岩佐又兵衛作 国宝  舟木本・洛中洛外図

京都の中心部と郊外の景観を俯瞰して描いた図が「洛中洛外図」である。室町時代から江戸時代を通して数多く制作された。横長の画面に京都のパノラマが広がって四季が巡り、御所をはじめ公家の御殿、武家の屋敷、名高い社寺、名所をとりあげて、さらにそこに暮らす人々の生活を描き出した風俗画である。現在知られている洛中洛外図は百点ほど存在している。その発端は応仁の乱(1467~77)だと言ってよいだろう。戦火で京都の街は焦土と化し、「洛中洛外図」が扇面図などに描かれるようになった。戦乱によって、はじめて京都市街の姿を絵に表す意味が生まれたと言える。洛中と洛外とあわせた「洛中洛外図」が生まれたのは、遣明船で中国に渡った禅僧たちによって、北宋の都、開封内外の賑わいを描いた「清明上河図」のような都市図が日本にもたらされたことも大きな要因であった。現在、室町時代に描かれた「洛中洛外図」は三作品が知られている。江戸時代になると、洛中洛外図屏風は新たな姿となる。京都を東からみて徳川家康の築城した二条城を大きくとらえ、洛西地域の景観を描いた画面と、御所と洛東、つまり秀吉が築いた方広寺大仏殿や、人々が祇園祭に熱狂する様子などが対になるような画面構成となった。そして京都には将軍が不在となった後、京都は観光都市化し、洛中洛外図自体の意味も変容していく。屏風絵の供受者も天下人のような武将ではなく、各地の大名、あるいは花嫁道具の一つとして買い求めるものとなった。今回は、2016年に新たに国宝指定された、舟木本・洛中洛外図に焦点をあててみたい。理由は、作者が岩佐又兵衛とされることや、私が洛中洛外図の中で一番好きだからである。

国宝「洛中洛外図」舟木本 岩佐又兵衛作 江戸時代(17世紀)東京国立博物館        左隻                     右隻

「舟木本」(以下このように略す)は、戦後間もない昭和20年代の初め、滋賀県長浜市の医師、舟木栄氏が、彦根の古美術商から手に入れた。昭和24年(1949)、渡岸寺参拝の道すがら、同氏の宅に立ち寄った美術学者源豊宗(みなもととよむね)氏は、部屋に立ててあったこの屏風に目をとめる。又兵衛作だと直感した。狩野永徳筆の国宝「洛中洛外図ー上杉本」は中でも有名であるが、「舟木屏風」も描写内容が生き生きとした、個性的作風という点で、永徳のものにひけをとらない。というよりも、人々の生活をとらえた描写のユニークさにおいて「洛中洛外図屏風」の中でもっとも異彩を放つもの、と言ってよいだろう。鴨川の流れが左上から右下へ流れ、左右の画面をつなぐ。右隻の右に豊臣秀吉が建てた方広寺の威容を大きく描き、左隻左方に徳川家康が建造した二条城を置いて対峙させている。全体で7メートルを超える大画面となり、洛中洛外図屏風の中でも特異な画面構成をとったものとなっている。右隻は大仏殿と豊臣秀吉を祀る豊国神社が人々でにぎわい、四条河原の喧騒を描き、左隻に六条三筋街の遊郭を細かく描写している。巨大で華麗な幌を担いだ母衣武者(ほろむしゃ)たちが寺町を下がっている。店先での商いや、街路をゆく芸能者などが通りを埋める。左上に紫宸殿前で舞楽を催す御所を描き、そのすぐ近くに二条城の威容を描いている。東寺五重塔の上から眺めた景観を描いたものとも言われている。この図は、現世ー浮世への欲望を主題とした浮世絵につながる作品といえるのである。人物の身振りは誇張され、いずれ現れる浮世絵の人物たちを彷彿させる。作者の岩佐又兵衛が浮世絵師の祖と言われる所以である。(又兵衛作については別途論じたい)

舟木本  大仏殿楼門前

誘っているのは女性である。侍女が男性を手招きしている。

舟木本 大仏殿  鐘楼

慶長19年(1614)に完成した梵鐘である。鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」とあって、これを徳川家康に咎められ、大阪夏の陣のきっけとなった。

舟木本  五条大橋

天正17年(1589)、豊臣秀吉が大仏殿の参拝のため新たに付け替えた五条大橋、橋上に花見返りの集団が踊り騒ぎ、賀茂川を上る船頭も驚いて見上げている。

舟木本  四条河原 人形浄瑠璃

源義経が母常盤の仇討をする「阿弥陀棟割」と「阿弥陀の霊験譚「山中常盤」の場面である。又兵衛が「山中常盤絵巻」という大作を発表しているが、その一場面である。

舟木本 六条三筋町 中の町

二条城築城のため慶長7年(1602)に六条界隈に移転した遊郭。上中下の三筋の通りがあった。「中の町」遊女たちが牡丹や菖蒲を手に持って身をくねらせながら踊る様子を、男たちが袖や扇で口元を隠しながら見つめている。これは、まるで浮世絵である。

舟木本 祇園祭

鉾は描いていない。それは、多数の人物を表現するために省いたものである。寺町通りから四条通りへ進む大きな幌を担いだ母衣武者(ほろむしゃ)風流。笠鉾の前では鬼面のものや赤毛を被った赤熊(しゃぐま)が笛太鼓で囃す。

舟木本  御所

鳥兜の舞人が舞う正月節会。

舟木本  二条城

家康建築の二条城。天主は慶長11年(1606)に完成した。家光が後水尾天皇行幸を迎えるため、寛永元年(1624)に大改築に着手する前の姿である。

 

舟木本「洛中洛外図」を岩佐又兵衛作として、論を進めてきたが、異論は勿論ある。又兵衛を発掘した辻惟雄氏は「奇想の系譜」の中で次のように述べている。「舟木本・洛中洛外図屏風は、慶長末年の京都の市民の活気に満ちた生活ーとくにその享楽的な側面の諸相を、旺盛な好奇心と風刺精神によって描き出している点、風俗画の新傾向のさきがけとしての画期的な意味を持つものであり、しかも人物表現の特徴に又兵衛のそれと似た点があるところから、彼の京都時代の作ではないかと推測する向きもあるのだが、描かれている人々の野趣に満ちた闊達な表情は、又兵衛の内面的資質とはあまりにも無縁でありすぎる。むしろこれは「又兵衛前派」というべきすぐれた無名の画人の筆と考えたい」と述べ、又兵衛作を堅く拒否している(1970)。2008年に刊行された「岩佐又兵衛ー浮世絵をつくった男の謎」の中で。、「舟木本屏風左隻第四扇中央の、薬屋前で口をあけていなないている馬を、「山中常盤」第三の草津の宿で、子供に手綱を引っ張られ、苦しそうに口を開けている気の毒な馬のユーモラスな表情と比べてみた。舟木本屏風の馬の長い頸が、引っ張られていっそう長くなった様が、山中常盤の馬に読み取れる。両者の馬が同じ画家の筆から生まれたことはもはや疑えない。舟木屏風は又兵衛作だ!」として、舟木本が岩佐又兵衛作あることを認めている。実に37年後の意見変更である。又兵衛研究の第一人者の意見であるだけに重い。なお「洛中洛外図と障壁画の美」の解説は、東京国立博物館であるので、考証はしっかりしていると思う。私は、出展された7艘の洛中洛外図の中では、この舟木本が一番好きである。風俗画として一番魅力がある。この図が描かれたのは、辻惟雄氏は慶長年末(1615年頃)としているが、「洛中洛外図と障壁画の美」の解説でも慶長20年(1615年頃)としており、又兵衛の京都時代の作として一致している。この洛中洛外図から、浮世絵又兵衛の名が生まれたとするのは、やや難点があるが、又兵衛の京都時代の絵が、現在これしか確認できない以上、やや飛躍があっても、この「洛中洛外図」をもって、浮世絵又兵衛と呼ばれたことを実証する以外に方法は無いだろう。

 

(本稿は、図録「洛中洛外図と障壁画の美  2013年」、辻惟雄「奇想の系譜」、辻惟雄「岩佐又兵衛ー浮世絵をつくった男の謎」を参照した)