小田野直武と秋田蘭画(2)

小田野直武を中心として、西洋美術と東洋美術が結びつた秋田蘭画が生み出され、佐竹曙山(しよくざん)、佐竹義躬(よしみ)、田代忠国など秋田藩士を中心にその画法が波及したと思われる。直武の江戸滞在中、曙山は参勤交代で2度、義躬は1度江戸を訪れている。義躬が帰国する際、直武は病の身ながら面会に行き、深夜まで話をした上、オランダ文物を贈ったことが「佐竹北家日記」に記されている。江戸に出てから4年後の安永6年(1777)12月に、直武は角館に帰国して、佐竹北家に出仕した。佐竹義躬とは、しばしば面会し、その機会に蘭画法を伝授したものと思われる。安永7年(1778)、直武は、佐竹北家の上役から江戸の仕事振りを詰問されたという。また「銅山方産物吟味役」も役名は消え、直武の江戸行は、暇ごいで唐絵の修行に行ったとされ、久保田(秋田市)へ引越しを命ぜられた。そして9月には「御側御小姓並」という身分で秋田藩に召し抱えられ、佐竹北家から抜け、藩主佐竹曙山の側近くに仕えることになったのである。欄画を描く直武を絵の相手として近くに置きという曙山の強い意志が働き、家臣の反対を押し切って直武の移動が決まったようである。そしてこの年の10月に直武は曙山の参勤交代に伴って、再び江戸へ向かった。佐竹北組から藩主の側仕えと異例の出世であったが、直武の生涯は終わりを迎えようとしていた。安永8年(1779)11月21日、秋田蘭画の理論的指導者であった平賀間源内が人を殺めた咎で捕まり、12月18日に獄中で死んでしまった。所謂「源内事件」である。直武は源内が入牢する以前の11月上旬頃、秋田藩から突然に遠慮(謹慎)を命じられていた。遠慮の理由については明らかではない。12月に角館に帰郷した直武は、翌年の安永9年(1780)5月17日に没した。死因について語る資料はない。数え年32歳のことであった。直武の死後、曙山はあまり絵筆をとらなかったようで、天明5年(1785)に江戸藩邸で生涯を閉じた。源内・直武・曙山という秋田蘭画誕生に関わった人物が相次いで世を去り、その後佐竹義躬や田代忠国らも亡くなり、秋田蘭画が画派として存続することはなかった。(サントリー美術館2017年1月9日まで)

要文化財 唐太宗・花鳥山水図 小野田直武作 絹本着色三幅江戸時代(18世紀)秋田県立近代美術館

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本図は中幅に人物を置き、左右にそれに対比する供花をそえる東洋的洋画の形式にもとづいている。しかし、中幅の唐太宗に陰影を加え、しかも西洋画的な室内空間の表現もこころみていることは注目される。左右両幅の花鳥山水は、秋田蘭画としてもっとも普通のかたちのものである。秋田蘭画が江戸時代後期の洋風画の先駆であるとともに、戦国時代以来の武人画の伝統にもとずいていることを、本図はもっともよく示している。

富嶽図小野田直武作 絹本着色 一福 江戸時代(18世紀)秋田県立近代美術館

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前景に人物や川、橋、松などを配し、画面の左から叢林が次第に淡くなりながらリズミカルに反復され、富士山へと収斂してゆく。俯瞰図が多い伝統的な富士図に対し、本作では絵を見る者の視点が低く設定され、三次元空間が再現されている。本作は黄瀬川(静岡県)から富士を見た図という説が有力である。三峰型の富士ではなく、実際の山容に近く、富士の形を損ねるために省略されがちな宝永山も描いており、実際に目にした光景に基づいていることを感じさせる。高い完成度の作品で、直武の真価が発揮された作品である。なお、本作は秋田県指定文化財になっている。私は、宋紫石の「富嶽図」の影響が大きいと思う。

日本風景図 小野田直武作 絹本着色 二幅 江戸時代(18世紀)三重・照現寺

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縦長の画面に奥行きのある風景が描かれている。実際の場所がモチーフと考えられている。右幅が江の島、左幅が金沢八景(横浜市)とされる。絵の島図は、切り立った断崖が手前に極端に大きく描かれる。奥に向かうにつれて崖の色彩は3段階ほど淡くなり、画面下の水平線に向かって遠近感のある構図となっている。驚くべき細部の緻密さがあらわされている。笠をかぶる男や杖をつき水面を除き込む人物などが細やかに活写されている。一方の金沢八景は、前景に波打ち際の値上がりの松を表し、画面中央やや上には5羽の鳥が描かれている。その姿は雁だと思われる・実際の場所をモチーフとした晩年の制作と考えられる。三重の照源寺は松平定信の菩提寺である。定信は曙山の息子佐竹義和と親交が深く、佐竹家との交流を通して本図は、松平家に渡ったと考えられる。本作は桑名市指定文化財となっている。

燕子花にナイフ図 佐竹曙山作 絹本着色 一福 江戸時代(18世紀)秋田市立千秋美術館

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作者の佐竹曙山(1748~85)は、秋田藩の第八代の藩主であり、直武に蘭画を習ったとされる。秋田蘭画の作家たちは燕小花(かきつばた)を好んで描いているが、本図はそのうちの代表作である。基本的には在来の漢画の花卉図にもとづいているが、花や葉をオランダ銅版画から学んだ細い線によって精密に写し、花器の中の水も青く描いていることに、西洋的な写実の精神がうかがわれる。ことに輸入品の西洋ナイフを配して、従来の伝統的絵画には見られなかった静物画として構成している。本作は秋田県指定文化財である。

重要文化財松に唐鳥図 佐竹曙山作 絹本着色一幅 江戸時代(18世紀)個人蔵

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佐竹曙山と小田野直武は秋田蘭画の代表的作家であるが、ともに短命であった。確実な落款印章を持つ遺作は直武よりはるかに少ない。本図は曙山の代表的大作である。近景に伝統駅な狩野派の大画面装飾画の構図を用いて、巨大な根上がりの松が拡大描写されているが、絵には陰影は施され、西洋画的な立体表現がこころみられている。この日本の松にとまっている赤い異国の鳥、インコは曙山の写生帳にまったく同じものがみえるが、たまたま輸入されたものを写生したか、あるいはオランダの動植物の挿絵を写したのであろう。インコのとまっている枝は屈曲して極端に遠方にのびているが、奥行きが十分にあらわされていない。

松に椿に文鳥図 佐竹曙山作 絹本着色 一福 江戸時代(18世紀) 個人蔵

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この絵は、画面右下から左上にむかって松の太い幹が大胆に配されている。背後には薄紅色の花を咲かせる椿が描かれ、文鳥が2羽とまっている。松・文鳥・椿のいずれも曙山が好んで用いたモチーフで、画面を横切る松の構図も得意としたものである。

岩に牡丹図 佐竹義躬作 絹本着色 一福 江戸時代(18世紀)個人像

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佐竹義躬(よしみ)(1749~1800)は、秋田角館の城主であり、直武から蘭画法を江戸滞在時に習ったとされる。秋田蘭画を担う一人であった。岩と牡丹の取り合わせは南蘋派の作品や秋田蘭画によく見られるもので、直武や曙山も類似の作品を残している。幹や葉は丁寧に陰影が描かれ、立体感が現れている。描写の技法や表現には直武の牡丹図との類似が認められ、直武に教授受けながら描いた作品と思われる。

松にこぶし図 佐竹義躬作 絹本着色 一福 江戸時代(18世紀)帰空庵

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佐竹義躬は、秋田蘭画の作家のなかでは比較的長命で、遺作もかなり多い。秋田蘭画には前景に花木などを拡大して描き、それに湖沼などの遠景を配した構図がはなはだ多い。義躬の作品は写生図をのぞくほとんどこの方式によっており、いささか変化に乏しい傾向がある。しかし、本図は彼の社会的地位の高さに基ずく品格が、画面ににじみ出た佳作である。

紅毛童子図 田代忠国作絹本着色一福 江戸時代(18世紀)秋田県立近代美術館

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田代忠国(1757~1830)は秋田藩の俳人森田顕忠の子として生まれたが、秋田藩士田代綱記の養子となり、産物方として曙山、義和の2代に仕えた。忠国の名を曙山より賜ったとされる。安永2年(1773)に直武と共に、源内から洋画法を直接伝授されたと伝えられるが、詳細は分からない。洋画から受ける印象をそのまま取り入れたような、濃彩によるあくの強い表現が作風の特徴と言える。大きな角柱の前にたたずむ西洋人物を前景に大きく描いた作品で、忠国特有の濃厚な色彩とあくの強い人物表現である。人物が左手に持つ朱塗りで金彩のほどこされた杖は、ギリシャ神ヘルメスの持物であるケーリュケイオンのようである。曙山の写生帳や直武の遺品に神話図が納められているように、ギリシャ神話の図像はすでに江戸時代にも伝わっていた。

七里ガ浜 司馬江漢作 絹本着色 一福 江戸時代(18~19世紀)大和文華館

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司馬江漢(1738~1818)は、直武が江戸にいた時に、直武に学んだ絵師であり、洋風画家として活躍した。土方定一「日本の近代美術」の中では、司馬江漢を日本美術における洋画の創始者のように扱っている。源内周辺の絵師や蘭学者と交流した司馬江漢は、堂版画と油彩画という新たなジャンルを切り開いた。例えば、神奈川近代美術館の蔵品のうち、近代洋画は司馬江漢が圧倒的に多い。司馬江漢を日本における洋画の先駆者と位置付けてもよいであろう。おそらく江漢は、富士山を眺望する場所として七里ガ浜に特別な想いを寄せていたのであろう。この七里ガ浜図は富士眺望図としての性格を有しているが、本図では富士山が江の島の左側に描かれているが、これは実景とは異なる配置であり、遠近感を強調するためにあえて行ったものと思われる。

 

昭和5年(1930)に、日本画家・平福百穂が「日本洋画の曙光」という本を出版し、秋田蘭画を世に喧伝した。その「日本洋画の曙光」は、現在岩波文庫に納められ、誰でも読める。その巻末の言葉を紹介したい。「近世洋画の鼻祖と言えば、常に司馬江漢の名が挙げられているが、直武、曙山公等が早くも安政期に於いて、かかる業績を遺して居りながら、全く世に埋もれて居る事を遺憾とし、不敏も顧みずこれが闡明(せんめい)を期して此刊行を志した。一つには又郷国を同じうする故人に対して、私の為すべき務めとの考えたのである。只文中誤聞、憶測の多々あるを怖れているが、これ等に関しては大方諸賢の御示教を仰ぎ度いと思う。尚本書の書名に就いては、「江戸洋画」とするは当たらず、また「秋田洋画」となすのも妥当を欠き、かれこれ迷って居たが、偶々(たまたま)黒板勝美博士(当時・東大教授)の御教示に依って「日本洋画の曙光」と命名する事にした。(現代仮名使いに変更)

壮(わか)くして逝きし人の阿蘭陀絵は世に稀なりやくりかえし見つ 平福百穂

 

(本稿は、図録「小野田直武と秋田蘭画 2016年」、図録「栄光のオランダ絵画と日本」、安村敏信「江戸絵画の非常識」、平福百穂「日本洋画の曙光」、原色日本の美術第25巻「南蛮美術と洋風画」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)