岩佐又兵衛作 重要文化財 山中常盤物語絵巻

熱海のMOA美術館が、長時間をかけて改修工事を行っていたが、工事は全部終了し、新しく生まれ変わった。今回は、岩佐又兵衛作の重要文化財・山中常盤物語絵巻・全12巻がすべて公開された。(4月25日まで)私は、この公開を待ちに待って、初日の3月17日(金)に、わざわざ熱海まで出かけて、ゆったりと拝観をしてきた。特に、部屋の中央に壁を設け、光線の入り混じりを防ぎ、非常に見学し易い環境になった。併せて、レストラン、カフェ、ショップも一新され、非常に気持ちの良い環境になった。さて、岩佐又兵衛には、重要文化財・山中常盤物語絵巻、重要文化財・浄瑠璃物語絵巻、堀江物語絵巻、おぐり(小栗)判官絵巻という4巻の膨大な絵巻物がある。その内、前3巻は,MOA美術館が保有している。最後の小栗判官物語絵巻は宮内庁所蔵である。その内、特に見たかった山中常盤物語絵巻の全巻が、3月17日より4月25日まで公開されることになった。言って見れば、今年の最大の見物が公開されたのである。「山中常盤物語絵巻」は、義経伝説に基づく御伽草紙系の物語で、奥州へ下った牛若を訪ねて、都を発った母の常盤御前が、山中の宿で盗賊に殺されて、牛若がその仇を討つという筋書きである。慶長、元和、寛永(1596~1645)にかけて操浄瑠璃の一つの演目として盛んに上演され、本絵巻はその正本(テキスト)に基づいて制作されたものであろう。(当然、史実とは異なる)全12巻から成り、全長は150メートルを超える長大な作品である。本作品は又兵衛が描いたと言われる絵巻群の中で、最も生気あふれる力強い作風で、又兵衛自身の関与が最も高いと考えられる。(福井の又兵衛工房の関与は、当然考えられる)特に巻四の常盤主従が盗賊に襲われる場面や、巻九の牛若が八面六臂の活躍によって盗賊たちに仇討ちする場面など、凄惨な場面の描写は、日本の美術品には珍しいもので、本作品の大きな特徴である。絵巻の表紙は、唐獅子模様を織りだした豪華な金襴で、見返しは金箔である。本絵巻の制作に関しては、越前松平家が関与していることが想定される。(「浮世絵又兵衛行状記」によれば、越前藩主松平忠直公の指示によるものとされている。小説であるが、面白い論考である)この作品は、越前藩主松平忠直公の子・光吉が転封(てんぽう)となった先の(岡山県)津山藩松平家に伝来したもので、大正14年(1925)5月の東京美術俱楽部による松平子爵家所蔵品売立てによって世に出た。昭和3年(1928)、ドイツへ売られるところを引きとめた第一書房社主・長谷川巳之吉によって広く紹介され、昭和の又兵衛論争を起すきっかけとなったそうである。(詳しくは辻惟雄「岩佐又兵衛 浮世絵をつくった男の謎」を参照)江戸時代初期の異色の絵巻として、また岩佐又兵衛の画業を考える上でも、極めて重要な作品である。なお、絵の解説は、詞(ことば)を現代語に訳し、更に分かり易く説明した。

重文 山中常盤 第一巻 佐藤(藤原秀衡の意)の館に着いた牛若

おごる平家を討つために、源氏の御曹司牛若は十五歳の春、東国(とうごく)へ下る。頼むは奥州の藤原秀衡(ひでひら)。秀衡(文章の上では佐藤)の館へ着いた牛若は丁重に迎えられ、幸せな毎日を送る。

重文山中常盤 第一巻 常盤は牛若が奥州に居る聞き、直ぐにも遭いに行くと言う

都にいる母の常盤(ときわ)は行方知れぬ牛若を案じ、清水寺に参ったり、八幡山へ百詣でをして、牛若の無事と再会を祈る。その年の秋、奥州の牛若の文が届く。常盤は喜んで、直ちに奥州の秀衡の館を訪ねると言う。

重文 山中常盤 第二巻  常盤は侍従を促す

乳母の侍従は、冬に向かう奥州は無理と押しとどめる。春も半ばとなり、常盤は侍従を従え東国へ下る。

重文 山中常盤 第三巻 牛若を思い、涙ながらに瀬田の唐橋を渡る

奥州は遠国(おんごく)、徒歩(かち)の旅はつらい。やっとの思いで瀬田の唐橋(滋賀県の琵琶湖の流れ)を渡る。二人が(美濃の)山中宿にたどり着くと、常盤は旅の難儀と、牛若恋しさも手伝い、見も心も就かれ果てる。

重文 山中常盤 第四巻 邸の中まで乱れ入り、常盤と侍従の小袖を奪い逃げ去る

山中の宿(しゅく)に住む六人の盗賊は、常盤と侍従を、東(あずま)下りの上臈(じょうろう)と見て、美しい小袖を盗もうと諮る。夜半に押し入った盗賊たちは、常盤と侍従の来ている小袖まで剥ぎ取り、門外に逃げ去ろうとする。

重文 山中常盤  第四巻 常盤は、小袖を返すか、さもなくば命を奪えと言う

夜半に押し入った盗賊たちは、常盤と侍従に着ている小袖まで剥ぎ取ったので、常盤は、肌をかくす小袖を残すがなさけ、さもなくば命もとってゆけと叫ぶ。

重文 山中常盤  第四巻 侍従は常盤を抱き、さめざめと泣く

盗賊たちは常盤を刺し、常盤にすがる侍従も殺して逃げる。

重文 山中常盤  第五巻 宿の主人に問わ、常盤は自らの身分や名を明かす

騒ぎに馳せつける宿の主人は、瀕死の常盤を抱き上げ、都の上臈が若等も連れぬ旅のわけを尋ねる。常盤は自らの出生と事の次第を打ち明けて、牛若に会えずに、盗人の手にかかって果てるは口惜しい。せめて道端に土葬にして、高札を立ててほしい、いとしい牛若が都へ上る折に、道端から守ってやりたい、と主人に頼み、持物を形見にと預けて息絶える。時に常盤は43歳。宿の主人は遺言通りに、土葬にして高札を立てる。

重文 山中常盤  第八巻  牛若は霧の印を結んで目をくらませる

秀衡の館の牛若は、母の常盤が夢にうつつに現れるのが気にかかり、館を忍び出て京へ上る。途中、美濃国赤坂の宿に泊まるが、山中の宿まではわずか三里、一夜の違いで母の常盤に合えないアワレサ。山中の宿で常盤と侍従が殺されたのはその夜のことであった。翌日赤坂の宿を発つた牛若は山中の宿はずれで真新しい塚を見て懇ろに法華教を誦(しょう)し回向する。牛若は何か去りがたく終日をそこで過ごし、その夜は山中の宿に泊まる。その夜、牛若は夢枕に立つた母親の姿や言葉を不審に思い、宿の主人に尋ねると、主人は涙ながらに前夜の出来事を一部始終話し、形見の品々を見せる。牛若は見覚えのある品々を抱きしめて嘆き悲しむ。牛若は心を取り直し、盗賊をおびき寄せて討ち取る為に宿を明日まで借りたいと主人に頼む。女房が、助力しようと、力づける。牛若は座敷一杯に派手な小袖や黄金の太刀を掛け並べてもらい、変相して、この宿に大名が宿を取ったと宿場中に触れ回る。牛若の計略どうり、盗賊はその夜、宿を襲う。待ち構えていた牛若は、霧の印を結び、小鷹の法をつかって六人に向かう。

重文 山中常盤 第九巻 六郎が切られたのを見て、残る五人が一度に切りかかる

牛若は六人を切り殺す。驚く宿の主人に命じ、その夜の中に死骸を淵に沈めさせる。牛若は主人と女房に助力を感謝し、後の褒美を約して秀衡の館へもどる。

重文 山中常盤 第十一巻 牛若は十万余騎をひきいて都へ上る

三年三日の後、牛若は大軍を率いて都へ上る。

重文 山中常盤 第十二巻 常盤の墓前で盛大に回向する

牛若は十万余騎を率いて都へ上る途中、山中の宿で常盤の墓前で手厚く回向した。

重文 山中常盤 第十二巻  宿の主人に山中の土地三百町と、所領安堵を伝える

宿の主人と女房に山中の三百町の土地を与え、所領安堵を伝え、その恩に報いた。

 

岩佐又兵衛(1578~1650)は、京都で絵師としての道を進み、大和絵的な源氏物語図会や国宝・「舟木本・洛中洛外図」、「豊国祭礼図屏風」など、傑作を残しながら、何故福井へ移住したのであろうか。又兵衛の福井移住は元和元年(1615)頃と推察される。時は折しも、豊臣家滅亡を前後するころに重なっている。理由は分からないが、劇的な時世の変化が背景にあったと思われる。又兵衛にとっては不本意な移転であっただろう。「廻国之記」において、又兵衛は「詩歌管弦の歌舞」に親しみ過ごしたみやこ暮らしの華やかさを述廻し、その対比によって「鄙(ひな)の住ゐ」に甘んじ、「いやしの賎(しず)に交」った福井の生活を語る所など、当時の又兵衛の心境を推測させるものはある。福井に移り住んだのは、直接的には越前北庄(きたのしぉう)の本願寺派の興宗寺の僧、心願の誘いによるとするが、背後には藩主松平忠直公の京都からの文化人招聘の意向があったと思われる。忠直は、徳川家康の次男結城秀康の長男で六十八万石を有する越前北庄藩二代藩主である。名門出身の忠直と荒木村重の血を引く又兵衛との交流の様が推測できる。忠直は乱交や将軍家に対する不遜な行動が重なり、元和九年(1623)改易となり、弟の忠昌(ただまさ)がこれを継いだ。又兵衛はそのまま福井に止まり、寛永14年(1637)、江戸に出るまでおよそ二十年を福井で過ごした。福井在住時代に多くの作品を残したが、一連の絵巻物は、すべて福井時代の制作である。又兵衛は、福井では工房を持ち、自身が制作する同時に、工房の弟子たちに背景や建造物などを描かせていたと思われる。だから、MOA美術館では、中山常盤物語絵巻は伝岩佐又兵衛と、慎重な態度を取っている。(辻氏は「巻一から巻四までは、又兵衛の真筆であると断言している)私の目から見ても、工房の弟子に任せた部分が、想定できる。山中常盤絵巻の特徴は、まず彩色にある。人物や建物などぬは、群青、緑青、臙脂、丹、黄土等の原色によるけばけばしい配色を施し、金銀泥でこまやかな文様を加えられて、派手な装飾効果が強調されている。中でもショッキングなのは、巻四の常盤殺しの場面である。六人の盗賊が、常盤の宿に乱入し、主従の衣を剥ぎ取って逃げようとする。常盤が、小袖を返すか、さもなくば刺せと迫ると、戻って常盤を刺し、更に侍従も刺し殺す。この過程を、画家は、執拗に反復する。日本の国宝、重要文化財で血を流す様子を描いたものは珍しい。私は、雪舟の「慧可断碑図」と、又兵衛の絵巻物以外に見たことが無い。常盤と侍従が夜盗に遭って、裸にされ、刺殺される場面を延々と4場面も描く作者の精神にはリアリズムを通り越し、嗜虐的情熱を感じるのである。巻八以降の仇討の場面もスゴイ。牛若が、片端から首を刎ね、胴切り、真向唐竹割りで、あっさり六人を退治してしまう。これも見事な場面である。兎に角、岩佐又兵衛を議論するためには、欠かせない絵巻物であり、私は、想像以上の感激を受けて帰ったのである。まだ見ない二本の絵巻物も逐次公開されるだろうから、すべてを拝観した上で、「岩佐又兵衛論」を書いてみたい。辻惟雄氏の「奇想の系譜」が世に出て50年近い歳月がたったが、伊藤若冲、曽我蕭白、歌川国芳などは世間の評判が高いが、まだ岩佐又兵衛の評価は高く無い。しかし、「舟木本・洛中洛外図」は、国宝に指定され、専門家の間では着々と評価が上がっている。いずれ、若冲を抜き、著名な作家と認識される時代は、さほど遠くないだろう。

 

(本稿は、図録「岩佐又兵衛作品集」、辻惟雄「奇想の系譜」、辻惟雄「岩佐又兵衛ー浮世絵をつくった男の謎」、篠田達明「浮世又兵衛行状記」、菊地寛「忠直郷行状記」、を参照した)