新薬師寺   十二神将の寺

奈良市街地の南東方の高畑町にある寺院である。かって、志賀直哉がここに住み「暗夜行路」の筆をとった所である。だらだらと数百メートルの歩んだ先に、崩れ落ちた土塀に沿った小径を愉しみながら歩くと、新薬師寺の東門に着く。それを過ぎて右へ曲がると、南門に達する。「新」薬師寺は、薬師寺と混同を防ぐために「新」と付けたという意見と、「新」には「大きい」という意味があると説く人がいるが、どちらが妥当かは私には分からない。この寺の創建については正史(続日本紀)は何も語っていない。平安時代末頃に成立した東大寺要録という本によれば、天平19年(747)3月、聖務天皇の御病気平癒の祈願として、光明皇后によって建立されたものと伝える。丁度、大仏鋳造が行われた年である。東大寺要録には、次のように伝える。                         十九年丁亥三月、仁聖皇后、縁天皇不予  新薬師寺並造仏七仏薬師像     また   新薬師寺亦名香薬師寺   仏殿九間在七仏浄土七躯 左寺仁聖皇后之建立也  実忠和尚西野建石塔、為東大寺別伝、云々             とあり、仁聖皇后というのは光明皇后の諡名(おくりな)である。この寺の規模は良く判らなかったが、「仏殿九間」といい、宝亀11年(780)落雷により西塔・金堂・講堂を焼失したという。この要録の記事から察すると、東西に塔を備えた七堂伽藍完備の大寺院であったことがわかる。(詳細な歴史については、最後の文章で詳しく解説する)現在の本堂は、宝亀11年(780)の雷火に焼け残った、この寺唯一の天平の建物だが、果たして創建当初の何に当たるのであろう。金堂などの主要建物ではなく、食堂(じきどう)かなにか焼け残ったものであろう。

重要文化財  東門   木造・本瓦葺        鎌倉時代

お寺は、大半が焼け衰退したが、鎌倉時代になって解脱(げだつ)・明恵(みょうえ)両上人が一時この寺に住んだ時、再興した。東門、南門、地蔵堂、鐘楼がこの時期に建立された。

重要文化財 南門  木造・本瓦葺           鎌倉時代

現在の新薬師寺の表門であり、この南門から見る本堂正面は、素朴でしかもゆったりとした優雅な気風をたたえる。

重要文化財  地蔵堂  木造・本瓦葺        鎌倉時代

地蔵堂、鎌倉時代に、この新薬師寺に造立された。景清地蔵菩薩像と通称する鎌倉時代の菩薩像が有り、明治22年(1869)に近隣の地蔵堂から遷されたものである。昭和58年(1983)に。この像の解体修理を行ったところ、内部から裸形像の体部が発見された。納入文書により、この像は興福寺別当を勤めた実尊の追善のために弟子の尊編が造らせたことが判明した。「おたま地蔵」として寺内の香薬師堂に安置している。

重要文化財  鐘楼  木造・本瓦葺        鎌倉時代

解脱(げだつ)・明恵(みょうえ)両上人が、この寺に住んで再興した時の建造物であり、時代を感じさせる建物である。鐘楼の風情はなかなかのものである。

国宝  本堂  入母屋造、本瓦葺         奈良時代(8世紀)

やや本堂にしては屋根が低い印象である。この堂は宝亀11年(780)の雷火に焼け残った、この寺唯一の天平の建物である。果たして創建当初の何に当たるのか。二重壇の上に七間と五間、単層入母屋本瓦葺きの屋根を乗せてしっかり建てられた安定感や、伸び伸びとした大棟、ゆるやかな屋根勾配、深い軒の出、太く簡素な柱と木組みの線、天平建築のみが持つ気品と体臭を感ずる。同時代の唐招提寺金堂とやはり時代的に通じる共通した気品を感ずる。より以上に簡明であるのは、もともとこの堂が、金堂などの主要建物ではなく、食堂(じきどう)か何かの焼け残ったものであるためなのだろう。内部はカワラ敷きの土間、中央五間・二間が内陣で、周囲の一間通りが外陣になっている。内外陣とも化粧屋根裏で、大杜、肘木、虹梁、又首などの構造法はいずれもいたって簡単に要領よく間とまとめられており、外観のみではなく、その内部からも天平の気品が満ちあふれている。

国宝本尊薬師如来坐像と十二神将造平安時代と奈良時代(8世紀)

内陣の中央、白漆喰でつき固めた円形の土壇という珍しい仏壇の上に本尊薬師如来像(国宝・平安時代)であり、これを取り囲むようにして十二神将が円形を描いて安置されている。塑像十二神将立像(国宝・奈良時代)。約1・8メートルの塑像群が、円陣をつくって思い思いの姿態で立っている様はまさに圧巻である。十二神将は薬師如来の十二本願を守護する武将たちで後世もその作例は多いが、塑像で、しかも等身大の堂々たる法量を持ち、写実とともに内造する精神を持ち、制作年代も奈良時代であるというこれらの像に勝るものは無い。十二神将の白眉の像である。これらの像は、元来、この新薬師寺に伝わったものではなく、もと高円山にあった岩淵寺が荒廃したので、ここに移しものだと言う。十二体のうち波夷羅大将の一体は最近の後補であり、国宝ではない。十二神将の塑像の美しさもさることながら、この円陣を組む構成の美しさは他に比類を観ないものと思う。

本尊  薬師如来坐像  木造      平安時代初期(8世紀末頃)

制作年代は記録が無く不明であるが、新薬師寺の創建期までさかのぼらず、平安時代初期・8世紀末頃の作と見られる。坐像で高さ約2メートル近い。頭、躰の主要部分はカヤから造り出し、これに脚部、両脇の一部を繋ぎ合わせるように造られている。一般の仏眼に較べ眼が大きいのが特徴で、「聖務天皇の眼病を光明皇后が眼病平癒を祈願して新薬師寺を創建した」との伝承がある。(まったく逆の伝承もある)昭和50年(1975)の調査の際、像内から平安時代初期と見られる法華経8巻が発見され、国宝の「附(つけたり)」として指定されている。光背には六体の化仏が配されていて、像本体と合せると七体となり「七仏薬師経」を表現していると見られる。(詳細は、後の文章を参考にしてもらいたい)

国宝  十二神将像のうち迷企羅(めきら)像       奈良時代(8世紀)

十二神将と言えば、迷企羅像である。本尊に向かって右側に立つ迷企羅(めきら)像は、私の好みであり、カット眼を開き、怒りを表す像の魅力は最大である。会津八一氏は鹿鳴集の中に歌を残している。「たびびと に ひらく みどう の しとみ より めきら が たち に あさひ さしたり」やはり会津八一氏も、一番好んだ神将だったのであろう。それどころか、入江泰吉氏も、迷企羅像の、素晴らしいカットを残している。十二神将のすべての写真があるが、この像のみで、他は類推して頂きたい。

国宝  十二神将立像のうち迷企羅像    奈良時代  入江泰吉氏撮影

入江泰吉氏は、氏の写真集である「入江泰吉大和古寺巡礼 全6巻」の内の「第1巻 平城京」の中の「新薬師寺・十二神将」の項で、迷企羅像の写真を出して、次のように述べている。「本尊薬師如来を取り囲む守護神、十二神将のなかでも特に傑出した天平期の仏像である。悪魔を取り払う勇猛さが全身にみなぎって、私の好きな仏像の一つである。」この入江泰吉氏の言葉を見つけた私の思いは、いかばりであったろうか。入江泰吉氏は、昭和20年代に大和古寺巡礼をした者にとっては、神様のような存在であった。その思いは今も変わらない。

国宝  十二神将  迷企羅像   彩色再現CG  奈良時代

彩色は、奈良県立大学の研究者が色付けしたものである。「三次元レーザー計測で迷企羅大将の三次元化を行い、鮮やかに彩られていた天平時代の彩色を再現した」と説明している。尚、お寺では、この彩色の過程をテレビ化して、映像を流している。しかし、このまばゆいばかりのメキラ神将は、私には違和感が大きい。

今は無き香薬師像

このお寺には、もう一体の代表的な仏像があった。白鳳期の造仏を代表する傑作であった。この仏像は、小さいためか、可愛いためか、明治期に2回盗難にあい、2回とも短期間に発見された。しかし、昭和18年(1943)に盗難にあったまま、行方が知れない。もう70年以上経過するので、発見は難しいと思われる。誠に痛恨の極みである。白鳳仏の愛らしいお姿であるだけに、痛ましい。現在は、模作が展示されている。

会津八一氏歌碑                昭和時代(20世紀)

この無くなった香薬師像を会津八一氏がうたった歌碑である。「ちかづきて あふぎ みれども みほとけ の みそなわす とも あらぬ さびしさ」

重要文化財 十一面観音菩薩立像  木造彩色  平安時代(11世紀)奈良国立博物館寄託

平安時代初期の代表作である国宝・薬師如来坐像を安置する新薬師寺本土に伝来し、ある時期に薬師寺像の脇侍として安置されていた。きわめて保存状態の良い像で、頭上面の大半や体側を垂加する天衣(てんね)の遊里部、表面の彩色、また光背、台座まで当初のものを伝える。腹部に塑土(そど)を盛り上げて成形する珍しい技法を併用する。木製の板光背を負うことや、胴板切抜きの宝冠をつけるところなど、室生寺金堂の十一面観音像に通ずる。室生寺像に比べ制作年代は1世紀近く降るかもしれないが、南都の技法の伝承があったことを推測させる。この素晴らしい十一面観音菩薩立像が、万一新薬師寺の薬師如来坐像の脇仏として立っていたら、観光客は、現在の10倍になったであろう。それほど素晴らしい菩薩像である。これお奈良国立博物館で発見した時は、正に天にも昇る気持ちであった。この寄託仏の写真をお見せするのは、多分私が最初だろう。

重要文化物 准聤観音(じゅんていかんのん)菩薩立像 木造 彩色 平安時代(10世紀)奈良国立博物館寄託

千手観音として指定されているが、儀軌(ぎき)に合わず、准聤観音(じゅんていかんのん)である可能性が考えられる。サクラ材を用いた一木造りの像。原材の丸太を思わせるような体形や、像内に丸枘穴(まるほぞあな)をあけて台座から出した枘を差し立てる仕様など、平安時代中期の特徴が認められる。現在の表面の彩色は少し下った時期のものとみられ、光背も鎌倉時代の補作であろう。台座の蓮弁の一枚に天禄元年(970)の墨書銘があり、これを造像年と見なす見解がある。奈良・新薬師寺蔵(多分、これは新薬師寺の関係者が戦後、売りに出したものが文化庁の手に入ったものであろう)そういう意味で、この観音菩薩像は、戦後の荒れた人心を示す見本であろう。(新薬師寺が荒れていた時代があったそうだ)なお、私見として、この2体が本尊の両脇に立つ侍仏と見たい。(そうなれば、国指定通り千手観音菩薩立像と見ることができる)

 

正史に創建時の歴史が記録されないため、平安末期に成立した東大寺要録で、この寺の歴史が語られることが多い。東大寺要録によれば、新薬師寺は東大寺の末寺であり、同書の巻1には「天平19年(747)、光明皇后が夫聖務天皇の病気平癒のため新薬師寺を建て、七仏薬師像を造った」とある。同書巻6・末寺章によれば、新薬師寺は別名香薬師寺といい、九間の仏堂に「七仏(薬師)浄土七躯」があったと言う。「続日本紀」によると天平17年(745)9月に聖務天皇の病気平癒のため、京師と畿内の諸寺に薬師悔過(けか)の法の実施命じ、また諸国に「薬師仏七躯高六尺三寸」の造立を命じている。新薬師寺の創建は、この七仏薬師造立の勅命にかかわるものと見られている。先に述べた通り、新薬師寺には香薬師寺という別名があったと伝えられているが、「正倉院文書」によれば、これとは別にやはり光明皇后創建と伝える「香山寺」という寺の名が見られる。正倉院には、東大寺の寺地の範囲を示した[東大寺山偕四至図」という絵図がある。この絵図を見ると、現・新薬師寺の位置に「新薬師寺」、東方の春日山中に[香山寺」の所在が明記され、絵図が完成した天平勝宝8年(756)の時点では、この両寺院は併存していたことが明らかである。福山敏雄博士は、次のように説明している。「続日本紀天平17年(745)9月の条に聖務天皇不予のため京師・畿内の諸寺及び緒名山浄所において薬師悔過の法を行わせたのは,香山寺が京師近傍のため、それにあたるのではないか。その後更に、皇后の御願として西方の平地に大規模な七仏薬師堂が建てられ、これを新薬師寺と呼び、香山の上の堂との由緒上つながりによって、香山薬師寺とも称されたものと考える。こうして七体の薬師像を本尊として規模を誇った新薬師寺も宝亀11年(780)金堂・講堂・西塔を雷火に失い、延暦12年(793)東大寺領の中から百戸を割いて修理料にあてた等の記事が見える。応和2年(1162)、台風のために金堂以下諸堂が倒れた後は、昔年のおもかげを失った。その後、鎌倉時代になって解脱(げだつ)・明恵(みょうえ)両上人が一時この寺に住した時に再興し、東門、南門、地蔵堂、鐘楼(いずれも重文)が建立された。平成20年(2008)、奈良教育大学の校舎改築に伴う発掘調査が行われ、同大学構内で新薬師寺金堂跡と見られる大型建物跡が検出された。同年10月の奈良県立大学の発表によると、検出された建物跡は基壇の規模が正面54メートル、奥行27メートルと推定され、基壇を構成したと思われる板状の凝灰岩や、柱の基礎を支えていたとみられる、石を敷き詰めた遺構などが出土した。当地は現・新薬師寺の西約150メートルに位置し、先に述べた「東大寺山境四至図」にある新薬師寺の七仏薬師堂に相当する建物跡と推定されている。更に十二神将像について、会津八一氏は南京新唱の注で、次のように述べている。「本尊薬師如来像を囲む十二神将は、本尊よりも古き様式を持つのみならず、廃絶せる岩淵寺より移入せるという伝説あり。またこの寺の最初の十二神将は、何の時か興福寺の衆徒のために奪い去られて、その寺の東金堂の段上に陳列され居りしことは、保延6年(1140)の「七大寺巡礼私記」に記しあれども、これ等の神将像は、かの治承4年(1180)の罹災によりて全滅して、今また見るべからず」誠に、この寺の十二神将像は、多難な歴史を辿って、私たちに美しいフォルムを見せてくれているのである。

(本稿は、青山茂他「大和古寺巡礼」、会津八一「自注鹿鳴集」、探訪日本の古寺第12巻「奈良Ⅲ」、入江泰吉大和古寺巡礼「第1巻 平城京」、原色日本の美術「第3巻 奈良の寺院と天平彫刻」を参照した。)