岩佐又兵衛  故事人物画・物語絵

岩佐又兵衛は、寛永14年(1637)、還暦を迎えた年に、妻子を福井に残し江戸に向かった。必ずしも、希望して江戸へ下った訳ではなさそうであった。「岩佐家譜」によれば、尾張徳川家の光友に輿入れする将軍家の娘・千代姫の婚礼調度の図案作成が又兵衛に命じられたそうである。このような将軍家筋の用命は、普通ならば御用絵師である狩野派が請け負う筈だが、又兵衛の独特の画風が江戸で評価され、各地にその名声が喧伝されていたことがあったであろうし、姻戚者が大奥に身を置いていた関係も考えられる。因みに、この婚礼用具は、名古屋徳川美術館が保有しており、源氏物語に因んだ絵画が蒔絵で描かれたものだそうである。江戸では、寛永15年(1638)に焼失した仙波東照宮の再建拝殿に奉納する「三十六歌仙扁額」を描いている。幕府の御用絵師である狩野派に属さない又兵衛が担当したことは異例であり、狩野派との衝突もあったことであろう。又兵衛の江戸での生活は多忙を極めたようであり、扁額制作の際、再建東照宮の御大工頭を勤めた木原木工允(もくのじょう)から、歌仙の仕事を早くするようにと督促する手紙が残っている。こうした種類の仕事を受注したことが又兵衛の出府の契機となったのであろう。このあと、慶安3年(1650)に世を去るまでの十余念間、江戸の地が又兵衛の活動の拠点となり、将軍家のみならず、諸国の大名たちの画事などを請け負ったと推察される。MOA美術館では「山中常盤物語絵巻」の展示に合せ、故事人物画・物語絵を展示しているので、この場で紹介したい。

重要文化財 柿本人麻呂図・紀貫之図 岩佐又兵衛勝以作 江戸時代(17世紀)柿本人麻呂図    紀貫之図

 

歌仙絵という大和絵の主題を水墨画の技法によって描いたもので、人麻呂像は奔放自在な描線による減筆体(げんぴつたい)風の手法で、貫之像は濃墨と淡墨を巧みに用いた没骨法(もっこつほう)風の筆づかいで対称的に表している。人麻呂は裸足で歩む好々爺に、貫之は優しい表情の親しみのある人物像に描くなど、又兵衛以前の歌仙絵には見受けられない独創的で自由な解釈が示されている。歌賛、落款、画すべて同じ筆で描かれ、印も斜めに捺されていることなどから即興的に制作されたものと考えられる。署名は、人麻呂が「勝以画之」、貫之図が「勝以図印」で、印はともに「碧勝宮図」白文印を捺す。又兵衛画の中では数少ない落款のある作品で、上部の賛と共に又兵衛の筆跡の基準となるものである。制作は、又兵衛の福井時代の早い頃と推定される。なお,MOA美術館では、勝以の落款の無い図は、すべて伝岩佐又兵衛としている。

寂光院(じゃつこういん)図 岩佐又兵衛勝以作  江戸時代(17世紀)

又兵衛は平家物語に題材をとり何点かの作品を残している。この図もその一つで、京都大原の寂光院に隠棲(いんせい)した建礼門院(けんれいもんいん)平徳子(たいらとくこ)が念仏と読経三昧の生活を送るさまを描いたものとされる。元は八曲一双の押絵貼屏風で、旧岡山藩主池田公爵家に伝来した。「樽谷屏風」とも呼ばれるが理由は未詳である。大正8年(1919)、池田家より売立に出され、現在のような掛幅装となった。「道」朱文印と「勝以」朱文二重印を捺す。珍しく「勝以」印を持つ画である。

重要美術品伊勢物語(鹿と貴人図 部分)岩佐又兵衛勝以作江戸時代(17世紀)

本図は、「伊勢物語」の「東下り」の段に含まれる宇津の山路を描いたものと考えられている。又兵衛得意の銀泥と墨を使った霞引きによって、遠くの山路と、木蔭で休む業平一行という近景が、くっきりと隔てられている。刀を持ち振り返る従者の姿形は、舟木本・洛中洛外図屏風の六条三筋町で抱き合う武士と遊女を振り返る人物と同形であることが指摘されており、又兵衛における図様共有を窺い知ることが出来る。印章は、「道」朱文印と「勝以」朱文二重印で、又兵衛の作品であることは確実である。

重要美術品 官女(かんじょ)図 岩佐又兵衛勝以作  江戸時代(17世紀)

無背景に小袿(こうちぎ)をまとう立ち姿の官女が描かれている。本図は又兵衛が数多く描いた歌仙絵のうちの一つとも考えられている。小野小町を主題とするとの説もあるが断定することは難しい。描線は伸びやかで、衣装の文様や彩色も美しく、官女の舞姿のごとき動きのある表現は見事である。衣や朱の袴は強い印象を与え、画面全体を艶やかに感じさせる。画面の形状から、六歌仙あるいは三十六歌仙を描く屏風絵の一扇であったとも考えられる。「道」朱文印と「勝以」朱文二重印を捺す。又兵衛作品であることは間違いない。

重要文化財  自画像  岩佐又兵衛勝以作  江戸時代(17世紀)

賛も署名もない肖像画である。岩佐又兵衛勝以の遺族の家系に伝わった。晩年の自画像と言われるものである。発見当時はかなりボロボロだったようであるが、幸い目鼻立ちはそのままである。無精ひげをはやし、病にやつれた、風采の上がらない容貌で、さいずち頭も不恰好である。藤椅子に腰かけた小柄な老人は、右手に杖を持ち、左手に数珠を下げ、鹿の子絞りの着物の上に黒い羽織をまとっている。左後ろに長刀を立て掛け、右の机に香炉と書物を置く。こうした賛や画家の落款のない肖像画の像主や筆者を、誰かと判定することは難しい。私は、又兵衛の最後の自画像と認めたい。それは勝以自身の添状があるからである。命日にこれを掛けて供養してほしいと、又兵衛は福井に残した妻子に頼んだと思う。福井の岩佐家に伝来した作品であると言われる。「岩佐家譜」は、又兵衛の没後80年余り後の享保16年(1731)につくられたものだが、これには「新タニ前人未ダ図セザルトコロノ体ヲ模写シ、世態風流別ニ一家ヲをナス。世之ヲ称シテ浮世又兵衛トイフ」とある。又兵衛浮世絵元祖説の始まりである。なお、本図には「岩佐家譜」と勝以自筆状が添えられている。

 

岩佐又兵衛勝以の自筆の作品6点(含む自画像)が,MOA美術館で展示された。いずれも岩佐又兵衛の真筆と信じて良いと思う。又兵衛が果たして、浮世絵の元祖と言えるどうかは別途検証したい。何分にも、作品が多く、いろんな所に分散しているため、又兵衛を、素人の私が追うことは、かなり困難であるが、MOA美術館に多数の保管があり、特に絵巻物については、まだ二巻見ていないので、それを見た上で、再度検証したいと思う。なお「舟木本・洛中洛外図」は既に展覧会で見ているので、時期を見て発表したい。又兵衛工房(京都)の作品であることは間違い無い。

 

(本稿は、図録「岩佐又兵衛作品集」、図録「岩佐又兵衛と源氏絵 2017年」、図録「洛中洛外図と障壁画の美  2013年」、辻惟雄「岩佐又兵衛ー浮世絵を作った男の謎」、篠田達明「浮世絵又兵衛行状記」を参照した)