敦煌莫高窟の美(1)

中国の敦煌の莫高窟の壁画、仏像の美しさ、古さ、の夢を掻き立ててくれたのは、私にとっては、井上靖氏の「敦煌」(とんこう)、「楼蘭」(ろうらん)、「西域物語」(せいいきものがたり)等の小説であった。いずれも昭和30年~40年代に書かれた小説である。井上靖氏も西域や楼蘭、敦煌を訪ねたことはなく、すべて想像上で書かれた作品であった。まだ20代の私は、井上氏の作品を読み、まだ見ぬ「敦煌」にあこがれ、何時か是非、訪れたいと思い続けた。たまたま昭和54年の4月からNHKのテレビ第一放送で「シルクロード」の長編テレビが石坂浩二氏のナレーションで、毎週日曜日午後8時より1時間放映された。私は、毎週日曜日の午後8時が待ち遠しく、大変楽しみにして毎回眺めていた。「シルクロード」の第2部が「敦煌」で、「敦煌莫高窟」の壁画や仏像を飽かずに眺めたものであった。テレビだけでは物足らず、いずれ敦煌跋扈窟の壁画、仏像類を拝観し、自分の知見を高めたいと思っていたが、実現したのは、会社(明治乳業)を63歳でリタイヤーし、自分の設立したコンサルタント会社(株・フランチャイズ研究所)を創業し、事業も軌道に乗った2000年8月11日から8月18日までの8日間の「敦煌の旅」であった。グループは8名で、手ごろな人数であり、実に楽しい海外旅行であった。幸い、日程、写真類が完全に残っており、これを既に「黒川孝雄の美」2012年8月に3回に分けて連載している。今回は、私の「旅」の部分をできるだけカットし、敦煌・莫高窟の壁画、仏像類多数(100個以上」紹介し、莫高窟、楡臨窟等の壁画を主として紹介し、莫高窟、楡臨窟等の壁画を主として紹介したい。日本の美術展で、見られる敦煌莫高窟などは、残念ながら複写物であるが、幸い旅行中に入手した「敦煌莫高窟の珍品」という本は、壁画をそのまま撮影した珍しい本であり、現地ならでは入手出来ない珍品であった。この本を主題にして、NHKの「シルクロード 全12巻」を参照して作成した。

この「敦煌の美」が「黒川孝雄の美」の最終を飾る文集となる予定で、10回~12回程度を想定している。私も楽しんで書くが、是非皆さんも楽しんで読んでいただきたい。

敦煌跋扈窟は紀元366年に、僧楽僔(らくそん)が山に光るものを感じて、ここを霊地として第一屈を掘ったことに始まるとされる。オアシスに近づくと、山危山(さんきざん)と鳴沙山(めいさざん)が相迫って狭間を造っているが、そこには小さいオアシスの緑が帯状に置かれている。その緑の中に鳴沙山の断崖に造られた莫高窟(ばっこうくつ)は、南北1600メートルの長さで大切に保管されていたのである。

ここに収められている塑像は3千点、全壁画を横に並べると45キロに及ぶという。このすべてが4世紀から14世紀にかけて、約1千年に亙って開墾され、荘厳(しょうごん)されたもので、自然の乾燥度がこれらを守り、絶えず落ちこぼれて来る鳴沙山の砂も、これを守ってくれたのである。

敦煌文物研究所所長常書澒(じょうしょこう)氏の説明によると、現在判明している492の窟の時代配列は次の通りである。

十六國(7)、北魏(11)、西魏(7)、北周(12)、隋(79)、初唐(40)盛唐(81)、中唐(46)、南唐(60)、唐・時期不明(5)、五代(27)、宋(34)、西夏(64)、元(9ないし13)、時代不明(10ないし6)

時期不明を5として数えると、232窟を数える。

私が見たのは、跋扈窟のうち15窟程度で、全体の一部を見ただけである。しかし、当時は、まだ敦煌まで見学に来る人も少なく、有名窟を拝観することができ、敦煌莫高窟の全体を理解できるように組み立てられていた。説明者は中国の30代の美しい婦人であり、日本では成城大学の東山健吾先生の下で、「敦煌史」を学んだ女性で、美しい日本語で説明をしてくれた。非常に恵まれた環境であった。

現在は,中国も豊かになり、中国人の敦煌詣でが多いそうであるが、来街者が多すぎて、多くの有名窟を案内すると、人の吐く息で、壁画が崩れる心配があり、屈も有名窟をはぶき、見せる窟の数も5~6件程度だそうである。

敦煌石窟の写真

敦煌石窟の中には赤い色を塗ったトンガリ屋根が見える。ここは敦煌石窟の真ん中であり、130窟に当たり、26メートルの堂々たる倚座の弥勒菩薩像がお雨られている。敦煌の彫刻はどれも塑像であるが、この大仏だけが岩を削って造った唯一の石像で、その森厳な表情といい、その静まり返った体躯といい、正に盛唐のゆたかさを代表する傑作である。中は見らないかも知れないが、これから敦煌を訪れる人は必ず」、この大きな窟は拝観していただきたい。

北涼篇(421~439))

第275窟 西壁 交脚弥勒菩薩   北稜(公元 421~439)

交脚弥勒菩薩像を拝したのは初めてである。日本には伝わっていない。この像は、莫高窟現存の初期塑像中、最大の一尊の弥勒菩薩で、高さ3.4メートル。弥勒像の右手は傷つき、左手を膝に置き「与願印」し、手の掌を上に、交脚、獅子が二匹座り、頭に三珠宝冠を載せ、鈴のネックレスをつけ、瓔珞をつけ、腰にはひだスカートを纏い、スカートには泥のしわを貼り、更に線模様が彫られている。菩薩の頭が豊艶で、端正な顔つきである。莫高窟初期の代表作である。なお、日本には、残念ながら交脚佛は無い。

第272窟  西壁南側  供養菩薩  北涼(公元421~439)

十六國時期に、鳩摩羅什(くまらじゅう)が長安を訪れ各種の禅経を翻訳の後、禅経が北方を風靡し、僧人が常に座禅や念仏をしたり、観像のために、佛龕を建造した。洞窟はやや狭く、中にあるのは殆ど千仏である。図の本尊は上半身が裸状で、薄絹の天衣をまとっている。あるのはうずくまり、手腕の姿が多異で、実になまめかしくしなやかで、あっさりとした顔付である。敦煌石窟で実在した中の初期壁画の代表作である。

第272窟  洞窟の天井  伏斗式藻井  北稜(公元 421~439)

この藻井は積み重なり弐方形天井で、ドームの天井が覆頭藻井に移り変わり式の天井で、、蓮華、火焔と飛天と千仏が描かれている。ドーム天井の真ん中を浮き彫り、三重積み式四方形天井が重なり合って中心で一連の花弁をなし、別れ角は炎模様と上身裸形のの飛天の装飾、外側の周囲は忍冬雲模様。ドーム天井は高遠の感がある。

第275窟  南壁 飛天と供養菩薩    北涼(公元 421~439)

この洞窟は十六國の時期に建造され、宋朝の時期に修復された。絵に描かれた飛天と供養菩薩は本洞窟南壁に位置する一組で、飛天の構図が優美であり、菩薩の造形がいきいきとして、姿態がおだやかである。

第275窟  北壁中層  月光王本生   北稜(公言 421~439)

ビリンジェリ王は釈迦牟尼の前生で図はビリジェリ王が切実に法を求めたいと思い甘んじて自分の身に千本の針を労度叉に打たせた場面である。労度叉は左手で釘を打ち、右手は金槌を振り上げビリジェ王の胸倉叩きゆけようとしている。しかし王子はびくともせず平然としいている。このことが王子の超人的忍耐力と法を求める決意を充分にあらわしている。

北魏篇(439~535)

第259窟   北壁龕内  禅定佛像    北魏(公元439~535)

この洞窟は宋代の頃改修された。図は北壁下層の東龕内の禅定仏像であり、高さ0,92メートル。結踝跋座し、頭上に曲げを結い、面は方形で、深い沈思に入る。その造形は洒脱、厳正である。衣に刻まれた模様が自然に起伏して、誠に美しい。それに薄絹が透かしを感じさせ、出水のごとき立派な衣である。

第254窟  南壁中層東端   サッタ太子本生

この洞窟は隋代に改修された。図はサッタ太子の捨身飼虎(しゃしんしこ)物語の場面である。物語の内容は、サッタ太子とその二人の兄と一緒に狩りに出かけた時、山の中で一頭の虎が飢えに迫られて、生んだばかりの七匹の小虎を正に食べようとしているのに出会った。サッタは小虎を救おうとし、毅然として竹の先で首を出血させ、身を断崖に投じた虎の餌食となる。二人の兄は急ぎ足で宮中に戻り、サッタが虎の餌食になったことを父母に伝えた。図は王と夫人があたふたと山間へ急ぎ、死骸を抱きしめて泣き、又死骸を片付け塔を築き供養した。絵の画面の物語は生き生きとして感銘させられる。絵のアイデアが精巧であり、部署が緊密、初期の絵物語の中の傑作である。日本の法隆寺には玉虫厨子須弥座絵の「捨身飼虎図」と「捨身聞偈図」が有名な国宝がある・

第254窟  南壁  捨身飼虎   北魏(公元 439~535)

サッタ太子が捨身飼虎の感動的場面である。上部の真ん中は3人が山の中で狩りをしている時飢えた虎に出逢う。上部の西方はサッタが首を刺し血を流して身投げした。下部の東方には父母が死骸を抱き泣き入り、そして塔を築き供養する情景である。

第254窟  北壁前部中層   難陀出家   北(公元  439~535)

図は難陀が出家するのを描いた精細な感動的場面である。難陀は釈迦牟尼異母兄弟で、限りない美麗な妻がいる。釈迦は弟を剃髪させて無理に出家させた。けれども弟の難陀は妻に慕い思う気持ちが常に現れた。ある日こっそりと家へ戻った時、釈迦に発見され、連れ戻されて、厳格に訓戒され、また彼を連れて天宮を遊覧させる。諸々の天を見せた。続いて地獄を遊び、釜場の処刑を見せられる。難陀は悔い改めて、一心不乱に仏を敬いで出家し、後に羅漢と成る。図にある仏陀の右下の比丘は即ち難陀であり、東西の下方は難陀と成る。図にある仏像の右下の比丘は即ち難陀であり、東西の下方は難陀と妻がなごり惜しむ情景を表している。絵の内容は豊かで生き生きとしており、また真実感があり構想も精密で、配置もよく、敦煌石窟に残された只一幅の精品である。

第257窟  中心柱の上層にある南向きの龕 思惟菩薩 北魏(公元 439~535)

中心柱の上層にある南向きの龕の禅業造像で、眼内には弥勒菩薩が半ば跋座しており、普通思惟菩薩と呼ぶ。菩薩の高さ0.92メートル、右足を左の肘に重ね、右手の一本の指で顎を支え、上半身が前へうつむき、考えに耽っている。

 

敦煌石窟の平画や仏像類を紹介したが、ある程度、仏教の知識がないと、折角敦煌石窟を見学しても、あまり記憶に残らないだろう。私は、最低限の仏教の知識、知見があつたので、今でも明瞭に思い出すことが出来る。

(本稿は、図禄「敦煌石窟の珍品」、東山健吾「敦煌三大石窟」、「NHKシルクロード第二巻 敦煌」、井上靖著「敦煌」「楼蘭」「西域物語」「遺跡の旅・シルクロード」、東山健吾「敦煌三大石窟」を参照した)