嵯峨  清 凉 寺

日本人にとって、京都は心のふる里である。その京のみやこは洛西に嵯峨、名勝の嵯峨嵐山の渡月橋をわたって北へ、一本道を歩む続けると、山陰線が道を横切っている。それを超えてさらに歩き続けること、5,6分で、その道の突き当りに釈迦堂の山門が聳え立つ。見上げるような山門は、嵯峨野のシンボルである釈迦堂である。正しくは五台山清凉寺という。釈迦堂の名前で親しまれているのは、東大寺の僧奝然(ちょうねん)が、今から千年以上も前、中国の宋に渡り、五台山清凉寺に留学し、帰国する際に請来した栴檀釈迦頭瑞像(せんだんしゃかずいぞう)を本尊として、落西の愛宕山を五台山になぞらえて、中国の五台山清凉寺を移したてようと発願(ほつがん)したことによる。この栴檀頭像(せんだんずぞう)は、「三国伝来生身(しょうしん)の釈迦如来」として、ひろく信仰されていることによって、釈迦堂としてながく民衆の信仰を得て今日にいたっている。仏教では、釈迦没後500年間は「正法(しょうぼう)」、その時期を過ぎると次の500年は「像法(ぞうほう)」の時代とされ、それ以降は「末法(まっぼう)の時代とされた。平安時代の日本では、その「像法」がつきて「末法」に入る最初の年が永承(えいしょう)7年(1052)と考えられていた。この頃の歴史の年表を見ると京の都は何度も大火があるし、大地震や洪水、飢饉や疫病の流行など恐ろしいことが続いている、五濁悪世(ごじょくあくせ)そのもののこの世であった。この末法突入の時期に、日本では阿弥陀如来像が、この世を救うと信じられていた。この「三国伝来の釈迦如来」も、末法の時代の「救いの仏」と信じられたに違いない。事実、寛和2年(986)、奝然(ちょうねん)が中国(宋)から将来し、いま清凉寺の本尊として祀られるのが釈迦如来像である。間もなく来る末法の時代に恐れ慄いていた貴族や庶民が、この珍しい生身の釈迦如来像に、深い信仰心を抱いたことは当然と思う。また、この地は、「源氏物語」の主人公・光源氏(ひかるげんじ)の山荘とお堂であったと伝わる。

山門(仁王門) 入母屋造 本瓦葺         江戸時代(18世紀)

「嵯峨釈迦堂」の名前で親しまれている五台山清凉寺の正面に聳えるのがこの仁王門である。一見して、上層が大きいのに気づくが、これはこの門が江戸末期、安永6年(1776)の再建であり、その頃の様式手法をよく示しているためである。和様の色彩を残しながらも前体的に禅宗様式が強く出ているもので、江戸時代中・末期の仏堂や門などに一般的に広く行われたもので、折衷様の一種である。なお、上層部内部には十六羅漢像が安置されているそうだ。

本堂  一重、入母屋造、本瓦葺、           江戸時代(18世紀)

仁王門の後方、少し左寄りに建つ大建築である。この本堂は清凉寺式釈迦如来像を安置されていることでも有名である。昔は(昭和30年代までは)十大弟子も安置されていたが、現在は、それは霊宝館に移されている。現在のお堂は江戸初期、元禄14年(1701)に再建されたものである。この宮殿は五代将軍徳川綱吉と生母桂昌院の寄進と伝える禅宗様式の壮大華麗な建物である。

阿弥陀堂  入母屋造、本瓦葺、文久3年(1863)江戸時代末期(19世紀)

清凉寺の前身である棲霞寺(せいかじ)の名残の堂といい、本堂に向かって右にある。健築としては新しく、文久3年(1863)の再建である。内部は前方外陣、その後方内陣には、国宝「阿弥陀三尊像」が、かって安置されていた。(今は霊宝館に安置されている)この阿弥陀堂の前身である棲霞寺とは、ここの源融(みなもとのとおる)の山荘であったとされる。嵯峨天皇の皇子で左大臣でもあった源融は、「源氏物語」の光源氏(ひかるげんじ)のモデルと言われている。平安の昔から、嵯峨は貴族の別荘であったので、「源融」が、ここの山荘を構えていてもうなづけるのである。皇子で臣下に降りた貴公子は、また時代一の風流人でもあったのであろう。紫式部は「源氏物語」の舞台に、嵯峨を度々取り上げている。光源氏の嵯峨の別荘という位置は、清凉寺の地域をあてているように思われる。現在の阿弥陀堂は融時代の山荘の名残りである。融(とおる)の山荘は棲霞寺(せいかじ)となり、融の薨ずる間際に出来上がった丈六の阿弥陀仏を本尊としている。観音・勢至の脇侍を従えた三尊そろった威容は、平安初期の浄土教の名残を見せ、素晴らしいものである。嵯峨光仏という名で呼ばれた千年の歳月、信仰を集め続けてきた。

多宝塔 下層方形、上層円形 元禄16年(1703)江戸時代初期(18世紀)

仁王門を入って左手に多宝塔がつつましやかに立っている。方三間、二重、下層方形、上層円形平面の形通りの多宝塔である。寺伝では、元禄13年(1700)に江戸音羽・護国寺で出開帳があり、その時に一般大衆の寄進を受け、3年後の同16年(1703)の建立したものである。型通りの多宝塔であるが、全景も美しく、江戸時代多宝塔の一典型である。初層内部には多宝如来がお祀りしてある。

国宝 釈迦如来立像        中国製  平安時代(10世紀)

寛和2年(986)7月、奝然(ちょうねん)が中国(宋)から渡来し、いま清凉寺の本尊としてまつられる釈迦如来立像である。像の制作者は台州の仏師張延皓(ちょうえんこう)と張延襲(ちょうえんしゅう)兄弟で、二人の名は像の背面に刻まれている。太宗皇帝が宮中に秘蔵しており、奝然(ちょうねん)が拝して感激した「優填王(うえんおう)の釈迦像」は、インド僧の鳩摩羅什(くまらじゅう)が中央アジアの亀慈国(きじこく)から中国へ伝えたと言われる。優天王とは、4,5世紀の仏教伝説に登場するインド・カウシャンビー国のウダヤナ王のことで、説話では、たまたま釈迦が天に昇って生母摩耶夫人(まやぶにん)のために法をといた時、王は地上から釈迦の姿が消えたのを悲しみ、栴檀(せんだん)をもって釈迦の姿を彫らせ、釈迦に対すると同じように礼拝した。これがインドにおける仏像の初例となったと言う。しかし、釈迦を人の姿で表すこ仏像がはじめてつくられたのは、紀元後の1世紀ごろ、インドの西北ガンダーラ地方であり、釈迦在世中(紀元前5~4世紀)から、あったものではない。したがって優填王の説話は後世の制作であるが、この説話が成立したころ(4,5世紀)のインドでは、釈迦の生身(しょうしん)をうつしたと信じられた仏像があり、これが「優天王の釈迦像」として広く信仰をあつめられたものと考えられる。この釈迦像の形姿は、4,5世紀ごろインドから中央アジア一帯にかけて流行した仏像の形式であり、平安以前の日本彫刻には前例がない。清凉寺様式の摸刻は、文化財指定のものに限っても20点、未指定品をふくめると80余点となる。また昭和28年(1953)に、この像内から内蔵品が多数発見され、すべて国宝に指定されている。

国宝  阿弥陀如来像   木造(中央)      平安時代(9~10世紀)国宝  勢至菩薩像    木造(向って右)    平安時代(9~10世紀)国宝  観音菩薩像    木造(向って左)    平安時代(9~10世紀)

清凉寺の一隅に阿弥陀堂としてのこる棲霞寺(せいかじ)の本尊、阿弥陀三尊像である。棲霞寺は右大臣源融(みなもととおる)(源氏物語のヒロイン光源氏)が山荘をいちなんでいた棲霞観(せいかかん)を、融の死後、二人の遺児が父にかわって施入し創建した寺である。平安前期(9世紀)の終わり頃になると、それまで圧倒的な信仰を集めていた薬師仏への信仰にかわり、来世の幸福を司る阿弥陀仏とその西方浄土に対する信仰が貴族たちのこころをとらえはじめた。先に指摘した、正に末法(まっぼう)の時代の到来である。阿弥陀如来を本尊とするお寺が建てられるようになった。棲霞寺(せいかじ)の本尊も阿弥陀三尊像である。現在では、清凉寺の一堂に名を留めるのみであるが、かってはこのお堂が、この寺の主流であったのである。阿弥陀三尊像は一木造、漆箔、彫眼の像で、中尊は弥陀の定印、左右脇仏は他に例のない密教風の印相を結び、これまた類例の少ないにぎやかな臂釧(ひせん、腕かざり)をつけている。中尊の肩は広く量感に富み、ふかく刻んだ着衣の襞(ひだ)も動感にあふれ、相好も切れ長の眼、張った頬に重厚な雰囲気を見せている。脇侍仏も同様で、広い肩、ふかい衣文、肉づきのよい重厚な表情と、中尊と共通する特色を見せるているが、ほそい胴はひろい肩に較べてやや調和を欠くようである。

重要文化財  文殊菩薩騎獅像           平安時代(9~10世紀)

普賢菩薩とともに本尊釈迦如来像の脇侍となる文殊菩薩像である。独尊像でつくられることもあったが、普賢菩薩と一対で釈迦の脇侍としてまつられることも多い。形姿は獅子に乗り、右手に剣、左手に経巻を持つのが通例である。しかし、頭髪は菩薩に通例の高い宝珠を結っている。しかも両手はいずれも肘から先が後世の補作であり、持物の剣と経巻も新しいことから、この像が初めから文殊菩薩としてつくられたかどうか問題となる。恐らく、当初は観音菩薩であったものを、ある時期、文殊菩薩につくり変え、釈迦像の脇侍としたのではないかと思われる。

重要文化財  普賢菩薩騎象像          平安時代(9~10世紀)

普賢菩薩は本来、成仏のもとである菩提心を象徴し、行願(ぎょうがん、実行と意志)をつかさどるといわれるが。法華経は女性が成仏できることを説く数少ない経典であるので、平安時代後期になると、女性の信仰と深くむすびついて普賢菩薩の画像や彫刻が多数つくられた。そのため、普賢菩薩は普通、女性的で、優雅な姿で表現されている。独尊像としてあらわされることも多かったが、文殊菩薩と一対で釈迦の脇侍となることも少なくない。しかし、この普賢菩薩像は、形は通例と違い、半跏の姿勢で白象に坐し、持物をとる形は、東寺講堂の帝釈天像と全く同一である。顕教では普通、立像でよろいの上から衣をまとう姿で表されるが、密教では東寺講堂の帝釈天に代表されるように、衣の形式もちがうし、座法も水牛の上に半跏の姿で座っている。この普賢菩薩像は、間違いなく密教の帝釈天像の形姿である。いま普賢菩薩と呼ばれるこの像は、はじめ帝釈天としてつくられたのを、ある時期、普賢菩薩に転用し、文殊菩薩と併せて一組にしたと考えた方が、良いようである。

重要文化財  兜跋毘沙門天像          平安時代(10世紀)

東西南北の四方位を守護する仏教の尊像を四天王といい、そのうち北方天が多聞天と呼ばれる。多聞天は普通、他の三天とともに四軀一具として安置されるが、多聞天のみは独尊像としてつくられることも多く、その場合は特に毘沙門天の名で呼ばれる。兜跋毘沙門天の独特の形姿に起源は西域」のキジール、もしくはコータン地方の武人の服装から発していると考えられる。清凉寺像は、東寺像を原像として多くの摸刻像が造られたことになるのであろうか?

重要文化財  十大弟子立像(冨楼那像)     平安時代(10~11世紀)

釈迦に多くの弟子がいたが、そのうちとくにすぐれた十人の高弟を選んだのが十大弟子である。冨楼那(ふるな)は最年長者で、弁論を得意とし、説法第一と称された。「冨楼那の弁」という言葉もある。十大弟子像は、いわばこの世に実在した高僧の肖像彫刻である。いずれも遠い過去の人々であるため、表現はおのずと空想化や理想化が加わって非個性的な描写になることが多い。

 

清涼寺と言うと、三国伝来の釈迦如来像が話題になることが多いが、実は、ここは「源氏物語」のモデル「源融(みなもととおる)」の山荘であった「棲霞寺」(せいかんじ)の後に出来たものが清凉寺であり、むしろ平安時代の貴族の山荘が先に話題になるべきである。しかし三国伝来(インドー中国ー日本)の釈迦如来像に話題に集まり、何時の間にか平安時代の山荘の話が欠けてしまった。それだけに、一隅に存在する阿弥陀堂や、かって堂内にあった国宝阿弥陀如来三尊像が霊宝館に安置されていることを知る人も少なくなった。私が訪れた11月の下旬は、京都は紅葉を求める人で一杯であったが、この清凉寺に参拝する人は少なく、それもせいぜい釈迦堂までで、霊宝館は私1人の参拝であった。この素晴らしい、国宝・重要文化財の数々を紹介するため、長い文章になってしまった。是非、拝観の機会がある方は、平安時代の貴族の山荘の跡地であり、素晴らしい仏像群が霊宝館に祀られていることを思い出して頂きたい。

 

(本稿は、古寺巡礼 京都「第21巻  清凉寺」、探訪日本の古寺「第9巻 洛西」を参照した)