府中市美術館  長谷川俊行展(上)

戦前・戦中の日本を破天荒に生きた画家・長谷川俊行(1891~1940)が亡くなって、80年近い歳月が流れた。これを機会に、全国五つの美術館で「長谷川利行展」が開催されることになった。私は、近くの府中市美術館で観覧できる機会に恵まれた。実は、先に「美」に書いた「東京⇄沖縄、池袋モンパルナスとニシムイ美術村」で、俊行の絵画2点を紹介している。また、東京国立近代美術館の「MOMANT展」でも、1枚紹介している。最近、行方不明と伝えられた絵画が2点発見され、その都度話題を集めた。今回は、油彩、水彩、素描、ガラス絵等約140点を集めて、改めてその画業の全貌を展望し、利行の芸術について深く考える機会が提供された。多分、2度と見ることの出来ない展覧会であると思う。長谷川利行は京都に生まれ、若い時期には文学に傾倒し、自ら詩集も出版している。30歳頃に上京し、本格的に絵画を志して作画活動に没頭し、遅まきながら36歳で第14回二科展樗牛賞、翌年には1930年協会展で奨励賞を受賞する等、一挙に画家としての天賦の才能を開花させた。しかし、生活の面では、いつしか定居を持たず日銭暮らしを送るようになり、ついに東京市養育院で49歳の生涯を閉じた。彼の描く絵画は、フォーヴィズムとも呼ばれたが、私は、戦前・戦中の東京の下町を生き生きと描いた生命感あふれる画家であったと思う。掲載は1回で済まそうと思ったが、その魅力に引きずられ、2回の連載にすることにした。絵画は、原作を見ないと理解できないもので、もしご希望ならば府中市美術館まで足を運ぶことをお勧めする。開催は7月8日までである。

自画像  油彩・カンヴァス  大正14年(1925)頃 個人蔵

関東大震災後、俊行(としゆきー私は「りこーさん」と呼んでいる)は東京から京都に戻っている。帰郷しても父とは別居し、伏見稲荷近くのアパートに一人住み、絵を描いていたらしい。本作はこの頃に画かれたものである。関東大震災は利行に大きな衝撃を与えたと思われる。この作品からは、強い意志の持主であることが感じられる。何か深く思いつめている表情である。画家には自画像が多いものであるが、利行には、この1点しか、自画像は確認されていないそうである。

田端変電所  油彩・カンヴァス 大正12年(1923) 広島県立美術館

新光洋画会第4回に初入選した作品である。本作により長谷川利行は画壇へのデビューを果たした。早く入選して画家として身を立てたいという焦りがあってか、二科や春陽会に落選を続けていた。漸く入選したのが本作である。当時、鉄道は漸く電化されつつあった。変電所は目新しい建造物であった。東京のモダンな姿を捜し歩いていた利行にとって、変電所は格好の画題となったのであろう。柵の強い縦の黒い線、屋根と支柱の赤い斜めの線は、対比をなし、この絵にリズムを与えている。冒頭論文を寄せられた美術史家・原田光氏は、結論として「利行は、やはり、線の画家だと思う」と述べられている。正に、その通り、黒い線、赤い線が、この絵の見所であろう。

酒売場(PUB) 油彩・カンヴァス 昭和2年(1927) 愛知県美術館

第14回二科展で樗牛賞を受賞した代表作である。行き付けの浅草神谷バーの店内を描いたものである。恐らく店内にカンヴァスを持ち込み、速写したものであろう。昭和30年代の神谷バーと殆ど変っていない。店内の騒めき、食器やグラスの響きが聞こえてきそうである。それは赤や緑といった色彩の交響によって引き起こされた効果である。この絵では、文字通り、音色が色に置き換えられいるのである。速写のスピードが店内の光と音を一つのものにしている。

浅草停車場 油彩・カンヴァス  昭和3年(1928) 泰明画廊

浅草停車場は、現在の東武伊勢崎線とうきょうスカイツリー駅に当たる。明治35年(1902)の開通時は吾妻駅と言った。明治43年(1910)、浅草停車場として整備され、貨物や旅客の起点となった。大正期には東京市電も延び、交通の要として発展した。この作品においては、駅を生き交う群衆を見事に捉えている。個々の人物の表情や姿は、簡略化され、大きな一つの塊として表現されている。そこにこの絵の新しさがある。

機関車庫  油彩・カンヴァス  昭和3年(1928)頃 鉄道博物館

第14回二科展樗牛賞の大作(100号)であり、意欲に満ちている。赤煉瓦の車庫の中に黒い機関車が生き物のようにうごめいている。いきなり100号の大作であり、見ていても驚く。第4回1930年出展作である。「鉄道博物館」の所蔵であり、誠に所を得た「作品」である。

夏の遊園地 油彩・カンヴァス  昭和3年(1928) 個人蔵

描かれたのは、大正11年(1922)開園の荒川遊園地である。近くになじみの銭湯があって、利行は初期の描き方で、対象の骨格を素早くカンヴァスに刻むように筆を運んでいる。色と形は溶け合っていない。夏の夕暮れのなか、人気(ひとけ)はなく、暑気をはらんだ空気が漂っている。原色を多用しながら、水彩画的な淡い彩やかすれによって、広場の孤独をたくみに描き出している。第15回二科展で出品され好評を得た。100号の大作である。

カフェ・パウリスタ油彩・カンヴァス 昭和3年(1928)東京国立近代美術館

本作は1911年に東京の銀座に開店したカフェである。大正期には各地に支店があった。下町を中心に徘徊していた利行がこの作品を描いたのは、浅草か神田あたりの店であったと思われる。素早いタッチによる黒、赤、青、緑、白といった色たちが絵具の存在感を主張する一方で、カフェには女給以外の人は見当たらない。多分、開店直後の客のいない時間帯に絵が描かれたのであろう。この作品は第3回1930年協会展に出品されたが、当時の下宿先に宿代代わりに預けられて以降、近年まで所在不明となり忘れられていたが、テレビ番組がきっけとなり再び世に出てきた。額もなく、かなり汚れた情愛だったそうであるが、2009年度に国立近代美術館の収蔵となり、修復を経て当時の色彩を甦らせた。私は、MOMANT展で何度も視ているし、この「美」でも取り上げたことがある。長谷川利行の代表作である。

靉光像  油彩・カンヴァス  昭和3年(1928) 個人蔵

靉光(あいみつ)は若くして夭折したため、作品の数は少ない。しかし、彼に対するファンは実に多い。作品数も少なく、中々お目に懸れない。そんなこともあって靉光のファンは、満たされない思いが何時も強い。靉光は利行の画友である。利行と靉光ともに1930年協会展に出品しているが、1927年(昭和2年)、靉光は1930年協会展に出品しているが、1927年(昭和2年)、靉光は1930年協会奨励賞を受賞しており、この頃に出合ったと思われる。なお、同賞は翌年利行も受賞している。彼と靉光は16歳離れており、一時期、靉光は利行の影響を随分受けていたという。昭和3年(1928)、利行は靉光のポートレートを描いた(本作)。靉光は作品を見て喜んだことだろう。利行は靉光をはじめ若い画友たちに親愛の情を抱き、彼らも利行を慕っていた。

岸田国士像 油彩・カンヴァス 昭和5年(1930) 東京国立近代美術館

岸田国士は劇作家として著名な人物である。矢野文夫を介して、利行は強引にモデルを依頼した。胸に白いハンカチを入れ、黒い礼服姿の岸田を利行は勢いよく描いた。岸田の表情には、明らかに戸惑い、困惑していることを窺わせる。「肖像画の押し売り」にあい、さらに金をたかられるのではないか?その不安は的中した。岸田は肖像画の完成後も利行の襲撃を受けたらしい。1931年(昭和6)の第18回二科展出品作であり、好意的に受け取られたようである。

水泳場  油彩・カンヴァス  昭和7年(1932) 板橋区立美術館

「女」、「ガスタンクの昼」とともに昭和7年(1932)の第19回二科展に出品された作品である。50号の大きさで、利行の作品としては、大作の中に入る。関東大震災からの復興の一環として、東京市が墨田区公園内に造った水泳場(プール)を描いたものである。二科展での評価は賛否相半ばしたようだが、白い雲の湧き上がる夏の青空の下で、水泳場に集い、水泳を楽しむ大勢の人々の姿を素早いタッチで描かれ、画面全体に散らばる鮮やかな原色とも相まって、賑やかで明るいざわめきが伝わってくる。この作品は、長い間、行方不明であったが、10年ほど前に再発見され話題となり、板橋区立美術館に保管されている。

 

美術史家の原田光氏の「利行の幸福」という冒頭論文によれば、長谷川利行は二科展への出品が制作の背骨となっていたそうである。氏の論文によれば、次のような年賦が付けられている。                          大正12年(1923)と大正14年(1925)は落選           大正15年(1926)  第13回二科展  「田端変電所」、初入選    昭和2年(1927)   第14回二科展  「酒売場」樗牛賞受賞     昭和3年(1928)   第15回二科展  「夏の遊園地」他       昭和4年(1929)   第16回二科展   「子供」他         昭和5年(1930)   第17回二科展  「タンク海道」他       昭和6年(1931)   第18回二科展  「岸田国士像」他       昭和7年(1932)   第19回二科展  「水泳場」他         昭和8年(1933)   第20回二科展  「風景」他          昭和9年(1934)   第21回二科展  「割烹着」          昭和10年(1935)  第22回二科展  「鋼鉄場」他          昭和11年(1936)  第23回二科展  「裸女」他          昭和12年(1937)  第24回二科展   「夏の女」、「ハレルキン」

合計25点、この内、今も見ることができる作品は12点か13点、他の作品は行方不明か消失であろう。ほぼ半分の作品が残っている。よくぞ残ってくれたものだ。二科の効果があったのではないかと、原田氏は推測している。原田氏は、最後の出品作の「夏の女」、「ハレルキン」の内、どちらかが「白い背景の人物」(下で講評する)ではないかとも推定している。それは「下」で掲載し、論表したい。長谷川利行が描いた場所は、荒川より南、駅名で言えば、尾久、田端、日暮里、上野、御徒町辺りが多い。新宿、渋谷にも出没した形跡がある。活躍したのは大正末期から昭和15年頃までであり、私が生まれた頃に該等する。

 

 

(本稿は、図録「長谷川利行展  2018年」、図録「名品選 東京国立近代美術館」、図録「東京⇄沖縄展 池袋モンパルナスとニシイ美術村  2018年」を参照した。)