徳川美術館(1)  大名の数寄

徳川美術館は、江戸時代の御三家の筆頭である尾張徳川家に伝えられた、大名道具を展示公開している美術館である。尾張徳川家は家康の九男義直(よしなお)を初代とし、今から400年以上前の慶長12年(1607)に、この尾張の地の大名となった。この居城は言うまでも無く名古屋城で、石高は61万1500石で、尾張一国・美濃国の一部・三河国の一部、さらに信濃国の木曽山などを領地としていた。ここまで書くと、島崎藤村の「夜明け前」が思い出される。木曽山は、尾張藩の所領であり、「夜明け前」にもしばしば木曽山の記述が出てくる。徳川美術館の建っている場所は、「大曽根屋敷」と呼ばれた尾張徳川家二代光友の隠居所の跡地である。当初は総面積13万坪に及ぶ広大な敷地で、光友没後は、家老の長瀬・石河・渡辺の三家の別邸となっていたが、明治22年(1889)に、この屋敷跡の一部が尾張徳川家の所有となり、翌年に名古屋藩邸(戦災で消失)が建てられた。玄関正面に建つ門(黒門)は、その当時の遺構である。徳川美術館は、尾張徳川家19代公爵義親(よしちか)の寄付によって、昭和6年(1931)に創設された財団法人・徳川黎明会が運営する私立の美術館で、昭和10年(1935)に開館した。この古い徳川美術館は、私の大学時代の、唯一の常設展をする名古屋の美術館であり、私は毎月のように見学したものである。それが、私の美術鑑賞の基本知識になっていることは間違いない。収蔵品は「駿府御分物」と呼ばれる、徳川家康の遺品を中核として歴代藩主や夫人たちの取集品、婚礼の際の持参品などで、その数1万数千件に及ぶ。これらの中には、室町幕府の足利将軍をはじめ織田信長・豊臣秀吉ゆかりの名品も多く含まれている。明治維新、第二次世界大戦を通じ各大名家の道具がほとんど散逸してしまった今日、徳川美術館の収蔵品は大名家の宝庫・コレクションで唯一まとまった存在であり、「大名道具とは何か?」「近世大名とは何か?」という問いかけに答えられるわが国唯一の美術館である。私が見た徳川美術館は昭和6年に建てられた古い美術館であったが、昭和62年(1987)秋に、地元の自治体や経済界・一般市民からの寄付によって、常設展示室を初めとする施設が充実し、更に平成16年(2004)秋に、尾張徳川家に伝来した貴重な書物を伝える蓬左文庫(ほうさぶんこ)や、池泉回遊式の大名庭園がよみがえった徳川園など、徳川美術館周辺が整備され、総合的に江戸時代の大名文化を体感できる施設となった。料理店、喫茶店も多数あり、半日程度を過ごすことの出来る楽しい美術館となった。残念なことは、特別展示を行う場合に、図録が発行されないことがある。名古屋文化では、図録の印刷も出来ないのであろうか。幸い、美術館では、現在は、ほぼ常設展示のみに特化して、常設展示図録は販売されている。やっと願いがかなった思いである。本稿ではまず、大名の数寄(茶の湯)を取り上げたい。

黒門  木造建築物           明治22年(1937)頃建設

明治22年(1889)に、ここに尾張徳川家・名古屋藩邸が建てられたが、昭和19~20年のアメリカ軍の大空襲により本邸は焼失した。幸いこの門(通称「黒門」)のみが残り、現在は徳川美術館の入口となっている。

徳川美術館の建物  鉄筋コンクリート製    昭和62年(1987)建設

蓬左文庫の建物    鉄筋コンクリート製    平成16年(2004)建設

蓬左文庫の裏側に当たり、正面の門は、道路に面して建つ。蓬左文庫は、尾張徳川家の旧蔵書を中心に、和漢の優れた古典籍を所蔵・公開している。様々な書籍は約11万点に及ぶそうである。昭和10年(1935)、徳川美術館が名古屋の地で開館すると同時に、蓬左文庫は財団法人尾張徳川黎明会所属の文庫として東京目白にある尾張徳川邸脇に開館した。第二次大戦を経て、昭和25年(1950)に名古屋市に譲渡され、徳川美術館に隣接する現在地で蔵書の管理と公開が行われた。平成16年(2004)秋の徳川園やその周囲の整備により、徳川美術館と蓬左文庫とが渡り廊下でつながり、大名道具を収蔵している徳川美術館と、蔵書類を収蔵している文庫が一体となって展示を行うようになった。

猿面茶室 数寄道具置き合わせ   木造建築物  平成16年(2004)建設

猿面茶屋は、もとは清州城にあり、慶長15年(1610)の名古屋城建築の際に移築された。「猿面」の名は床柱の上部の面取り部分に一対ある節が猿の顔に似ているところから名づけられたとする説がある。この茶室は、京都山崎・妙熹庵の「待庵(たいあん)」、京都建仁寺の「如庵(じょあん)」(現愛知県犬山市に移築)とともに日本の三名席の一つに数えられ、戦前は国宝に指定されていた。明治維新後は名古屋城を離れ、最終的には名古屋市内の鶴舞公園内に移築されたが、昭和20年(1945)の戦災によって焼失した。この展示室に造られた茶室は、残された図面をもとに忠実に再現したものである。写真は、その茶室の一部(数寄道具置き合わせ)を、写したものである。二代将軍徳川秀忠が、元和9年(1613)2月23日に、初めて尾張徳川家江戸屋敷にお成りした際に使用された道具立てを再現したものである。

窯変天目茶碗(油滴天目)大名物  中国・金時代(12~13世紀)駿府御分物

碗の内外に無数の星のような油滴があり、光にかざすと虹色に輝く天目である。室町時代かた名碗として珍重されていた。中国からもたらされた茶の湯の文化は、抹茶を飲む習慣に加え、このような茶碗や諸道具を日本に定着させた。

重要文化財 白天目  大名物          室町時代(15~16世紀)

白天目と言われる茶碗は、釉の色が薄い白青色である天目茶碗である。日本では油滴・窯変などに遅れて、室町時代末期頃から好まれたようである。産地については不明のものが多い。この茶椀の伝来は、武野紹鷗・新野新左エ門・徳川義直(尾張初代)である。この所有者によって、茶碗の価格が大きく変わるので、果たして美術品に入れて良いかどうか迷うものである。大名物は大名茶人・松平不昧が評価したものである。不昧は宝物、大名物、中興名物、名物並、上、下の6段階で評価している。しかし、上の部で国宝に指定されているものがあり、現在の評価とはやや違うようである。

井戸茶碗  銘  大高麗  大名物      朝鮮王朝時代(16世紀)

高麗茶椀の一種で、井戸、刷毛目、三島といった種類があった。大高麗の銘を持つこの茶椀は、井戸茶碗の代表的茶碗であろう。畠山記念館に重要文化財に指定された井戸茶碗がで銘を細川という茶碗を「美」に紹介した記憶がある。この大高麗も、細川と比較して見劣りしない優品である。徳川家が所有し、家康没後の「駿府御分物」の一つであり、天下の名碗であろう。

重要文化財 織部筒茶碗  銘 冬枯    桃山時代(16世紀)岡谷家寄贈

織部茶碗は、私は好きであるが、古田織部の作陶した茶椀が、徳川家に伝来することが不可解であった。織部は千利休没後、慶長年間のはじめに「茶の湯名人」となり、寂びた茶を極めて師の利休とは対照的に、新しく大胆な奇抜な造形性を見せ、斬新な美の世界を創造した。歪んだ器形や抽象的文様を描き、数寄屋御成に対応した新たな武家茶の規範を創ったとされた。しかし元和元年(1615)大阪夏の陣に際し、家臣木村宗喜の反乱が露見したことを契機に、伏見の屋敷に幽閉され、6月11日、伏見自邸で子の重弘とともに自刃(72歳)した。誠に不思議な事件であり、デッチアゲと私は見ている。利休に続いて、織部まで2代の家元が自刃したことは不可思議な事件である。徳川家に背いた茶匠の茶碗が尾張徳川家の家宝として伝来したことに不審を抱いたが、その理由が直ぐ分った。この茶碗は、岡谷家寄贈品であり、徳川家伝来の品ではなかった。私は、織部焼のこの冬枯が好きである。筒型の茶碗は、お茶を立てる時に立てやすい点が特徴である。

南蛮水指  銘 芋頭  大名物    中国  明時代(16世紀)

東南アジア方面で焼かれた陶器であり、茶人たちはその素朴な味わいを愛好した。武野紹鷗の遺品である。豊臣秀吉が所持した由緒があり、「天下一」の水指とされた。伝来は次の通りである。武野紹鷗・豊臣秀吉・徳川家康所用(駿府御分物)

竹茶杓  銘  泪(なみだ)  千利休作  名物  桃山時代(16世紀)

天正9年(1591)2月23日、豊臣秀吉に切腹を命じられた利休は、淀から舟に乗って堺へ謹慎のため、一人旅たった。多くの茶の弟子がいたが、この船着き場に来た者は細川忠興と古田織部の2名のみであった。他の大勢の弟子たちが、秀吉への配慮から別れの場には顔をださなかった。この二人に対し、利休は自ら竹を削った茶杓を形見に分け与えた。忠興に渡った茶杓は「いのち(命)」と命名され、織部は「なみだ(泪)」と命名した。「いのち」は行方不明であるが、「なみだ(泪)」は、古田織部が茶杓の箱に長方形の窓をあけてた筒を作り、その窓を通してこの茶杓を位牌代わりに拝んだと伝えられる。これを見るのが、徳川美術館を見学した真意であった。伝来・千李休作・古田織部・徳川家康・駿府御分物。

 

徳川美術館は20年ほど前に、新しくなった美術館を拝観した。それは年紀によれば昭和62年(1987)に地元自治体や経済界の寄付によって、展示施設が一新した時であった。今回は、それから10数年を経過し、年紀によれば平成16年(2004)秋の蓬左文庫や池泉回遊式の大名庭園がよみがえり徳川園として整備された後になる。大学時代に毎月通っていた徳川美術館は、すっかり変わり、大名美術館としては、全国に誇れる素晴らしい美術館、徳川園に生まれ変わり、実に見甲斐のある常設展示であった。なお、大名美術園としては私が知っている範囲では毛利美術館が山口県にある。それは美術館としては古くなり、常設展示品も、長州が薩摩と組んで徳川幕府を倒そうとした、極く近代の展示物が大半を占めて、到底大名美術館と呼べるものではない。但し、秋には雪舟作の「四季長図」(山水長巻)が1ケ月間展示される。これが展示される期間こそ大名美術館と呼べる美術館である。しかし、徳川美術館には国宝「源氏物語絵巻」(12世紀)、(現存最古の源氏物語絵巻)がある。本来、武家の美術館であれば、「武具」の展示が有る訳であり、徳川美術館でも、まず「武家のシンボル」として「武具、刀剣、甲兜」が展示されている。しかし、私は武具、中でも刀剣を美術品とは思っていないので、全く触れないことにした。これは、私個人の好みの問題であり、刀剣に興味のある方には、それはそれで多分満足して頂けるものだろうと思う。

 

(本稿は、図録「徳川美術館ガイドブック」、図録「毛利家の至宝  大名文化の精粋・国宝・雪舟筆「山水長巻」特別公開  2012年」、山本兼一「利休にたずねよ」、図録「没後400年  古田織部展  2014年」を参照した)