平安の秘仏 櫟野寺の大観音とみほとけたち

滋賀県甲賀市に存在する櫟野寺(らくやじ)は、延暦11年(792)に最澄(さいちょう)が延暦寺の建立に必要な良材を求めて櫟野(いちの)の地を訪れ、櫟(いちい)の霊木に仏像を刻んだことが、そのはじまりと伝わる天台宗の古刹(こさつ)である。日本仏教の母山と仰がれる比叡山延暦寺の末寺であり、地元では「いちいの観音さん」と呼ばれ親しまれている。このお寺には巨大な本尊を含めて20躯の平安仏が祀られていることで有名である。この櫟野寺を、最初に広く紹介したのが白洲正子氏の「かくれ里」であった。「かくれ里」は、昭和44年(1969)から芸術新潮に2年間に亘り連載された。このため、京都を拠点にして、畿内の村落をくまなく歩いた。「かくれ里」は昭和46年(1971)に新潮社より刊行され、多くの読者を得た。白洲氏は、最初から櫟野寺を知って出かけた訳ではなく、博物館で見た能の面を所有する「油日神社」を訪れた時に、宮司さんから「ここまで来たなら、櫟野寺も見ていらっしゃい。立派な仏像が沢山あります」と教えられて、櫟野寺へ来たのである。以下「かくれ里」から引用してみる。「櫟野寺はイチイノテラともラクヤジともいう。その名に背かず、境内には、樹齢千年と称する櫟がそびえ、そのかたわらに、見たこともないような大木の槇も立っている。いかにもこういう寺にふさわしい朴訥なお坊さんが現れ、宝物殿(大悲閣)の扉を開いて下さった。最近まで大きな本堂があったらしいが、火災のため失われ、さいわい仏像は新しい宝物殿の方に移してあったので助かりました。申し訳ないことです、と坊さんはしきりに恐縮されるが。」いずれにしても、天台宗の寺院であり、最盛期の櫟野寺には七つの坊があったというから、大変な大寺であったと思う。(東京国立博物館で12月11日まで公開)

櫟野寺の本堂(火災の後に再建された本堂)

img970

立派な仁王門のある古刹であり、甲賀市の中心的な寺院であったことは間違いない。重要文化財に指定される平安時代の仏像が、20躯も残っているのは、長浜のお寺とは格の違うお寺であったであろう。この20躯の仏像のうち実に12躯が観音像(聖観音が8躯、十一面観音が4躯)である。この櫟野寺とその周辺の塔頭は、観音の聖地と呼ぶにふさわしい場所である。寺伝によれば、延暦11年(792)に伝教大師最澄(766~822)が、延暦寺を建立するために良材を求めてこの地を訪れ、櫟(いちい)の霊木に観音像を刻んだことが当寺の始まりと伝えている。何故観音が選ばれたのかということについては、残念ながら明確ではない。最澄が良材を求めてこの地を訪れたという伝承からも、このあたりは奈良の寺院や延暦寺の造営にあたっては、良質な材木の供給地(杣山ーそまやま)であったと思われる。観音信仰と山岳や樹木へ結びつきやすく、当時この地が観音の聖地であると認識される可能性は十分あったのであろう。

重要文化財 十一面観音菩薩坐像 木造、漆箔・彩色 像高312cm平安時代(10世紀)

img971

櫟野寺の本尊である。重要文化財に指定された像の中では日本最大の十一面観音菩薩坐像である。平安時代後期、洛中を中心に藤原摂関家や天皇、上皇の発願によって巨像が多数造られたが、この像はそれをさかのぼる時期に都から少し離れた甲賀に造られたことが注目される。巨像を造るには人手と資金が必要であり、それを供給する力がこの地に注がれたのである。甲賀は、日本の仏像史上の重要な出来事があった場所である。やや離れるが、奈良時代の天平14年(742)に造営が始まった紫香楽宮(しがらきのみや)が群内にあり、聖武天皇は天平15年(743)に、そこにあった甲賀寺で「大仏建立の詔」を出して大仏の建立を始めたのである。事業は、奈良の東大寺に引き継がれたが、大仏はもともと甲賀でつくり始められたのである。この坐像仏は、秘仏であり、何時も厨子の中に納められている。白洲氏も拝観できていない。この大仏が寺外に出るのは、今回が初めてであり、次回の公開は2018年(平成30年)秋で、33年ぶりの公開だそうである。巨大仏で、台から光背までの高さは531cmであり、日本でも有数の巨大仏である。像高は471cmである。これでも大きい。像の高さを示す、座から髪際までの高さは、239cmである。一般に「丈六仏」(じょうろくぶつ)は4.8m(坐像で2.4M)であり、正にこの秘仏は丈六仏として造られたものである。一木造で、頭部から体幹まで、すべてヒノキの一木で造られている。寺伝ではイチイの木の一木造とされているが、イチイの木と言う言葉は、広く用いられ、実際はヒノキの一木造である。

重要文化財 薬師如来坐像 木造、漆箔 像高 222.0cm 平安時代(12世紀)

img972

左手に薬壷を持つ薬師如来であり、病気平癒や延命長寿をつかさどる如来である。この仏像は寄木造の技法を用いており、平等院の定朝(じょうちょう)様式に似ている。正面の髪際の高さが約1.9Mであることから、中国・周時代に用いられた周尺で一丈六尺に該当する「丈六仏」である。丈六は、経典に説かれる仏像の理想的な大きさと考えられており、仏像は本来その大きさにつくられるべきであるとされている。光背は像と同時期に造られたものである。本尊とは異なり、ふっくらとした頬に丸みのある顔、なだらかな肉体表現で、まさに定朝様式である。本像は、櫟野寺の奥院とされる詮住寺(せんじゅうじ)の本尊であったと伝えられている。

重要文化財 地蔵菩薩坐像 木造、漆箔 像高 110.8cm 平安時代(12世紀)

img973

地蔵菩薩は通常青年の僧侶の姿をし、右手に錫杖、左手に宝珠を持つのが基本形である。しかし、この地蔵尊は、もっと年若い少年のように見える。頭部から体幹まで一材で彫り出している。台座は後補であるが、光背は制作当時の姿を保っている。この像で注目されるのは、内刳り(うちぐり)の施された像内に墨書で銘文が記されていることである。それによると、文治3年(1187)に勧進上人(かんじんしょうにん)の蓮生(れんしょう)という僧侶が「現世安穏後生菩提」(げんせあんのんごしょうぼだい)を祈願し、数千人の人々に協力を請い造像されたと言う。浄財を募り、仏への結縁を望む人々の協力を求める「勧進」による造仏は、中世以降に一般化するが、この像はその早い例である。なお、本像はもと櫟野寺の末寺とされる寛沢寺(かんたくじ)に伝わったとされる。像に金箔が残るが、これは明治期の修理の際に施されたものである。

重要文化財 毘沙門天立像 木造 像高 163.0cm 平安時代(10~11世紀)

img974

寺伝によれば、延暦21年(802)、征夷大将軍坂上田村麻呂(たむろまろ)が、この地にやってきて、櫟野観音のご加護によって鈴鹿の賊を討伐した。その戦勝を祝い、ここに七堂伽藍を建て、自ら像を彫って本尊の傍らに祀ったとされる。「田村毘者門天」とも呼ばれている。胸板が厚くどっしりとしたその姿は、数々の戦いで勝利を挙げた武将にふさわしい堂々たるものである。甲冑を身に付け、左手に宝塔を捧げ持ち、右手に宝棒を構えるのは、日本では四天王のうち北方を守る多聞天(たもんてん)とされる。四天王のなかでも特に人気が高く、単独で信仰されることが多い。その場合は毘沙門天と呼ばれる。護法神としての性格から、日本では武家による信仰が篤い。

重要文化財 地蔵菩薩立像 木造、漆箔・彩色 像高 97.1cm 平安時代(10世紀)

img977

頭を剃髪し、袈裟を身につけることから地蔵菩薩として信仰されているが、衣の襟(えり)を立てるところが珍しく、注目されている。これは僧襟と呼ばれる着衣であり、地蔵ではなく僧侶の姿に表した神像とみる見解もある。出家修行する神の姿を、僧侶のかたちを借りて表現したものを僧形神像と呼ぶが、本像については確証はないが、可能性はある。一つの木材から全身を彫り出し、内刳りを施さないところは、櫟野寺の仏像に共通する。

重要文化財 観音菩薩立像 木造、彩色 像高 170.3cm 平安時代(10~11世紀)

img976

等身の大きさの観音立像である。目尻を吊り上げた険しい顔つきに、細身で長身のプロポーションの美しい観音である。一つの木材から左手の肘までと右手の手首までを含む全身を彫り出し、内刳りを施していない。本像で注目すべきは、耳のかたちである。耳の中央を三弁の花形にしているが、これは本尊の頭上面の耳も同じ形であることから、耳についても本尊坐像を参考にしているのであろう。

 

 

本寺の来歴については、最澄と坂上田村麻呂の2名が挙げられている。これについて、白洲正子氏は「かくれ里」の中で、次のようにまとめている。卓見と思うので、紹介したい。「延暦11年3月、田村麻呂は木工頭(こだくのかみ)に任ぜられた。造営にたずさわる官職で、大工を統率したり、用材を集めたりする役目である。当時は長岡京につづいて平安京の建設に忙しく、これは重要な仕事だったに相違ない。材木を求めに甲賀地方へも出張したであろう。延暦11年と言えば、最澄もこの辺にいた筈で、二人が出会わない方が不自然だ。櫟野寺の創建にまつわる数々の伝説は、暗にそういうことを物語っているのではあるまいか。寺は最澄が創立したとしても、田村麻呂が後援したことは確かである。土山の近くには、田村神社もあり、甲賀の周辺にその遺跡が多いのは、当然のことと言えよう。職掌がら、ここには長い間滞在し、村人たちの尊敬と信頼を集めたに違いない。彼が睨みを利かせているだけで、鈴鹿山の山賊共はちじみ上がったことであろう。」

 

(本稿は,図録「平安の秘仏 櫟野寺の大観音とみほとけたち 2016年」、古寺巡礼「近江若狭の仏像」、白洲正子「かくれ里」を参照した)