岩佐又兵衛と源氏絵ー古典への挑戦

岩佐又兵衛(1578~1650)の生い立ちは数奇である。父荒木村重(1535~1586)は摂津国伊丹(現兵庫県)の有岡城主であった。父村重は、織田信長の配下に属して信認あつい戦国武将である。しかし、村重は毛利輝元、石山本願寺の連合に組し信長に反旗をひるがえす。又兵衛が生まれた天正6年の10月のことである。11月、信長は自ら有岡城を攻めを決断し、1年がかりでやっとこれを落とした。だが落城の直前、村重は意外なことに、わずか5,6人を連れて、かれの子・村次がたてこもる尼崎城、次いで花隈城に逃げ込んだ。信長は、村重への残酷な見せしめを行う。天正17年(1587)12月、まず郎党の男女500人あまりが尼崎近くで四つの家に閉じ込められて焼き殺された。ついで荒木一族の者三十余人が、京都へ護送され、六条河原で処刑された。又兵衛はわずか2歳(以下数え)で乳母の手で城から救い出され、京都の本願寺のもとにかくまわれたと後世の「岩佐家譜」は伝える。又兵衛がどのように育ったかは不明であるが、姓も荒木から母方の姓と言われる岩佐に改め、自らの絵の才能を世渡りの術として生きようとした。彼は絵画だけでなく和漢の幅広い教養を身に付けていた。さまざまな絵画の技法を身に付け、和漢のあらゆる主題に貪欲に取り組んだ又兵衛の画域は、実に広い範囲に及んでいる。又兵衛は、京都から北の庄(福井)に移り、約20年間にわたる絵筆を振るい、その後活動の拠点を江戸に移している。今年(2017年)は、又兵衛が江戸へ拠点を移してから380年の記念の年に当たる。今回は、出光美術館で、又兵衛の源氏絵を中心に、広く又兵衛の画業を招介する企画である。(出光美術館 2月5日まで)

重要美術品 四季耕作図屏風 岩佐又兵衛作 紙本墨画淡彩 江戸時代(17世紀)出光美術館

山あいに展開されるのは、移ろう四季に応じた農作業の風景である。右隻の「浸種」にはじまり、「耕」や「灌漑」等をへて、左隻に移る。このひと続きの行程は、室町時代に輸入され、南宋の画家・梁楷(りょうかい)の作と信じられてきた「農耕図巻」の内容を踏襲して描かれている。この屏風絵全体を見ると、当時の又兵衛が操ることができる狩野派の技法と図様のすべてを動員することで出来上がっている。又兵衛晩年の作と考えられている。

重要美術品 職人尽図巻 一巻 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代(17世紀)出光美術館

この図巻に収録される場面は、巻頭が童子と戯れる布袋、酒杯を持っている大国、大原女、医師、仏師などさまざまな職人を描いている。背景は殆ど無い。29の場面があるが、それぞれに有機的なつながりがあるわけではない。それぞれに独立した図採集の趣が強い。職人尽の図は広く描かれている。非常に淡白な仕上がりである。この絵の制作は晩年期であると推測される。

重要美術品 在原業平図 一幅 岩佐又兵衛作 紙本淡彩 江戸時代(17世紀)出光美術館

上部に記された「古今和歌集」に収録される在原業平の和歌は「伊勢物語」第八十八段に採用されていることで知られる。左手に弓を握り、緌(おいかけ)と細桜(さいえい)のついた冠に狩衣(かりぎぬ)をまとって立つ業平の図である。本図も歌仙図であるが、いかにも斬新である。この絵は、元和年間(1615~23)から寛永年間(1624~43)のはじめにかけて制作されたと推察されている。福井時代の画業の円熟期を迎えた又兵衛の、秀抜な技量を示す一図である。同時期の作品の中でも秀逸である。

伊勢物語 くたかけ図 一幅 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代(17世紀)出光美術館

伊勢物語第14段「くたかけ」の図と見られる。名残惜しそうに女を振り返る男の様子がやや気になるところであるが、女の風采がいあかにも鄙びた様子で捉えられることも物語本文の内容に忠実な描写と言えよう。辻惟雄氏は第53段「遭ひがたき女」の情景を描いたものと説き、「むかし、おとこ、遭ひがたき女にあひて、物がたりするなどするほどに、鶏の鳴きければ{いかでか鶏の鳴覧人知れず思ふ心はまだ夜深きに}の内容を察知」したとする。かって「樽屋屏風」と呼ばれる押絵貼屏風の大六扇目に貼られていた一図である。池田家を離れ屏風装を解かれたあと、大正8年(1919)に日本画家・下村関山が落札したのち、「観山会」で分譲されたものである。

三十六歌仙図 柿本人麻呂 一幅 岩佐又兵衛作 紙本着色 江戸時代(17世紀)出光美術館

大正時代末期には28名の歌仙の姿をおさめた巻子装であったらしい。その後、分断され掛軸に改装された。現在、国内外で20幅ほどが確認されている。各図には歌仙の名とともにそれぞれの代表的な和歌が一首ずつ記されており、書きぶりが一手であると思われる。寛永7年(1640)に仙波東照宮に奉納された扁額と同一の姿を示す。扁額に残された和歌もまた、本図と同じ青連院尊純の揮毫と伝わる。寛永17年(1640)からそれほど隔たらない時期の制作と考えられる。

和漢古事説話図 浮舟岩佐又兵衛作 紙本墨色 江戸時代(17世紀)出光美術館

旧岡山藩主の池田公爵家に伝来した時点では、全十二図からなる巻子装であったが、現在は1図ずつ掛軸に改装されている。12枚の主題のうち、「源氏物語」に取材するものが3図である。須磨巻(第十二帖)、夕霧巻(第三十九帖)、浮舟巻(第五十一帖)の情景をとらえている。浮舟巻においても「これなむ橘の小島」と告げて舟をとめる船頭や、付き従う女房の侍従などの姿をとらえず、説明的な描写を避けながら主役の二人に焦点を絞るあたりに、又兵衛の独自の解釈が光る。

重要美術品 源氏物語 野々宮図 岩佐又兵衛作 紙本墨彩淡彩 江戸時代(17世紀)出光美術館

福井の商家・金屋家に伝わった押絵貼屏風(通称、金谷屏風)には、あらゆる画題をとらえて絵画が納められていたが、明治42年(1909)に展示されたのち、屏風から掛軸に姿を変えて、それぞれの所有者に渡った。中国と日本の主題が無秩序に混在した配列であったらしい。源冶物語は、この野々宮図と官女観菊図(山種美術館)の2図である。源氏物語の賢木(さかき)巻(第十帖)の一場面を、水墨を主体にして描いたものである。源氏絵を細い線のみで描くことは、古くは鎌倉時代にさかのぼるが、その多くは「小絵」である。これほど大きな画面へと転換させたのは、日本絵画史上で又兵衛がはじめてである。周囲に秋草が繁茂する黒木の鳥居の下、たたずんで前方に視線を送る光源氏。晩秋のころ、伊勢下向をひかえたかっての恋人・六条御息所を嵯峨野・野宮に訪ね、これから榊のように変わらない恋募の情を伝えようとするところである。時期を少し前にずらしながら、源氏のみを近接してとらえるという劇的な手法は、まるで見るものがこの場面に立ち会っているかのような、鮮烈な臨場感を生み出している。この絵画の特徴を一言で言えば、漢画すなわち水墨画の画題をそのなかに自在にはさんで、和漢混交の画面を展開させていることである。又兵衛の特徴である「豊頬長顎」(ほうきょうちぉゆい)が、はっきり認められる絵である。又兵衛の北の庄(福井)時代を代表する名作である。

重要文化財 官女観菊図 紙本墨画淡彩 岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)山種美術館

この絵は、今回の展覧会に出展されていない。図録に参考作品として写真が写っているのみである。しかし、山種美術館で私が見ているので、あえて取り上げてみた。これは福井時代を代表する金谷屏風の一部であり、上掲の野々宮図とともに、金谷屏風に貼られていたものである。牛車から、侍女に御簾を上げさせて菊を観る二人の宮廷女性が描かれている。描線を主体にした緻密なモノクロの画面にふっくらとした頬と頤(おとがい)の「豊頬長頤」(ほうきょうちょうい)と呼ばれる、又兵衛作品に典型的な顔の3人である。もと「金谷屏風」と呼ばれた六曲一双の押絵貼屏風のなかの一つである。福井藩主・結城秀康の二男直正が生まれた時に、豪商・金屋家が「御養育方仰せ被」り、大切に養育したので成長後、金屋家感謝の意を込め、屏風が贈られたという。本作品の箱の中に納められている「勝以画口述伝来書」という書付けが含まれていた。

源氏物語 桐壷・貨狄造船図屏風 伝岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)出光美術館

中国と日本の古事が、左右の画面に描き別けられる。左隻にとらえられるものは、紀貫之にまつわる伝説とされたが、現在は「源氏物語桐壷巻」が絵画化されたものであるとの解釈されている。階下に立つ束帯姿の男性は貫之ではなく、12歳となった光源氏の元服に際して、加冠の役を務めた左大臣と解される。画面の左側から引き立てられる馬は、かたわらの鷹などとともに桐壷帝から下賜された禄である。この絵を描いたのは、おそらく又兵衛工房絵師が主体となり、寛永年間頃に制作したものだろう。

源氏物語 伝岩佐又兵衛作 紙本金地着色 江戸時代(17世紀)泉屋博古館

金雲によって各画面を六つずつの空間に区切り、「源氏物語」の十二の情景を展開させる。左隻には桐壷(第一帖)、若菜(第五帖)、空蝉(第三帖)、紅葉賀(第七帖)、帚木(第二帖)、末摘花(第六帖)を描いている。物語の叙述に沿うように場面が配置されているわけではないものの、右隻に元服以降の源氏の青年期を描こうとする意識は強い。又兵衛工房の源氏絵の図様に熟知した画家が筆をとったことは疑いない。

 

岩佐又兵衛は、辻惟雄氏の「奇想の系譜」(1970年初版出版)の一番先に紹介された江戸時代の画家である。岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳の6名の画家が「奇想の系譜」の中で紹介された。初版出版以来約半世紀が経つが、伊藤若冲や曽我蕭白は、今や江戸絵画師のスターの座に上り詰めているが、岩佐又兵衛の知名度は高くない。何故、岩佐又兵衛の評判が高く無いのだろうか?私は、又兵衛の個人展覧会が、東京や京都で開催されないことが大きな原因では無いかと思っている。2016年の夏、福井県立美術館で開催された「岩佐又兵衛展」は、福井藩移住400年に合せて開催されたもので、又兵衛の代表作が的確に選ばれ、記念の年に相応しい展覧会であったそうである。(私は、福井ということもあり、見ていない)新しく国宝に指定された「舟木本・洛中洛外図」や「豊国祭礼図屏風」、「山中常盤物語絵巻」、「上瑠璃物語絵巻」など多彩に渡ったそうである。是非、そうした絵画を揃え、東京か京都で「大岩佐又兵衛展」を開催してもらいたい。恐らく、伊藤若冲に劣らない人気を博する筈である。しかし、今回出光美術館で「岩佐又兵衛と源氏絵ー古典への挑戦」が開催されたことは、大きな出来事であり、岩佐又兵衛の知名度を上げることに大いに貢献するものと思う。「舟木本・洛中洛外図」は、2013年の「京都 洛中洛外図と障壁画の美」で見ているので、「舟木本・洛中洛外図」については、近い内にこのブログで書いてみたいと思う。肝心の「山中常盤物語巻」と「上瑠璃物語絵巻」は熱海のMOA美術館の所蔵品であり、現在MOA美術館は大修理中のため、拝観はかなわないが、今年の2月には開館する予定であるので、展覧次第見学して、御招介したいと思う。また、又兵衛は、かねて「浮世絵又兵衛」とも呼ばれ、浮世絵の元祖とする説もある。例えば「大浮世絵展  2014」の図録の冒頭の「浮世絵前夜」で、次のように記されている。「こうした近世初期風俗画の世界で、豊頬長顎(ほうきょうちょうい)の面貌を反らした容姿の人物像を描いた絵師・岩佐又兵衛の存在を忘れてはならないだろう。近世初期風俗画に登場するモチーフ、最新流行のファッション、新しい演劇の歌舞伎、現世にある楽土の遊里などの描写に「浮世」の思想がうかがえ、浮世絵成立への先駆をなしたと考えられる」。これだけ話題豊富な岩佐又兵衛に美術愛好家の眼が届かない訳がない。是非、大々的な「岩佐又兵衛展」を、東京で実行して頂きたい。

 

(本稿は、図録「岩佐又兵衛と源氏絵  2017年をサンシxy王」、辻惟雄「奇想の系譜」、辻惟雄「岩佐又兵衛 浮世絵をつくった男の謎」、図録「大浮世絵展 2014年」を参照した)