山種美術館  生誕150年記念・横山大観ー東京画壇の精鋭

近代日本画の第一人者と言われる、横山大観(1868~1958)の生誕150年と没後60年にあたる本年、山種美縦館の大観作品を一挙公開した。美術館の立地が良いせいか、思いがけない満員状態(2月12日の休日)驚いた。流石に大観人気であると思った・横山大観は常陸国(ひたちのくにー茨城県)に生まれ、1899年に東京美術学校に第1期生として入学し、下村観山、菱田春草とともに、岡倉天心の薫陶のもと、橋本雅邦らの指導を受けた。明治31年(1898)には天心に従って東京美術学校を離れ、日本美術院の創設に参加した。茨城県五浦(いづら)での研鑽時代を経て、天心没後の大正3年(1914)には日本美術院を再興した。天心の遺志を継いで、生涯にわたり新たな日本画の創造につとめ、国民的画家としての評価を確立した。大観は、山種美術館の創立者・山崎種二に最も親しく交流した画家の一人であった。今回は、山種美術館が蒐集した大観コレクション全40点を展示し、更に再興院で活躍した安田靫彦、前田青邨、東京美術学校で学び日展で活躍した山口逢春、東山魁夷など、大観と交流を持った画家たちの作品も併せて展覧した。

楚水の巻(一部・朝) 横山大観作    明治43年(1910)

横山大観が「楚水の巻」「燕山の巻」の水墨画を制作した事情をコレクターであった小津與衛門に宛てた書簡が残っており、これによりうかがい知ることができる。その書簡の大意は次の通りである。「今夏の中国旅行の紀念としてかねてより描いた燕山、楚水の二巻が出来上がりました。二巻のうち楚水の巻は揚子江付近の風景を理想化して描きました。特別な景色ではありませんが、この地方の北方に較べて、概ね湿潤で気候の変化も多いので、全巻を1日のうち、朝、昼、雨、夕の四場面に別けました。(中略)楚水の巻を先に描き、燕山を後に描いたのは、ただ旅行の順序に従ったからです。当画巻の材料は、紙は唐紙、墨は驪龍珠、筆は湖北湖南の羊毫よりできたものなどを使用しました。使ったものは全て中国に関係のある物であります。先ずは長巻が出来ましたので、上に書いたような次第を申し添えたくてしたためました」

燕山の巻(一部・天壇・北京城壁等) 横山大観作  明治43年(1910)

先の手紙の「燕山の巻」に関する部分を引用する。「燕山の巻は南に較べて乾燥しているため、一日の大気の変化を試してみませんでした。また、一日の様子を描くと表現が重複するため、それはこのまなかったので避けました。ただ、燕山の巻には、初めて天壇、北京上壁、景山宮、崇文門を示しました。」(最後略)

作衛門の家 紙本裏箔・彩色・1双 横山大観作  大正5年(1916)頃

右隻に家畜の牧草を刈って家路につく農夫、左隻には木々に囲まれた彼の家が描かれる。馬小屋では馬が主人の足音を聞きつけ、耳をピンと立てて待っているさまが描かれている。画面を覆うように植物が描かれて、その緑青の濃淡によって草深い山村の素朴な情景を際立たせている。明治後期、大観は輪郭線を用いない没線描写による作品を次々に発表し、朦朧体(もうろうたい)と酷評されたながらも日本画の近代化を推進していったが、大正期には伝統への回帰を見せ始める。本作品では、裏箔(絹地の裏から金箔を貼り付ける技法)を用いた木立の奥の仄明るさを表現することに成功している。樹木や笹の葉の自在なタッチに南画の雰囲気をたたえ、鮮やかな緑色にやまと絵風の華やかさが見られる。

喜撰山(きせんやま) 紙本・彩色・軸 横山大観作 大正8年(1919)

第6回再興院展に出品された二曲一双屏風風の「喜撰山」の試作と考えられる作品で、喜撰法師(きせんほうし)の歌「わが庵(いお)は、都のたつみ しかぞすむ よを うじ山と ひとはいふなり」で知られる宇治の喜撰山を描く。金箋紙(きんせんしー裏に金箔を押した鳥の子紙の表面を薄く剥いだもの)を用いた最初期の作品と見られる。地肌にひそんんだ金色を活かした独特の深みのある赤色は、画家が意識的に山肌の赤さを表現するために使用したことがうかがえる。この金箋紙の試みは、常に日本画の革新を目指した大観のあくなき探究の現れといえよう。

叭呵鳥(はっかちょう) 紙本・彩色・軸 横山大観作  昭和2年(1927)

この作品に描かれている破呵鳥とは中国産のムクドリ科の鳥のことである。叭々鳥(ははちょう)・八哥鳥(はっかちょう)とも書き、その名の由来は、飛翔するときに翼の白い斑点が、「八」の字に見える、八つの声で啼くなど、諸説がある。全身が黒く、嘴(くちばし)の元に冠羽(かんむりばね)があるのが特徴である。中国の瑞鳥として親しまれ、花鳥画の主題になっている。日本でも中世以来流派を問わず、花鳥画、あるいは吉祥の画題として描き継がれている。この作品では鋭い眼つきの叭呵鳥(はっかちょう)がイヌビワの木にうずくまる姿を描き、水墨と淡彩によって抑制の効いた画面に仕上げている。

富士山   絹本・彩色  横山大観作   昭和8年(1933)頃     霊峰富士  絹本・彩色  横山大観作   昭和12年(1937)     不二霊宝 紙本金地・彩色 横山大観作   昭和24年(1949)

横山大観は生涯に2000点余りの富士山を描いたと言われている。山種美術館も多数所蔵している。横山大観は富士山について、次のように書いている。(大観画壇等)「私は富士山をよく描く。今も時折描いています。恐らく、今後も描くことになるか、それは私にもわかりません。一生のうち富士山の画を何枚描くことになるか、それは私にもわかりません。自分から進んでいつも富士山ばかり描くというのではありません。富士山、富士山といつでも沢山持ち込んで来られるからです。こんなわけで、今までに沢山の富士山を描いていますが、まだ富士山に登ったことは一度もありません。それにしても富士山が好きです。あの山容がとても好きです・(中略)また富士山を眺める場所によっても異います。吉田口、御殿場、山中湖口から見た富士、みな各々特徴があって、どれをこうということは言えません。(後略)

心神(しんしん) 絹本・墨画淡彩  横山大観作   昭和27年(1952)

「心神」の名に相応しく、どっしりとした神々しい富士である。大観は富士について「古い本に富士を”心神”とよんでいる。心神とは魂のことであるが、私の不二観といったものも、つまりはこの言葉に言いつくされてている。」と述べている。(「私の富士観」)この作品は、山種美術館を設立する際に大観から「美術館を作るなら」という条件で購入を許されたものであるそうだ。

年暮る(としくるる) 紙本・彩色・額 東山魁夷作  昭和43年(1968)

沢山の大観を囲む画家の中で、私の好きな東山魁夷氏の作品を選んで最後の締めくくりにしたい。昭和30年代半ば「京都は今描いていただかないとなくなります。京都のあるうちに描いておいてください」という作家・川端康成氏の言葉が魁夷の心を動かし、「京洛四季」(けいたくしき)連作へと導き、昭和43年(1968)に銀座・松屋で開催された「京洛四季展」で18点の本画と36点の習作、スケッチが発表された。「年暮る」は「東山ブルー」と称される青(群青)が美しく、静寂の中にしんしんと降り積もる雪の音、おごそかに鳴り響く除夜の鐘の音まで聞こえそうな作品である。人物は描かれていないが、手前の民家の灯りが人のいとなみとぬくもりを感じさせる。私の好きな1点である。それにしても「京都は今描いていただかないと なくなります」という川端康成の発現は、「古都」の作家らしい意見であった。最近の京都を歩いて見ると、私が住んだ昭和50年代とは、すっかり変わっており、特に四条通りや烏丸の辺りの変わりようには、只驚くのみである。

 

 

今年は横山大観生誕150年に当り、東京国立近代美術館でも、「横山大観展」が開催される予定である。山種美術館の大観の蒐集作品はかねてより定評があり、幸い見学する機会に恵まれた。実に多くの人々が集まる様を見て、「大観は日本を代表する近代画家」であることをひしひしと感じた。大観等が東京美術学校を負われた岡倉天心と行動を共にした茨城県五浦(いずら)の地を訪ねたことがあり、彼らの日本画を近代化する努力を詳しく知ったので、「横山大観展」は是非拝観したいと願っていた。山種美術館は噂に違わず、大観の優品を40点も有し、そのすべてを展示してくれた。更に、天心と同時期に活躍した画家の絵画も沢山並んでいた。お勧め出来る美術展である。機会があれば、是非拝観をお勧めする。

 

(本稿は、図録「山種美術館の横山大観  2018年」、図録「山種美術館近代日本画名品100」、原色日本の美術「第26巻 近代の日本画」を参照した)