府中市美術館  長谷川利行展(下)

昭和11、12年(1936,37)には、驚異的な個展記録が記されている。その昭和11年(1936)、新宿の中村屋の裏辺りに、高崎正男の経営する天城画廊がオープンし、6月から12月までの半年で、5回の長谷川利行個展を開催した。昭和12年(1937)には、9月までに8回の個展。更に昭和12年(1937)12月、14回目の個展を開いたが、これが最後の個展になり、個展を終えて、翌年天城画廊も閉館した。兎に角、すざましい個展ラッシュである。昭和12年の6月に、利行は新宿に移転してきて、そこの木賃宿へ入った。矢野に言わせると、利行は「絵具とカンバスを買い与えられ、酒をおごられ宿賃を保証され、その代わりに何百枚かの油絵やデッサンを天城に渡した」そうだった。そうしてこの9月に、二科展に大作の出品をしたが、それが最後の二科展であった。天城画廊閉鎖の後、利行は、また新宿を去った。胃癌の痛みに苦しんでいた。二科展最後の作品は「白い背景の人物」であった。昭和10年(1935)以降に描いた、小さい作品は多数残っている。高崎が管理し、商売し、その以前に、良質の画材を提供し、制作をうながして、それだからこそ、これだけ多数の作品が残ったのであろう。どんづまって、窮乏生活も極まった。身体は恐ろしく衰えた。戦争は拡大し、浮浪・非国民は、どこを向いても行き場が無くなった。そんな中で、ついに路上で倒れ、東京市養育院で誰に看取られることなく49歳の生涯を閉じた。

二人の活弁の男 油彩・カンヴァス  昭和7年(1932) 信越放送株式会社

活弁とは「活動写真弁士」の略称で、無声映画の時代にスクリーンのそばで物語の筋や状況を解説し、登場人物の台詞を代弁する役割を担う職業である。当時唯一の映像であった映画を楽しめるか否かはこの弁士の力量に左右され、腕の良い弁士は大変な人気となった。利行がこの絵を描いた頃は、徐々にトーキーの上映が増え、弁士の需要に陰りが見えてきた時期ではあったが、彼の交友関係には弁士の名も現れ、絵の「弟子」となった者もいた。利行特有の素早い筆による背景の中に表された二人の姿からは、それぞれの人物の内面まで伝わってくるように感じられる。

矢野文夫氏肖像  油彩・カンヴァス  昭和8年(1933)  個人蔵

矢野氏は、利行の最大の理解者として多くの時間をともに過ごし、彼の死後はその芸術の顕彰につとめた詩人・矢野文夫氏である。利行も「仲の悪い兄弟のよう」と矢野宛ての書簡に綴っている。白い顔で少し俯くように画かれた青い服を着た矢野の体は、奔放な朱や白い線に覆われ、背景に溶け込んでいくようである。

大和家かほる  油彩・カンヴァス  昭和10年(1935) 個人蔵

「どじょうすくい」で知られる出雲地方の民俗芸能・安来節は、大正期の全国巡業を機に全国的な流行を見せる。浅草で初めて安来節公演は大正11年(1922)、出雲出身の姉妹、春子、八千代、清子による「大和家三姉妹一座」によるものと言われ、一座はその後も永く公演を続け人気となった。和装の女性の横顔を描いた本作には「大和家かほる」の名が書かれており、おそらくこの一座の座員であるだろう。静かで落ち着いた雰囲気の肖像画となっている。

安来節の女 油彩・カンヴァス  昭和10年(1935) 個人蔵

画家仲間の熊谷登久平は「当時、隆盛であった安来節の小屋で、絵を描いたものである。酒気を帯びた彼は、安来節のはやしがとても愉快であったらしく、三味や太鼓に合わせて、歌いながら絵を描いていた」と回想している。舞台の芸人を描いた本作は、まさにそのような状況で描かれたものであろう。

上野広小路  油彩・カンヴァス  昭和11年(1936) 宇都宮美術館

道路には、少ない車が走っており、路面電車の軌道もみることができる。道路脇には、人影のようなものが見えるが、はっきりと描かれていないため、その存在は街の中に溶解していくようだ。視線を上に向けると、高くそびえる電信柱とそれを結ぶ架線が画面を分断している。窮屈な印象を受ける。外神田方面から上野公園の方向を眺めた広小路である。

四宮潤一郎氏像  油彩・カンヴァス 昭和11年(1936)  個人蔵

四宮潤一は美術評論家で、アヴァン・ガルド芸術家クラブに所属し、自由美術協会顧問を務めた人物である。矢野文夫氏によると、四宮は日本画家・松林桂月の弟子であり、利行と矢野が水墨画を始めるにあたり手ほどきをしたという。しかし、彼らが水墨画を始めるのは、体調悪化により利行が油絵を描く気力をなくした昭和14年(1939)頃のことである。モデルは知的ですました表情がよく捉えられている。

新宿風景 油彩・カンヴァス  昭和12年(1937)頃 東京国立近代美術館

原色日本の美術「第27巻 近代の洋画」では、この絵について、次のように紹介している。「奔放な生活を続ける利行の表現主義的な激しい画風がよくうかがわれる。特に白を基調とした色彩配合が美しい」まさか、長谷川利行が、日本美術全集に乗っている訳はないだろと確認の意味で探してみたら、思いがけなく、この記事を発見した。なお、記事の続きとして、次のような言葉でまとめている。「奔放な筆使いによる原色の輝きの強い独自の画風を作り上げた。文章家でもあり、独学の人で、しかも激しい原色調を好んだところは、初期のヴラマンクに似ているが、ヴラマンクよりいっそう幻想的であり、荒涼とした詩境を感じさせる。昭和2年、二科展で樗牛賞を受け、その2年後に「1930年協会」展で同協会賞を受賞、その後もずっと二科展には出品を続けたが、その放浪の生活とあまりに汚れた風態のために、ついに会員には推されなかったという。つまり彼は、最後まで画家としての純粋な魂を持ち続けた生活破産者だったのである」ほぼ、結論めいたものとなった。

ノアノアの少女 油彩・カンバヴァス 昭和12年(1937) 愛知県美術館

ノアノアもまた、当時新宿にあったカフェのこと。利行はそこで個展を開いたこともあった。この作品は、そこで働く女性をモデルに描いたものの一点である。この作品のほかに、顔だちも服装も異なる作品が数点残っている。パーマをかけた髪、丸いバックルの付いたベルトという当時流行のファッションに包まれたこの女性は、誰よりも首が長く、そしてチャーミングに描かれている。

白い背景の人物 油彩・カンヴァス  昭和12年(1937) 個人蔵

白く塗り込めた背景のなか、今まさに描かれたばかりのように瑞々しく輝く画面を切り裂くような強い鋭い線描が光る。そこにぼんやりと居並ぶ5人の人物の顔が浮かび上がり、その間に見える緑の線は植物のように見える。この展覧会の直前に発見された50号の大作である。利行は昭和12年(1937)、第24回二科展に「夏の女」と「ハルレキン」を出品している。「ハルレキン」は、上野精養軒のビヤガーデンの藤棚で女が数人立っている様子を、白ペンキなどを使ってわずか30分程度で描き上げ、そのまま二科展に搬入したものであったと、現場に立ち会った海老原省象や岩崎把人が証言している。なお「ハレルキン」とはドイツ語で道化師の意味である。本作が二科展に出品された「ハレルキン」に該当する可能性が高い。

荒川の風景  油彩・カンヴァス  昭和14年(1939) 府中市美術館

昭和13年(1938)、利行は天城俊彦と袂を分かち新宿を離れ馴染み深い浅草付近の簡易旅館や友人宅を転々とする生活に戻った。病により衰弱し、歩き回る体力も絵を描く気力もない利行だが、ただ寝て過ごす場所も金もなく、日々荒川付近を放浪した。本作は夕暮れ時だろうか、荒川の川面もわずかに赤みを帯びている。電信柱を描く線は細くかすれ、対岸の「お化け煙突」の影もどこか頼りなげに揺れる。寂寞として荒涼感が漂っている。

 

私の尊敬する土方定一先生は「日本の近代美術」の中で次のように述べている。「関東大震災と前後して、20世紀の前半に次々と現れた近代美術のさまざまなイズムが、フォーヴィスム、キュービスム、シュールレアリスムが紹介された。これらの作家は、二科展に出品すると同時に、1930年協会を設立して、昭和元年に第1回展を開催した、(中略) 出品者の中にはファン・ゴッホ風の筆触と色彩で「瓦斯会社」などの工場風景を描き続け、二科第14回に樗牛賞をうけた長谷川利行(1891~1940)らがいた。長谷川利行は昭和15年に施療病院で貧困とアルコール中毒のなかでくもらされなかった魂の宝石のような小品を描きつづけて死んだ。」この言葉を、長谷川利行の霊魂に捧げたい。

 

(本稿は、図録「長谷川利行展   2018年」、図録「名品選  東京国立近代美術館」、図録「東京⇄沖縄  池袋モンパルナスとニシカムイ美術村2018年」を参照した)