匠とされる理由の一つは、豪壮な桃山時代にかわって、大きな余白と淡彩を主体とする独自の様式を確立し、狩野派の画風を一遍させたことにある。その優美で平明な画趣は、探幽と交流のあった小堀遠州の「きれい寂び」に通じるものがあったと言えるであろう。すなわち、探幽の新様式は、武家や公家と言った枠組みを超えて共有されていた、最先端の「時代の美」であった。本作は数少ない探幽の金地濃彩屏風で、六曲一双の大画面にそれぞれ見つめ合うつがいの鳳凰二組と桐樹、草、流水などを描く。これらのモチーフを水平方向に分散して配置し、緑・紫・赤・茶などの絵具を使って彩色されるが、濃彩は全体にわたるものではなく、淡い色味が多く用いられている。金地、金運で埋められ、金砂子で飾られた余白の中、緩やかに水流が蛇行し、鳳凰がゆったりと舞う。聖人が世を治める時に現れるという鳳凰にふさわしく、落ち着いた晴れやかな画面となっている。この特徴は「本朝画史」に「一変狩野氏」と評価された探幽の新しい構成原理が端的に現れたものであり、完成された探幽様式を示している。

重用美術品 歌仙源氏類人形図鑑 狩野探幽作 一巻 江戸時代(17世紀)京都国立博物館

本作は「時代不同歌合」「源氏物語」「紫式部日記」「枕草紙絵詞」を写した縮図が納められた一巻である。時代不同合は百人の絵歌仙とその上方に各歌仙三首づつの和歌を納めた長大な縮図で、上下二段に貼り付けて歌仙絵は墨画を本体とし、所々に朱や淡彩を加えている。寛文2年(1662)10月9日に制作した縮図で、「中程の土佐筆」と鑑定されている。枕草紙絵詞は旧浅野家の歌本を模写した縮図で、寛文12年(1672)正月11日に制作された。この枕草紙絵詞はほかの縮図とことなり、一段に張付けされている。

 

宗達も屏風も専好の和歌書巻も桂離宮も修学院も、仁清も狩野探幽も、きれいで美しいという美意識の中にあったと言えるであろう。きれいという意識は、桃山の豪放、慶長のかぶきとも異なり、また元禄の展合やさびとも異なる寛永の独自の美の領域を示すものである。慶長20年(元和元年(1615)をもって古田織部に象徴されるかぶきの時代は終わった。このあたりから寛永文化が姿を明確にしてきたといえよう。華やかな寛永期を過ぎて、万治3年(1660)ごろ修学院離宮が完成を見た。その間もなく桂離宮も現在の姿となった。そして延宝8年(1680)に後水野尾院は没した。ほぼその頃には、次に来る元禄文化の足音が時代の相の中に混じってきたのである。

 

(本稿は、図録「寛永の美 江戸宮廷文化と遠州・仁清・探幽  2018年」、図録「生誕400年記念 小堀遠州展  1978年」、陶器講座「仁清」、陶磁体系「第23巻 仁清」を参照した)