小田野直武と秋田蘭画(1)

小田野直武は寛永2年(1749)12月に秋田藩角館城代の槍術指南役であった小田野直賢の第四子として生まれた。字は私有、通称武助と呼ばれていた。角館は秋田藩を治める佐竹一門の佐竹北家が統治し、直武は「角館給人・佐竹北家組下」という身分だった。角館給人とは秋田藩から禄を受ける角館在住の武士のことである。直武は若い頃から画才を示し、秋田藩のお抱え絵師・竹田円碩に狩野派を学んだ。安永2年(1722)産出量が減少していた阿仁銅山の開発のため、平賀源内と石見国の山師・吉田利兵衛を招聘した。当時、長崎におけるオランダとの貿易では銅が用いられており、その半分あまりを秋田藩が担っていたという。江戸時代は、長崎・対馬・松前・薩摩を通じて中国やオランダをはじめとする世界各国と交流を行っていたのである。秋田蘭画誕生を促す源内の秋田来訪は、このようなグローバルな動静と無縁ではなかった。角館滞在中に源内が直武に西洋絵画を教授したと画家平福百穂は述べている。確かなことは、源内が江戸に戻るため久保田(現秋田市)を発った翌日の10月30日に、直武が秋田藩から江戸行きを命じられ、役名は「元内手、産物他所取次役」で、期限は3年であった。角館に戻った直武は、佐竹義躬(よしみ)に江戸詰めの挨拶をし、12月1日に江戸へと向かった。数え年25歳の時である。江戸での直武は、源内のもとで活躍していたと考えられる。工房のような雰囲気を持っていた源内の家には、貴重な洋書類があり、蘭学者も周囲にいた。また源内の知人には江戸に南蘋派(なんぴんは)を広めた宋紫石(そうしせき)がおり、宋紫石からも大きな影響を受けたとされる。

解体新書 杉田玄白ら訳小野田直武画五冊安永3年(1774)早稲田大学図書館

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日本で初めて刊行された本格的な西洋医学書の翻訳として名高い「解体新書」である。その図を担当したのが小田野直武であり、江戸でのデビュー作となった。江戸に出たばかりの直武が、早くも歴史に残る大事業の一翼を担うことになったのは、この安永3年(1774)8月に刊行された杉田玄白らによる日本初の西洋医学書の本格的な翻訳である「解体新書」だったのである。何故、玄白らは江戸に出て間もない青年武士を抜擢したのか。源内が友人の玄白に直武を紹介したといわれるが、近年、秋田藩医稲見家に伝わるワルエルダの解剖書が注目されたのではないかという意見が出ている。むしろ、直武の江戸行きと解体新書の制作に関連が有ったかも知れない。

ファン・ロイエン筆花鳥図模写 石川大浪・孟高作 寛政8年(1796)秋田県立近代美術館

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享和7年(1722)、第8代将軍・徳川吉宗はオランダ商館に5点の油彩画を発注し、享和11年(1726)に日本へもたらされた。5点のうち2点は江戸本所の五百羅漢寺に下賜された。この絵は、その2点のうちの1点を写した作品で、原画は堂内に懸けられていたが、風雨にさらされ、やがて失われしまったと推測される。本図には大槻玄沢による賛が付されている。原画がファン・ロイエンなる画家によって1725年に描かれたことが判明する。寛政8年(1796)、石川大浪、孟高兄弟が五百羅漢寺に通い、模写を行った。2人は日本の伝統的な画材を用いながら、西洋画の立体感を再現しようと試みている。原画の制作者であるファン・ロイエンについては諸説があり、明らかではない。

富嶽図 宋紫石作 一幅  安永5年(1776) 大和文華館

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宋紫石は江戸に南蘋(なんぴん)風花鳥画を広めた絵師で、本名は楠本幸八郎という。平賀元内と交流があり、江戸に出た直武も宋紫石から南蘋派(なんぴんは)を学んだようである。後に洋風画家として活躍する司馬江漢もはじめ宋紫石に習っている。雪を冠した富士を横長の画面いっぱいに配した作品である。たなびく雲が富士の周りを取り囲み、山の立体感を強調する。画中の款記によれば、安永5年(1776)、当時62歳だった紫石が伊豆国田子浦からの眺望を描いたことが判明する。本図の富士の描写には、直武の富士図に通じる要素がある。南蘋派の影響を受けて言われる由縁である。

写生帳 小田野直武作 紙本着色 一帖江戸時代(18世紀)秋田県立近代美術館

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小田野直武筆とされる写生帳は、3帖知られている。この写生帳は、秋田県文化財であり(秋田近美本)、日本画家の平福百穂によって大正年間にひとつの帖にまとめられたものである。この部分は蓮の花の咲く前の蕾である。上野・不忍池(しのばずいけ)は蓮の名所として知られ、おそらく直武も何度も池を訪れて蓮の花が咲く光景を目にしたのであろう。江戸時代の写生帳は、丸山応挙が良く知られているが、一種のデッサンであろう。

笹に白兎図小田野直武作 絹本着色一福江戸時代(18世紀)秋田県立千秋美術館

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宋元体画以来の東洋の花卉図の伝統にもとずいた作品である。しかし、兎は陰影をつけて立体的に写され、地面の線や兎の影も加えるなど、西洋的な表現も認められる。一般に秋田蘭画は時代の限界をよく意識して、無理な飛躍は試みず、東洋画の基礎の上に節度をもって西洋画法を加味しているが、これはそのような長所のもっともよく出た愛すべき作品である。

鷹図 小野田直武作 絹本着色 一福 壊疽時代(18世紀) 個人蔵

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海辺の巨木の枝に1羽の鷹がとまっている図である。画面下部には大きな岩が配され、左上方から切り立った崖が奥へと導き、広々とした空が著されている。波はしぶきを上げ、紅葉した木の葉が強風に揺れている。鷹という画題は、狩野派にしばしば取り上げられ、初期の直武の作品にも見出すことができる。権威の象徴として武家に好まれたモチーフで、威厳のある鷹の姿を描いた本図も直武周辺の武家の間で受容されたものと思われる。本図の細部には、木の枝に鷹の糞がついていることにきづき、やや意表を突かれる感じがする。「不忍池図」のアリにも共通する見る者に驚きを与える表現は、狂歌や俳諧といった文芸との関わりも指摘される。直武や曙山(しょくざん)らの近くには、当時を代表する狂歌師で秋田藩江戸留守居役の手柄岡持がいたのである。

芍薬花籠図 小野田直武作絹本着色一幅江戸時代(18世紀)秋田県立近代美術館

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秋田蘭画においては、前景の花卉や樹木などをまるで部分拡大写真のように近接描写しているため、その一部が本図のように画面外にされていることが甚だ多い。秋田蘭画の作家たちはすべて高級武士、ないしはその周囲に仕える人々であったから、書院装飾絵画は常に生活の周囲にあったし、彼らの基礎とした狩野派の画技である。そこで、このような構図法は近世障壁画の部分拡大描写にもとずき、それに西洋画的な奥行きの表現を加えるために着想されたものと考えられる。竹籠もオランダ銅版画から学んだ細線で精密に写している。また、花や蝶や虫を配することも、東洋画では古くからおこなわれたが、本図の場合にはオランダ静物画の影響も認められる。

重要文化財 不忍池図 小田野直武作 絹本着色 一面 江戸時代(18世紀)秋田県立近代美術館

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この大画面作品はかって掛幅であったが、いまは額装となっている。これが山形県で発見されたとき、落款があるにもかかわらず、その時の所蔵者は、司馬江漢(しばこうかん)の作品と思っていたという逸話が残っている。秋田蘭画が忘れた存在であったことを物語っている。近景に花卉を拡大描写し、それにオランダ銅版画の影響を受けた遠景を配するという、もっとも秋田蘭画らしい構図を用いている。しかし、近景の芍薬の花は鉢植となって地面に置かれていて、遠景は江戸名所の写生であるなど、現実感を強める努力が見られる。この絵は短い直武の生涯のうち、比較的晩年の円熟期に描かれたと思われる。そして最晩年の直武は東洋的な花鳥画を洋風化する段階をしだいに脱して、この絵の背景に見られるような特定の場所を写す風景画に進んでいったと考えられる。なお、図版では見えないが、芍薬の蕾に二匹の蟻がたかっている。小虫が花や果物にたかる絵は中国の宋元画にあるが、これはそのような漢画の伝統を物語るとともに、直武の科学的な観察力を示している。

 

小野田直武の名前は高校2年生の時に日本史で教わった。それは杉田玄白らによる日本初の西洋医学書の本格的な翻訳「解体新書」の図を担当したからである。しかし、秋田蘭画という言葉に接したのは、昭和41年(1966)の土方定一先生の「日本の近代美術」の中の「近代美術の黎明期」の項に秋田洋風画として、小野田直武、佐竹曙山の名前が名記されて知った。同じく昭和41年(1966)に「栄光のオランダ絵画と日本」という展覧会(たばこと塩の博物館)を見学して、レンプラントやゴッホの絵画を見て、更にオランダ洋画を日本に導入したのは司馬江漢であること等を確認した記憶がある。昨年、府中市美術館で見学した「ファンタスチック 江戸絵画の夢と空想」には、全く小野田直武とか秋田蘭画の名前は出て来なかった。多分、秋田の一洋画として軽視されたのであろうと思っていたが、今回の「小野田直武と秋田蘭画」を見て、180度見方が変わった。秋田蘭画こそ、日本における近代洋画の黎明期であったと考えるべきでは無いかと思っている。もし、これ言い過ぎならば、秋田蘭画とは西洋画法と共に南蘋派(なんぴんは)に代表される東洋絵画の精神を引き継いだ画法を始めた画派であると、言い換えても良い.

 

(本稿は、図録「小野田直武と秋田蘭画  2016年」、図録「栄光のオランダ絵画と日本」、安村敏信「江戸絵画の非常識」、平福百穂「日本洋画の曙光」、現色日本の美術「第25巻南蛮美術と洋風画」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)