嵯峨   大  覚  寺

都の西北に位置する嵯峨野の大覚寺は、嵯峨天皇によってこの地に営まれた嵯峨離宮に端を発する。嵯峨天皇は平安京の北西部に広がる嵯峨野をこよなく愛され、大同4年(809)に即位されたとき、妃の壇林皇后との新居として造営された宮廷苑池であった。ときに平安遷都から間もない頃で、世の中は安定せず、大同5年(810)には、平城京への複都をはかる薬子の乱(くすこのらん)が起こった。大同元年(806)に唐から帰朝し、九州大宰府に留まっていた弘法大師は、嵯峨天皇の即位間もない大同4年夏に、京都の高雄山(現在の神護寺)に入った。薬子の乱に際しては、弘法大師は、高尾山において国家安泰を祈願する仁王経大法会(にんのうきょうだいほうえ)を執り行った。これもご縁となり、嵯峨天皇と弘法大師の親交が深まり、造営間もない離宮へ大師もしばしば足を運び、中国の事情や文化・芸術について嵯峨天皇と親しく会話されたことが伝えられている。注目すべきは、弘仁2年(811)に嵯峨天皇が、離宮の中に五大明王をまつる五覚院を造立されたことである。ここに弘法大師が刻まれた五大明王が安置された。鎮護国家と衆生救済を五大明王に祈願することは、弘法大師が嵯峨天皇に奨めたためと見られる。嵯峨天皇の離宮・嵯峨院が大覚寺として再出発したのは貞観(じょうがん)18年(876)2月のことで、離宮を寺に改めたのは、嵯峨天皇の皇女で、淳和天皇の皇后であった正子内親王であった。これを受けて、清和天皇は大覚寺を勅許された。嵯峨院は、承和元年(876)2月に嵯峨太政天皇の御所となり、同年10月には寝殿が落慶した。従って、大覚寺の起源は、承和元年(876)である。大覚寺は何度も兵火によって焼け、今日の宸殿、西寝殿が皇居から移築されたのは、元和から寛永年間(1615~44)にかけてであって、江戸時代初期の建物である。真言宗大覚寺派を名乗ったが、大正13年(1924)に、高野山・仁和寺と合同して古義真言宗となった。京都盆地の中で、いまも王朝の景観を止めている嵯峨野の大覚寺では、毎年中秋の明月に龍頭鷁首(りゅうとうげきす)船を大沢池に浮かべて観月の会が催され、秋の風物詩となっている。

式台玄関 木造入母屋造瓦葺(もくぞういりもやつくりかわらぶき)江戸時代(17世紀)

正面に銅板葺の唐破風を備える。妻飾りは木連格子懸漁(きつれんこうしかけぎょ)付で、その様式や軒まわりの構法などは、宸殿に近いものがある。宸殿の移築とともに付随して移されたものと目される。

重文  宸殿  入母屋造、桧肌葺、        江戸時代(17世紀)

式台玄関の東にある御殿風の大建築である。妻飾り、破風などに装飾をこらされている。建築史の研究によれば、後水尾(ごむずのお)天皇に入内して東福門院の、元和5年(1619)に女御御所の宸殿が、寛永度の造営中、明正天皇(後水尾天皇と東福門院の子)の仮皇居として用いられた、内裏竣工後、不要になったので、大覚寺に下賜されたものと見られている。御所の建物らしい風格がある。

宸殿内部                 江戸時代(17世紀)

 

内部には主室が4つあり、中央の最大の室は牡丹の間で33畳、その東の柳松の間が18条。天井も、前者が折上下組格天井(おりあげこぐみごうてんじょう)、後者は格天井と、豪華な仕上げである。襖絵は狩野山楽の作(文化財保護のため複製に入れ替え)であり、原作は極めて豪華である。

村雨の廊下                江戸時代(17世紀)

緒殿舎をつなぐ回廊も、大覚寺の特徴の一つである。両側には、手摺(高爛)があり、ときに真直ぐ、ときには曲がって、歩むごとに目に入る景色は変化していく。嵯峨御所と呼ばれる大覚寺、その雅やかさをいっそう感じさせる。

重文 正寝殿 お冠の間          桃山時代(17世紀)

正寝殿の中心になる最高位の室で8畳。後方4畳が上段で一段高く、玉座を設け、奥に張台構(ちょうだいかまえ)、向って右に平書院と言う具合に、京都御所常御殿の上段と同じような設えとなっている。正寝殿は、12の部屋を持つ書院造りである。

名所  大沢の池

弘仁5年(814)頃、嵯峨天皇が離宮としてつくられた嵯峨院庭園の池で、日本最古の人工の林泉(林や泉水のある庭園)とされる。中国の洞庭湖になぞらえ、庭湖とも呼ばれる。池には天神島、菊の島と庭湖石がある。この写真は、紅葉に染まる夜の「大沢の池」の写真である。

重文 不動明王像   明円作 安元2~3年(1176~77) 平安時代後期

平安時代初期、大覚寺創建時の尊像は弘法大師作と伝えられているが、現存しない。その復興期と見られる平安時代後期の像である。金剛夜叉・軍陀利(ぐんだり)の各明王像の台座に安元2年(1176)と同3年の墨書銘があり、前者には、七条殿弘御所(こごしょ・後白河上皇の御所)で仏師明円(みょうえん)が造立し自ら寄進した旨記されている。明円は12世紀後半の有力仏師で、その唯一の現存作例である。不動明王以外の4像は、当時講堂像を忠実に模写したものである。

重文 大威徳明王像(左)   明円作    平安時代後期         重文 軍荼利明王像(右)   明円作    平安時代後期

平安時代後期の作で、明円仏師の作である。東寺講堂の忠実な模写であり、出来栄えは良い。

十一面観音立像                     平安時代後期

頭の上に頂上仏と、十の頭上面をあわせて十一面。観音菩薩の慈悲があらゆる方向に向かうことを象徴している。腰をわずかに左にひねり、左足を踏み出す姿は、この菩薩が世間を練り歩いて衆生を救う存在であることを示すものである。定朝様式を引き継ぐ平安時代後期のあでやかな作風を示す。少年のように愛らしい表現から円派の製作と想定されている。

愛染明王坐像               嘉暦3年(1328) 鎌倉時代

愛染明王(あいぜんみょうおう)は、愛欲貪欲(どんよく)を菩提心で浄菩提心に変えると言われる。儀軌どうり、三目六臂(目が三つ、腕が6本)、怒りをあらわにした憤怒相で、獅子冠を戴き、日輪型の光背を背に、宝瓶から生じる蓮華上に坐す。保存状態が良く、後補が少ないうえ台座底面に「嘉暦三年戊辰正月一日」という墨書銘があって、嘉暦3年(1328)鎌倉末期作と判明する規準作である。台座部分に、舎利と抹香入りの裂袋が納入されていた。

 

平安京が1000年を超える都と定まったのは嵯峨天皇の時であるとする認識が歴史家の間では定説である。これは鴨長明が方丈記の中で「おほかた、此の京のはじめ開ける事は嵯峨天皇の御時、都と定まりけるより後、すでに四百年を経たり」と述べている。ことに嵯峨天皇は唐の文物に人一倍関心をもったことから、いわゆる唐風文化が花開いたのである。遣唐使によってもたらされた知識にもとづき、宮中の殿舎や京中の条坊に唐風の名が付けられたのも嵯峨朝であり、また漢詩文が好まれ、神泉苑その他でしばしば詩賦の会がもたれる一方、「凌雲集」(りょうんしゅう)以下の漢詩集がはじめて勅撰され、新渡の塔風俗である喫茶がたちまち宮廷貴紳の間に広まっていった。今日の京文化の基礎を作ったのかも知れない。溢れるほどの外国人観光客を見て、改めて京都文化の奥深さ、その基礎を築いた人に、思いを馳せた次第である。

 

(本稿は、古都巡礼 京都「第28巻 大覚寺」、探訪日本の古寺「第9巻     京都 四)を参照した)