日本書記成立 1300年 特別展 出雲と大和(7)

六世紀半ばに伝来した仏教などの先進的な文明によって、社会に大きな変化が生じ、古墳が果たした政治や権力の象徴としての役割は、寺院が担うようになった。仏教への信仰は天皇、貴族、地方豪族へと広まりをみせ、飛鳥時代後期には、全国各地に寺院が造られるようになった。朝廷は遣隋使や遣唐使がもたらした最新の知識を受け入れながら、新しい国の形を整えていった。また仏教における鎮護国家の理念のもとに四天皇像のような国を守護する尊像を造らせ、寺院の建立を進めた。本稿では,天皇を中心に仏教を基本とした国づくりが進められるなかで、国家の安泰と人々の生活の安寧を祈り誕生した造形を紹介する。

重文 如来及び両脇侍立像 朝鮮半島・三国時代あるいは飛鳥時代(6世紀)東京国立博物館

「日本書記」によると、百済から日本へ仏教が伝来した際に、金銅の釈迦如来像が献じられたという。このように、6世紀から7世紀には朝鮮半島から数多くの金銅仏がもたらされ、比較的現存しているが、法隆寺献納佛(四十八体佛とも呼ばれる)に含まれるこの仏像はその代表例と言えるものである。朝鮮半島に現存する像との比較から、百済系の作例であることが指摘されている。この仏像と、次の仏像は、明治時代に法隆寺より朝廷に寄贈されたもので、一般的に「法隆寺献納宝物」と呼ばれ、現在では東京国立博物館の別館にて常時展覧されている。1996年に東京国立博物館で「特別展 法隆寺献納宝物展」が開催され、その図録では「朝鮮半島(6~7世紀)」とされていたが、その後、中国三国時代、あるいは飛鳥時代(6~7世紀)と、意見が変更されている。新しい見解によれば、中尊は、鋳造に用いられる銅以外の錫や鉛の含有率が日本金銅よりも多く、韓半島製金銅仏から錫が多く検出される傾向とも合致していた。一方、両脇侍は百パーセントに近い銅(純銅)で造られており、中尊の成分と大きく異なっていた。本三尊像は、中尊が韓半島製、両脇侍は日本製である可能性が高い、(この見解は、特別展の図録による)

重文 如来坐像 一躯  飛鳥時代(7世紀) 東京国立博物館(法隆寺献納佛)

この仏像は「止利派の像」とされる。止利派の像とは、飛鳥時代の仏師止利が623年に造った法隆寺金堂釈迦三尊像と、作法や技法が近似する像が多く残されている作品群の呼称である。それらは止利が主催する工房の作品と考えられている。止利の名は「日本書記」にも観られ、その活躍ぶりが推測される。法隆寺像の杏仁形とも呼ばれる目、両端を上げる唇、面長な顔、複雑な衣文線は、6世紀初頭に造られた中国の龍文賓陽中洞の中尊像に近似するが、眼の形などには、それと異なる表現も見られ、作風の広がりが浮か逢える。

重分 十一面観音菩薩像 中国・唐時代(7世紀) 東京国立博物館

中国における観音信仰は三世紀まで遡るが、その中でも最も早く流行したのが十一面観音である。本像は、頭部から足臍に至るまで亜熱帯性香木の白檀の一材から彫り出す中国壇像の傑作の一つである。後補部を除き、頭上面、化佛、瓔珞などの細部も同木から彫り出しており、超絶技巧とも言うべき精緻さをみせる。目鼻立ちのくっきりした特徴的な面貌は、5世紀半ば以降のインド・グプタ朝、ないしはポストグブタ朝の造形的影響を受けるのは、唐・貞観19年(645)に玄奘がインドから帰朝してからのことであり、本像も初唐におけるインドブームの中で造られた。本像には、形式的、作風的に古い要素が認められることから、写実を旨とする初唐様式が完成する以前の7世紀半ばの頃の作であり、伝統的な造形様式と新たな造形的影響を混然一体に示す、きわめて魅力的な像である。

重文 時国天立像 白鳳時代(7世紀) 脱乾漆漆造・彩色 當麻寺

奈良時代の東西両塔を備える當麻寺は、私には「あこがれ」の寺である。図鑑では飛鳥時代となっている、私はむしろ美術の世界で使われる「白鳳時代」と呼びたい。(お寺の表現は飛鳥時代後期となっている)當麻寺金銅の本尊弥勒菩薩像の眷属として、須弥壇上に安置される。四天王像としては法隆寺四天王像に次ぐ古い作品である。7世紀後半に大陸から新たに導入された脱乾漆の技法で造られた像としてはわが国最古の違例である。奈良時代以降の四天王像が激しく動きを表すのに対して直立の静的な姿であり、長く垂れる大袖や裙の裾肩にかかる領巾(ひれ)など古様な表現を示す。髭をたくわえた神将像は日本では類例がなく、異国的かつ現実的な面貌表現は中国・唐の長安付近で流行した神将像の様式に淵源をたどることができる。身に着けた甲冑は朝鮮半島の新羅の神将像と共通することが指摘されている。持国天像は四駆のうち最も多く制作当初の部分を残しているが、全身に修理が加えられている。當麻寺は「建久御巡礼記」(1191)によると、天武天皇9年(681)に壬申の乱功績をあげた当麻真人国見より、その氏寺として創建された。本尊は7世紀後半の制作と見られる塑像であるが、四天王像は大きさや材質から見て本尊よりも格上であると言え、官寺クラスの寺院からの移入とも考えられる。

重文 浮彫伝薬師三尊造 石造、彩色・漆箔 飛鳥~奈良時代(7~8世紀)奈良~飛鳥時代(7~8世紀)奈良・石井寺

三輪山の南方、桜井市忍坂に所在する石井寺に伝わり、現在は寺収蔵庫に安置される石仏である。(私は初見である)今回、台座の修理に合わせて初めて寺外に公開されることになった。忍坂は「日本書記」にその名が見え、古代から残る地名である。本像は三角形に切り出した石に、三尊像を浮き彫りで表わし、いたる所に鑿の痕が残。中尊の如来像は袈裟を片袒右肩にまとい、善上印を結んで座る。左右両脇の菩薩像は合掌し、中尊側をわずかに動かす。中尊の頭上には天蓋、右脇祇菩薩像の足下に水瓶を造り出している。裙や裾の一部に彩色、数か所に漆が残る。このような様式を持つ椅座形の如来像は初唐期のインドブームの影響により流行した姿であり、日本では飛鳥時代後期(白鳳期)に多く造られた。日本では古代の石仏の違例が少ない中で、保存状態も極めて良く、大変貴重な作例である。

国宝 広目天立像 一躯 像高 189、7cm 奈良・當麻寺

 

国宝 多聞天立像 一躯 像高188.6cm 奈良・當麻寺

奈良西の京に位置する唐招提寺は、南都六宗の一つ律修の総本山である。奈良時代、戒律を伝えるため唐から来日した鑑真和上により創建された。奈良時代には鎮護国家を目的とした四天王像が多く造られが、本造もまた代表的な作例であり、金銅の須弥壇上に安置される四天王像のうちの二体である。構造は頭体部から岩座の中心部までカヤの一材から造り、背面から内繰りを施す。甲や天衣など部分的に木糞漆を用いて成形し、表面に彩色を施している。広目天像では胸当の飾りの座として梅花型を表しており、多聞天像は上歯をのぞかせるなど、四天王像の細部の造形にはそれぞれ変化を求めた配慮が見られる。また両腕から垂れる大袖衣の先端を結ぶことや、腰甲の裾から裳を垂らす表現、幅広の胸帯を締める点などに、唐代彫刻の新たな影響が見られる。日本の木彫像は、鑑真の来日を契機として盛んになり、本造の制作にも唐人の工人の関与が考えられる。一方で、伝統的な素材である木糞漆も積極的に使用されており、新旧の技法が併用される。

重分 楊柳観音菩薩立像 一躯 奈良時代(8世紀) 奈良・大安寺

両目を大きく見開き眉根をしかめて怒りの表情を見せる。得意な姿の菩薩像である。開口し、目を怒らせることで隆起した顔の筋肉を巧みに捉えており、像に生気ある魅力を巧みに捉えており、像に生気ある魅力を与えている。構造は、頭部から岩座までを木心をこめたカヤの一材から彫り出し、背面の三か所から背刳りを施す。頭上の髻と鼻先に加え、左腕の臂から先、右腕の肩から先が後補であるため当初の手の構えは不明である。楊柳観音の尊名は後世のもので、同じく菩薩業行の憤怒像である同寺千手観音像とともに空海によって日本に密教が伝えられる前の初期的な密教尊像として貴重な作例である。(なお、私は「黒川孝雄の美 大安寺」(2019年6月16日)の稿で「和辻や亀井の{古寺巡礼」等には、一度も出たことが無く」と書いているが、丁寧に和辻氏の「古寺巡礼」を読んでみると「大安寺」の「楊柳観音など」と書いている。しかし、和辻氏の古寺巡礼には、「大安寺の楊柳観音の名が出てくる」のである。それは当時(大正7年頃)には、奈良博物館に各寺が仏像を寄託しており、博物館で見た仏像の印象を記しているのであり、大安寺のお寺までは行っている訳ではない。仏寺を見ないで、仏像を語ってはいけないと思う。仏像は美術品ではない。精神世界のものであり、やはり仏寺を見てから印象を述べるべきではないかと思った)

重文 多聞天立像 一躯  木造彩色 奈良時代(8世紀) 奈良・大安寺

大安寺の草創には、伝説では聖徳太子建立の熊懲精舎に遡るとされるが、歴史的には舒明天皇11年(639)に、わが国初の勅願時として建立された百済大寺を始まりとする。その後天武朝の高市大寺、藤原京の大官大寺と改称し、平安奠都とともに現地に移され、大安寺と改称した。奈良時代には南都七大寺の筆頭として、東西二基の七重塔を擁する大伽藍を誇った寺である。本像は大安寺に伝わる木造四天王像のうちの一躯で、最も作行きが優れる。冑をかぶり、目を怒らせて上歯で下唇を噛み強い憤怒の相を示す。天平後期における新たな唐時代の影響により造立されたとみられる。

大和の仏像を中心に紹介したが、たはり仏教の伝来、仏殿の新築、仏像の国内産出など、日本文化が急速に進展した様が見て取れる。仏像は中国、朝鮮半島の影響を受けて、生まれたが、結局日本独自の装飾や、日本毒の尊格を生み出し、「仏教の日本化」が進む状態が理解できる。この当たりになると私の得意の分野でもあり、懐かしく、楽しく記事が書けた。なお、最後の大安寺について、和辻哲郎氏の「古寺巡礼」に、触れられていなと述べたことがあるが、私は奈良へ行き始めた昭和27年頃には、奈良博物館でいろんなお寺の仏像を保管し、展示していた。和辻氏も奈良博物館で「大安寺」の仏像(楊柳観音等)を見て、感想を述べているので、和辻氏は「大安寺に触れていない」という前言は撤回する。但し、大安寺の古跡へは行っていないようである。そういう意味で「和辻氏は大安寺に触れていない」ことは、はっきりしておきたい。なお、亀井、竹山氏の古寺巡礼式の記事には一切大安寺が出てこないことは事実である。

(図録「日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和」、図録「古事記成立1300年 特別展 出雲ー聖地の至宝  2012年」、直木考次郎「古代国家の成立」、和辻哲郎「古寺巡礼、江上波夫「騎馬民族国家」を参照した)