徳川美術館(3)  朝鮮通信使

豊臣秀吉の始めた朝鮮侵略戦争は、日本では「文禄・慶長の役」と呼ばれているが、韓国や朝鮮では「壬申倭乱」「壬申戦争」と呼ばれている。この戦争が悲惨を極めたのは、非戦闘員である無数の民衆を巻き込んだことである。私は、昭和20年の広島、長崎への原爆投下と同じくらい、無残で、非人道的な野蛮行為であったと思う。朝鮮側では、在地の貴族である両班(やんぱん)に鼓舞されて各地で決起した「民衆の義兵」が戦闘に加わったことににもかかわって、略奪、放火、民衆の略奪と拉致連行、そして鼻切りなどの残虐な行為が日本軍によって行われたのである。対馬藩の独自の動きもあったが、朝鮮側は自主的判断として、対馬を通じて徳川政権の真意と日本情勢の探索をなす目的で対馬に使者を派遣した。家康は、朝鮮側の意向も組み、慶長10年(1605)2月に伏見城で、松雲大師(朝鮮側代表)で会見した。松雲大師は被慮人の送還を強く要望し、幕府も誠意を尽くすことを約束し、1390人前後の被慮人が故国の土地を踏むことができた。これを契機として慶長12年(1607)3月、第一回兼刷還使が日本の土を踏むことになった。一行の総人数は504名と言われ、これ以降の通信使も500名近い人数となった。船団は4隻であった。第一回のみならず、第二、第三回の使節団の名称は「回答兼刷使」であり、第4回目以降「朝鮮通信使」という名称に変わった。第一回の回答兼刷使が日本に来た時は、江戸で第二代将軍徳川秀忠が面説した。その年の6月に江戸で立派な飾箱に収められた秀忠から朝鮮国王への返書が渡された。それを見ると、「源秀忠」とのみあって「日本国王」の印章もなかった。また年号は当年の干支を印し、明(みん)年号を用いていない。これは朝鮮側には大きな問題であったが、朝鮮使は「今、新将軍を見ると、隣国使節の接待の態度は誠意に満ちている。これは国内の人々の幸いである」と述べ、日本側の本田正信も「日本もまた幸いである。将軍もまた感悦極まりない」と答えた。慶長12年(1607)に始まり、文化8年(1811)が最終回となった江戸時代の朝鮮通信使の来聘(らいへい)は合計11回となり、この朝鮮通信使(第4回目からの正式名称)は、両国の政治、経済、文化(儒教、人文科学、医学等)に多大な影響を与えた。さて、今回の朝鮮通信使の催しは、徳川美術館というより、蓬左文庫(ほうさぶんこ)の催しであるが、廊下で繋がっているため、どちらの主催かは、入場者には分からない。しかし、文庫類は蓬左文庫の保管であることから、私は蓬左文庫の主催と考えている。

朝鮮人来朝道通り絵図  江戸時代(18世紀)   蓬左文庫

朝鮮通信使が通行する釜山から江戸に至るまでの道のりを示した絵図である。宝暦14年(1764)の通信使来日の際に作成されたと思われる。通信使一行は、大阪まで海路を進み、そこから陸路で京都・名古屋等を経て江戸まで進んだ。この地図は、上関から大阪まで海路を進み、京都、名古屋等を経て江戸まで進んだ行路を地図にしたものである。

朝鮮人来朝通り絵図    江戸時代(18世紀)  蓬左文庫

上の図の尾張藩の部を拡大した図面である。正徳元年(1711)の通信使以降、尾張では起宿(おこししゅく)、名古屋城下、鳴海宿(なるみしゅく)の三ケ所で休泊するのが通例となった。行列の通交する街並みの美化が進められ、近辺の村を中心に馬や人足の負担が割り当てられた。(いわゆる、助郷制度)

朝鮮人饗応七五三膳部之図  江戸時代(19世紀)蓬左文庫 ユネスコ世界記憶遺産

文化8年(1811)の通信使を迎えるに当たり、日本側正使である小笠原忠固(ただかた)の家臣、猪飼氏が饗応のために七五三膳の見本を作らせ描き写したものである。七五三膳とは本膳に七菜、二の膳に五菜、三の膳に三菜を盛り込んだもので、三使をもてなす際に用いられたものである。本膳は儀礼的なもので、一通り酒を酌み交わすと引き下げられ、改めて本格的な食事を供するものである。

朝鮮人物旗丈轎與(じょうよ)之図 1巻  江戸時代 蓬左文庫 ユネスコ文化遺産

文化8年(1811)、十一代将軍家斉(いえなり)襲職を祝賀し来日した通信使の意匠、旗、輿(こし)などを描き、解説を加えた記録である。日本側正使を勤めた小倉藩主・小笠原忠固(ただかた)の家臣、猪飼氏が描いたものの写しである。この年の通信使は対馬までしか訪れず、この年の津信使は対馬までしか訪れず、以後通信使の来日は途絶えた。この絵巻には楽人や軍官、小童などのほか、行列の先頭を切って道を清める「清道旗(せいどうき)」、雲龍を描いた「形名旗(けいめいき)」、国書や別幅(贈答品)を載せる「龍亭(りゅうてい)」なども描かれている。

朝鮮通信使行列図屏風六曲一双 江戸時代(18ー19世紀)崇覚寺(名古屋市)

右隻

左隻

名古屋市中区の崇覚寺に伝わる朝鮮通信使行列を描いた屏風。平成8年(1996)に発見された。絵巻を切り貼りして屏風に改装している。改装の際に切断したため順序に混乱が生じており、一部に後年の塗り足しと思われる箇所も見られるが、個々の描写は通信使の行列をほぼ正確に描いている。崇覚寺は本図を成瀬氏(犬山城主)から拝領したとの言い伝えもあるが、正確な経緯は不明である。

名陽旧覧図誌  四 江戸時代(1820) 東洋文庫蔵

尾張藩士の高力信種(こうりきのぶたね)(1766~1831)が、名古屋城下の街並みや風俗・流行をまとめた絵本である。宝暦14年(1764)に来日した朝鮮津信使が名古屋を通行した時の様子を描いた絵入りの記録としては唯一のものである。

津八幡神社祭礼画巻  1巻  江戸時代(19世紀)  石水博物館蔵

江戸時代に行われた津八幡宮の祭礼行列を描いた絵巻。伊勢国・津の大店・河喜多太夫家の伝来品である。津八幡宮は津城主の藤堂家二代高次(1602~1676)が初代高虎(1556~1630)を祀って以後毎年盛大な祭礼が行われた。祭礼行列には津城下の各町から練り物が出され、分部町から唐人練り物が出された。分部町の唐人は最初南蛮風の衣装であったが、やがて朝鮮通信使の要素を取り入れたものに変化した。19世紀中ごろの作とされるこの画巻には、形名旗、清道旗・楽隊・輿に乗った正使などを模した姿が描かかれ、通信使の影響がはっきりと見て取れる。

 

朝鮮通信使とは江戸時代に11回に亘り、朝鮮国王より徳川家の代替りの御祝いに来た使節団を言う。しかし、第1回から第3回までは「回答兼刷環使」と呼ばれ、第四回より「朝鮮通信使」と呼ばれるようになった。江戸時代は、鎖国のイメージが強いが、朝鮮、明、琉球、オランダの四国とは通称交渉があり、特に朝鮮通信使は11回に及び、徳川家の代代わりに使節団を派遣し、朝鮮と日本は友好関係を維持していた。これにより、日本の政治、文化(儒学、本草学、薬学、医学等)に多大な好影響があったことは資料により、正確に指摘されている。

 

(本稿は、図録「豊かなる朝鮮王朝の文化  交流の遺産  2015年」仲尾宏「朝鮮通信使」を参照した)